第二十一話 悲鳴だってあげたくなります。
「落ち着いたら、もっと東の国の話を聞かせてくださいね」
「ああ、もちろん。君が聞きたいと望んでくれるなら、いくらでも話すよ」
エドガルトはファーナの隣に腰を下ろし、彼女の手をぎゅっと包み込んだ。
「東の国の話も、魔術学院の話も、なんでも。その代わり、君も話してほしい。僕と離れていた間、なにをして過ごしていたのか、どんなことが起きたのか。僕が知らないことなどひとつもなくなるくらい、たくさん、たくさん話してほしい」
こくりと頷くファーナの頭を引き寄せ、エドガルトは優しい手つきで頭を撫でた。
「私の話など、エドガルト様に比べたら取るに足らないことばかりですわ。きっと途中で飽きてしまわれると思います」
「そんなことないさ。君のことなら何でも知りたい」
自嘲と遠慮のこもったファーナの言葉に、エドガルトは心外だと言いたげに目を丸くする。
「よし、遠慮がちな君のために、思い出を詳細に打ち明けるべき合理的な理由を差し上げよう」
「合理的な理由?」
ファーナが小首をかしげると、エドガルトは我が意を得たりと笑う。
遠慮ばかりで自分のことを後回しにしがちなファーナだが、理にかなうと納得しさえすれば、その限りではなくなるのだ。
「君の呪いはね、君自身を狙ってつけられたものじゃなさそうだ」
「どうしてそうわかるのですか?」
「呪いには大別して二種類ある。それは誰かを狙ってかけるもの、もう一つは条件がそろうとかかるもの。この見分けは簡単だ」
エドガルトは身振り手振りを交えて説明をはじめる。
「前者の場合、かけられた者に印が浮かぶ」
「印ですか。それはどのようなものなのでしょうか?」
「特に形は決まっていない。丸くて中に紋章のように複雑な模様が浮かぶものや、炎のような形をしたものが多いかな? その印を見れば、どんな呪いがかけられたのか、おおよその見当がつくこともある」
言われて、ファーナは記憶を探る。自分で見える範囲に変な印はない。トーニやツェラからもなにも報告されていないし、自分で見えない部分にもないはずだ。
「たぶんそのようなものはないと思います」
「だろうね。君の場合、魔力を感じるのは、カナヘビに変化したところだけだから、体に印はないと思う。そして、変化した部分はいま僕が目視したけれど、見当たらない」
なぜ、エドガルトがあれほど詳細に頭や首を見たがっていたのか、ようやく得心がいった。
はじめから理由を教えてくれればよかったのにと思うが、エドガルトはあまり真面目な物言いを好まない。いつも不思議な言葉でファーナを煙に巻くのだ。
今日は特にその傾向が強いと感じていたのだが、いまはようやくなりを潜めている。
「――ということは、消去法で、君の呪いは後者だということになる。どこかで呪いを受けたんだろう。それを探るには本人の記憶が頼りだ。どう? 納得してくれた?」
「はい。納得しました。この呪いは半年前にかかったものなのでしょうか?」
それならなんとか記憶もまだ鮮明だろうが、これが一年も二年も昔だったら覚えていることも少ない。
「うーん。どうだろう。いつ呪いを受けたのか、見た感じではわからないな。もしかしたらずっとずっと昔にかかっていて、発動したのが最近ということも考えられる」
「そう、ですか……。あまり昔だと記憶も曖昧で」
「そんな真剣に悩まなくていいよ。呪いについては明日ニャーに詳しく聞くし、君の思い出を聞きたいのは僕のわがままで、君が話しやすい理由付けをしただけだから。そのついでに何か手がかりがあったらいいかなって思っただけだよ」
エドガルトはにこにこと屈託なく笑いながら、握ったファーナの手をすりすりと撫でる。彼が上機嫌なのはファーナも嬉しいが、ドキドキが止まらなくてつらいので手は離してほしい。
それとなく手を引こうとするたび、敏感に察知して阻止されるので、なかなかうまく逃げられない。
(手でさえ逃げられないのだから、逃亡なんて大それた計画がうまくいくわけなかったわね)
そんなことが脳裏に浮かび、ファーナの口から苦笑いを込めたため息が漏れる。
「ねぇ、さっきからなんで逃げようとするのかな、ファーナ?」
「えっ!?」
どうやら彼にはお見通しだったらしい。
驚いて身を起こしたファーナに、エドガルトが覆い被さるように顔を近づける。
「逃げられると追いかけたくなるんだけどな」
そう言って笑うエドガルトの顔は、不規則に揺らめくろうそくの炎に複雑な陰影を映している。
屈託のない笑顔にも、何かを含んでいるようにも見え、果ては翡翠の目の奥に昏い陰りのようなものまで感じた気がして、ファーナは息を飲んだ。
「隙あり」
弾んだ声とともに、エドガルトはファーナの口の端にちゅっと音を立ててキスをした。
柔らかい唇の感触はないが、それでも充分に満足だった。
目の前には大きな黒い目を白黒させるファーナ。もともとの目の色が見えないのは寂しいが、それはいつか呪いを解いてから堪能するからいいのだ。
濡れたように光る黒い目も可愛いじゃないか。
ふふ、と忍び笑う彼の目の前で、ファーナはなにかを言いかけては黙る。
口をパクパクする様子はエドガルトのいたずら心を妙にくすぐるから始末に悪い。
「ほら、また隙が……」
調子に乗ってもう一度キスしようとしたが、今度はファーナも即座に我に返った。
「エドガルト様!! お戯れが過ぎますっ! きゃーーーーーっ!」
絹を裂くような悲鳴。
と、同時に。
「ファーナ様! いかがなさいました!? 賊ですか、魔物ですかっ」
真剣な声と同時に、大きな音を立てて部屋のドアが放たれた。
目に止まらぬ早さで駆け込んできたトーニの両手には、小ぶりなナイフが三つずつ握られている。腰を低くした構えは、戦闘する気満々だ。
「ひっ!?」
突然の大きな音にファーナは身をすくめた。もしかしてもう魔物の襲撃があったのかと心臓が早鐘を打つ。
「――何事だ?」
エドガルトはファーナより冷静だった。問う声は心底忌々しそうな口調で、舌打ちをしないのが不思議なほどだ。
躍り込んできたトーニはエドガルトの言葉にきょとんとし、それからふたりの様子を見て、慌てて戦闘態勢を解いた。
「いえ、いま、ファーナ様の悲鳴が聞こえたものですから、その……し、失礼いたしました!」
声の抑揚は乏しいが、彼女が慌てているのは一目瞭然だった。顔どころか耳まで真っ赤になっている。
どうしてそんな顔を? と首をかしげたファーナだが、すぐさま理由を理解して、今度は自分でも慌てた。
二度目のキスをしようとしたエドガルトの腕は、そのまま彼女の腕を掴んでいるし、そもそもこの密着具合は恋人のそれだ。
「おっ、お楽しみのところを申し訳ありませんでした」
「おたの……!?」
「あとで参りますので、どうぞ続きを……」
とんでもない誤解だ。
そしてとんでもない気遣いだ。いくらなんでもそんな気遣いはいらない。
「ち、違うのよ、そういうことじゃなくて! トーニ、待って!」
一礼して出て行こうとしているトーニを、ファーナは慌てて引き留めた。
「なんでございましょうか?」
そう改まって訊かれて、ファーナは答えに窮した。誤解を解こうと思ってはいるが、仲睦まじく語らっていたのは真実だ。どう説明して誤解を解けばいいのやら……。話しても理解してもらえるかどうか。
迷っている間に、エドガルトが深々とため息をついた。
「やれやれ、全くだよ。せっかくいいところだったのに」
トーニの言った『お楽しみ』をそのまま肯定している。
ファーナが非難の目を隣に向けても、エドガルトは知らん顔だ。
「本当に申し訳ございません。夕食の支度が調いましたのでお知らせにあがったのですが、ファーナ様の悲鳴に取り乱してしまいました」
「そう。まぁ、こういう状況だから仕方ないね。悲鳴を聞いて駆けつけたのはいい判断だ。責められない」
そう言うとエドガルトは立ち上がり、次いで、ファーナが立ち上がるのに手を貸す。
「みんなを待たせてはいけない。ファーナ、行こうか」
「いえ、私は……」
ファーナはふるふると首を横に振った。
食事をみんなとともにすることはできない。
「どうして? まさか、人間の食事を受け付けない? カナヘビと同じものしか食べられないとか? それとももっと別のもの?」
矢継ぎ早の質問に驚いた。
見上げたエドガルトの目は探究心にきらきらと輝いていて、形のよい顔は笑み崩れている。
「ち、違います! 普通に食べられます」
カナヘビがなにを食べるかは知らなかったが、それでもエドガルトの口調からして、尋ねてもあまり気持ちのいい答えが返ってくるとは思えなかった。