第十八話 片時も離れたくない。
一晩泊まるだけということで、手を入れたのは客室を三つと食堂に台所のみだ。
とは言え、どこも屋敷に見合う広さで、清掃にも骨が折れたはずだ。侍女二人と手の空いた護衛、ユリアンという少人数、しかも短時間でよくぞここまでと思うほど綺麗に掃除されていた。
エドガルトとファーナがそれぞれ手放しで褒めると
「俺も! 俺も手伝ったぞ! 俺、偉いか? 偉いか?」
「ギー! ギー! ギー!」
使い魔たちも褒めて褒めてと主張を始める。
「ふたりとも偉いわ。ありがとう」
ファーナが褒めると、ギィは枯れ木のような手足を動かしてくるくると回る。どうやら踊っているらしい。
ニャーはひげをヒクヒクと動かしつつ、小鼻を膨らませている。
「俺、偉い! 褒美にちょっとだけ囓らせろ!」
「調子に乗るな、ニャー。消すぞ」
ファーナに飛びつこうとしたニャーは、即座に繰り出されたエドガルトの手刀にたたき落とされた。
「いってー! 冗談だってば。冗談。こんないたいけな俺様を叩くなんて、おまえ鬼畜だにゃ」
「語尾ににゃをつけて可愛い子ぶるな。あざとい」
「にゃ? あざといってなんにゃ? 俺……じゃなくて僕わかんないにゃ」
ニャーは両手を合わせて小首をかしげる。
自分の容姿が愛らしいことを悟り、どうやらそれを利用することを覚えたようだ。
「わざとらしい。今更可愛いふりしても誰もだまされないぞ」
「そんなことないにゃ。僕は前からこんなふうだにゃ」
「そろそろやめろ、気持ち悪い」
エドガルトは鼻で笑うが、後ろでやりとりを眺めているトーニは怪しい。
普段、冷静沈着で無表情。感情が見えにくくて、同僚からは鋼鉄のトーニと揶揄される彼女だが、とにかく可愛いものに目がないのだ。特に子猫と子犬は彼女の理性を崩壊させる。
耳を澄ましてみると「可愛い、可愛い……」とブツブツつぶやく声が聞こえる。――
トーニの声だ。
ファーナはふふ、と小さな声を上げて笑った。
いくらニャーの可愛さに心を奪われようと、いざというときに判断を鈍らせたりしないのはわかっている。
だから、いつも冷静な自分をかなぐり捨てて、楽しそうにしているトーニを見るのはファーナも嬉しかったのだ。
トーニの隣では、これまた可愛いもの好きのツェラが、複雑そうな顔をしている。
可愛いのは好きだが、魔物は苦手だから、諸手をあげて可愛いとは言えないのだろう。
「さて、冗談はここまでにしよう」
エドガルトはパンッと手を叩き、雑談を切り上げると同時に、一同の注意を引いた。
「今晩は気の抜けない一夜になるかもしれない。休めるときに休んでおくように。部屋割りは、ツェラとトーニで一部屋。男性陣は悪いけど全員で一部屋だ。ふたりずつ三交代で見張り頼みたいから、実質四人で一部屋を使うことになるね」
野営に慣れている男たちにとっては、雨露をしのげるだけでもありがたい。不満を覚えることはなく、粛々と頷いた。
てきぱきと指示を出すエドガルトの横で、ファーナはなにかがおかしいと思ったが、なにに対してそう思ったのかもわからない。かすかな違和感は気のせいだろうと、すぐに頭の隅に追いやった。
「ところで、ツェラ。食事までどのくらいかかりそう?」
「はい。本日はそれほど凝った料理ではありませんので、あと半刻もあればご用意できるかと」
料理を得意とするツェラが答える。今日の料理当番は彼女が担当だ。
「うん。凝った料理は必要ない。早めに食事を取ってしまいたいからね。すぐに取りかかってくれるかい?」
「かしこまりました」
「頼んだよ。――はい、じゃあ解散! みんなわかっているとは思うけれど、用心は怠らないこと。絶対にひとりでは行動しないこと。いいね?」
「はっ!」
大勢の声か重なり、エドガルトは彼らの返事に小さく頷く。
一番最初に動いたのはツェラだ。台所へと下がる彼女に、トーニも続く。
「あ、待って! 俺もなんか手伝おうか?」
ユリアンがふたりのあとを追い、食堂に残ったのはファーナとエドガルト、そして護衛たち、そして使い魔たちだ。
「なぁ、俺も手伝いに行っていいか?」
ニャーが、長い尻尾をふりながらエドガルトにたずねる。
ひげが前に倒れ、そわそわと落ち着かない様子だ。
「いいよ。ふたりの邪魔はしないこと。それと火には気をつけてね。特にギィは。あっという間に燃えちゃいそうだからね」
「やった!」
「ギー!」
よほど料理に興味があるのか、ふたりは答えを聞くやいなや、台所へと走り去った。
そのあと、護衛たちも、やれ、馬の様子を見てくるだの、もう一度屋敷の周辺を見回ってくるからと、三々五々いなくなってしまう。
「みんな、いなくなってしまったね」
「はい……」
食堂に残ったのはエドガルトとファーナのふたりだけだ。
考えないようにしようと思っていたことを言われてしまい、ファーナは消え入りそうな返事を返す。
「一度、客室へ行ってみようか。きっとここよりはくつろげると思うよ」
断る理由も思いつかず、彼女はこくりと頷いた。
食堂を出て、一直線に伸びる廊下を連れだって歩く。
明かりはエドガルトの持つろうそくだけ。あたりはしんと静まりかえっていて、虫の音さえ聞こえてこない。
「君の部屋はここ。右が男性陣、左が女性陣の泊まる部屋」
エドガルトに促されるまま、部屋に入れば、廊下よりは新鮮な空気が彼女を迎える。おそらく急いで換気をしてくれたからだろう。
少しばかり埃の匂いがするが、耐えられないようなものではない。
「あの短い時間で、こんなに綺麗にしてくれたのね……」
「うん。本当に君の侍女たちは優秀だね。さて。立っているのも落ち着かないし、ソファに座ろうか。君も疲れたでしょう?」
ファーナの独り言を拾ったエドガルトに促されるまま、彼女はソファに腰を下ろした。
と言っても、エドガルトに手を引かれている状況なので、拒否するのも難しかったのだが。
並んで座るふたりの間に、静寂が流れる。
ファーナにとっては気まずく、エドガルトにとっては意図した沈黙だ。
「あの……」
耐えきれなくて口を開いたのはファーナだ。
「逃げ出してごめんなさい。私さえいなければうまく収まるのではないかと思ったのです。どうしたらいいのかわからなくて、みんなに迷惑をかけてしまいました」
しかも、迷惑をかけただけでなにも解決していないのだ。
「うん。君は初手を間違えた。婚約を解消する必要なんてはじめからなかったんだよ。君がすべきだったのは大至急僕に連絡することで、隠すことでも逃げることでもなかった」
決して攻めるような口調ではなかったが、エドガルトの言葉はファーナの心にぐさりと刺さった。
「はい……」
消え入りそうな返事。エドガルトは翡翠色の目を細めて、フード越しに彼女の頭を撫でた。
厚手の布越しに感じる頭は確かに人のものとは少し違うと感じるが、彼が思うのはそれだけだった。
「でも、君が逃げ出したと聞いて、ちょっと嬉しかったよ」
「え……?」
「だって、さ。僕に会いたくない、逃げ出すほど顔を見られたくないって、裏返せばそれだけ僕を意識していてくれていたってことだよ。だからこそ正常な判断も下せなかった。なんとも思ってなかったら、君みたいな慎重な子が後先考えずに家出なんてしないでしょ? 普段の君だったらちゃんと話し合って解決すると思う」
確かにいつもなら、話し合ってどうにか解決しようと思うはずだ。
なのに、今回はエドガルトの言うとおり、話し合うという選択肢を飛ばし、ただ会いたくない、見られたくないという一心で行動した。
彼に言われて、初めてそのことに気づいたのだ。
「どうやら、私は相当混乱していたようですね。我ながら情けないです」
「君をそんなふうにしたのが、僕への愛情だって思ったら嬉しくてね」
エドガルトは小さく笑い、ファーナの頭を抱き寄せた。
「誕生日の直後からだって? 半年間、よくひとりで頑張ったね。怖かったろう?」
「わ……たし、は……そんな」
平気ですとは、言えなかった。
けれど、城のみんなはなんとか治そうと手を尽くしてくれたから、ひとりで怖かったとも言えない。
「ここには僕しかいないから、無理なんてしなくていいよ。正直に言っていいんだ」
「私、む、無理なんて」
「してない? してないなら、それでいいよ。でも、僕がこうしたいから、もうちょっとじっとしててくれると嬉しいな」
エドガルトの胸は温かいが、彼の言葉はもっと温かい。ファーナの強がりをまるごと包み込む。
怖かった、不安だった、と言いたくても言えない彼女の心の内を理解し、その上で手を差し伸べてくれる。
「かけられた呪いは絶対に解く。ふたりで頑張ろう? だから、もう僕に黙ってどこかへ行ってしまわないで。これでもすごく不安だったんだからね。ひとりだったら、僕、絶対に泣てた」
「泣く!?」
エドガルトの泣き顔など想像できない。
(冗談、よね!?)
は思ったが、顔を上げるわけにはいかないので、本当に冗談か確認するすべはない。
「ところで、ファーナ。このフード、もう取っちゃってもいいかな? すごく邪魔でしょ?」
まるでそこのペンを取って、と言うくらいの気軽さで、とんでもないことを言い放つ。
「えっ!?」
ファーナはその大きいまなこを、こぼれ落ちんばかりに見開いた。




