第二十八話 生かしてはおけない。
「でも、でも……。それなら、私はツェラやトーニと一緒に……」
「万が一、魔物が襲ってきたら、彼女たちでは対処できない。みすみす犠牲を多くするかもしれないような部屋割りを、僕が了承すると思う?」
ファーナの最後のあがきは、納得せざるをえない理由で却下された。
彼の口にした最悪の事態を想像して怖くなり、彼女は無意識に胸のあたりを手で押さえた。
「安心して。君が嫌がることはなにもしない。ただ、君のそばにいて、君を守るよ。だからファーナは安心して眠って。ほら――」
エドガルトは彼女の手を取り、ベッドへと横たわらせた。
どこまでが軽口で、どこまでが本気なのか、全くわからない彼の言動に、まだファーナは戸惑っている。
寝かしつけられた子どもが寝かしつけた親を見上げるような、不安とも不平ともとれる眼差しがエドガルトをまっすぐに見つめた。
エドガルトはその視線に苦笑いを浮かべる。
「なにも心配しなくていい。疲れているのに夜更かしするのは体に悪い。君が眠るまでこうしていてあげるから、今はなにも考えずにお休み」
エドガルトはベッドの端に腰を下ろし、愛おしげな手つきで頭を撫でた。
もう一方の手はファーナの手を優しく握っている。
「なにも怖いことは起きない。おやすみ、ファーナ」
そう囁いて、ファーナの両瞼に相次いでキスを降らせた。
すると、あれほど目が冴えていたというのに、急激に眠気が襲ってきた。
「エドガ……ト……さ……」
最後まで言えないうちに、ファーナはすっと眠りの海へと落ちていった。
「お休み、ファーナ。いい夢を」
眠りに落ちた彼女の額に名残惜しげなキスをすると、エドガルトは静かに立ち上がった。
虚空に向かってなにやら文字を書きながら、
「ニャーとギィ、ちょっと来て」
独り言をつぶやいた。
途端、なにもなかったはずの虚空に、ぽん! と小気味よい音とともにギィとニャーが現れた。
「なんだ、アルジ?」
「ギー?」
「やぁ、ふたりとも。ファーナが寝てるからちょっと小さな声で、ね?」
エドガルトが人差し指を口に当てて「しー」と言うと、二匹の使い魔も彼を真似て人差し指らしきものをそれぞれ口に当てた。
「ねぇ、ふたりとも。ちょっと聞きたいことがあるんだ。僕が一時的に強化した町の結界と、この屋敷の結界、二つを超えてファーナの気配は外に漏れてると思う?」
「それはねーな。アルジの結界は強力だから、この屋敷からも出てないだろうさ」
ニャーが断言して、ギィも同意するように腕を振った。
「なるほど。じゃあ、もし魔物が集まるとしたらどこかな?」
「そうさなぁ。アレじゃねえか? 姫さんの残り香をめぐって町の外でもうろちょろしてんじゃねーか?」
ニャーのいた森から町へと続く一本道のを魔物がうろついているだろうと言うのだ。
「そうか。じゃ、もうひとつ質問。そうやってうろちょろしてる魔物の中に、君たちより強いやつはいるかな?」
「いるわけねーだろ! 残り香に誘われてふらふらしてるなんぞ、雑魚のやるこった」
そんな雑魚と一緒にすんな! とニャーは憤慨する。どうやらいたくプライドを傷つけられたらしい。
「よし、わかった。じゃあ、ふたりにほんのちょっとだけ僕の力も貸してあげるから……」
「ん? なんだ? なにすればいい?」
「ファーナの残り香に群がっているその雑魚どもを、ふたりで全部喰らっておいで。たいした力にもならないだろうけれど、それでも多少は君たちの糧になるだろう。どう?」
「おし、その話、乗ったぜ、アルジ!」
「ギー!」
二匹は即座に返答した。
「うん。ふたりともいい返事だ。じゃあ、頼んだよ」
エドガルトは二匹の前にてをかざす。小さく呪文と唱えるとエドガルトの手に光の球が生まれ、それはそれぞれ二匹の中へ入っていった。
「おー! こりゃすげーな!」
「ギー!」
突如みなぎった力に喜ぶふたりのために、エドガルトは部屋の窓を開けた。埃を取り払ってはあるものの、油が切れているようで蝶番が軋んだ。
「一匹残らず殲滅してくるんだよ。本当は僕がこの手で滅ぼしてやりたいんだけど、ファーナの寝顔を見守るほうが大事だからね。君たちを信頼して任せる」
「おう! 安心して待ってろ! ――ギィ、行こうぜ!」
「ギー!」
二匹は連れ立ち、意気揚々と夜の闇に消えていった。
「本当に自分の手で屠りたかったんだけどなぁ。残念だ」
窓を元通り閉じたエドガルトはそう独りごちて、己の手のひらをじっと見つめた。
ファーナの髪一筋どころか、残り香すら魔物たちになんてくれてやりたくなかった。
「誰にもやらない。ファーナは僕だけのファーナなんだから」
翡翠色の虹彩が陰り、凄惨な色味を増した。
見えない虫を握りつぶすかのように、エドガルトはぎゅっと手を握りしめた。
部屋の空気ががらりと変わったのを察知したのか、エドガルトの声に反応したのか、ファーナが小さく身じろぎをした。
その衣擦れの音で、エドガルトは我に返った。
うつむけていた顔を上げ、ファーナの様子を見やる彼の目も表情もいつも通りだ。
身じろぎはしたが、目は覚ましていない。
彼女の安眠を妨げなかったことに安堵した彼は、音もなく移動して自分のベッドへと体を投げ出した。
「どうして、ファーナの顔は遠い異国の生き物になったんだろう?」
対象者を人々から忌み嫌われる存在へ貶めるための呪いなら、カナヘビではなく、もっとなじみ深い生き物――それこそ蛇でも蜥蜴でも――でよかったのではないか?
しかし、彼の問いに答えを与えるものは、その場にはいなかった。
「まぁ、それもいずれわかるだろう。とりあえず、明日はニャーに知っていることを洗いざらい話してもらおう」
ファーナによれば、ニャーが彼女を襲った際、『王妃の呪い』と繰り返しながら浮かれていたという。
呪いは魔力の塊、魔物にとっては格好の餌だ。
呪いを受けたものを喰らえば、魔力をもつもの――それには魔物だけでなく、魔力を有する人間も含まれる――を喰らったのと同様に力を手に入れられるのだ。
しかも呪いを受けている者は、魔力を有する者と違って非力なことが多いし、しかも呪いによって体が弱っていることも多いからだ。
「臆病な魔物たちが警戒心を忘れて襲うほど、ファーナは魅力的な餌なのか? だとしたらそれは……相当に強力な呪いだね」
ギィがツェラを襲ったのは、ツェラ自身の生気に惹かれた可能性もあるが、彼女がまとっていたファーナの外套に移っていた残り香に惹かれたからかもしれない。
そう仮定すれば、ファーナの呪いはとんでもなく強いということになる。
今夜、彼女の残り香にどれだけの数の魔物が群がるかも、目安のひとつになりそうだ。
「明日の朝が楽しみだ」
ニャーとギィがどれだけ魔物を喰らってくるか。それによりどれだけ強くなって帰ってくるか。
ニャーから聞き出すはずの王妃の呪いの話。
顔を隠さずに堂々と朝食を取るだろうファーナの強さ。
楽しみなことはたくさんあるのだ。