第十一話 迷子? それとも? 試してみます。
粗末な幌馬車が、昼なお暗い森の一本道を走っていた。
かぽかぽと軽快な音を立てて歩く馬を御しているのは、うら若い乙女だ。
真一文字に引き結ばれた口、はっきりとした二重の目は彼女の生真面目さを現わしているようだ。
まっすぐ前を見据えつつ、彼女はかすかに眉をひそめた。
「……お嬢様、少しよろしいでしょうか?」
抑揚の乏しい声で、荷台へ声をかける。
「どうしたの、トーニ?」
涼やかな返事とともに、フードを目深にかぶった人物がひょいと顔を出した。トーニと呼ばれた少女は、荷台に乗る女性にちらりと目をやると、無表情のまま前に向き直り、口を開いた。
「どこで誰が見ていないとも限りません。お下がりください。お嬢様」
ファーナの身元がばれないよう、城の通用口で合流して以来、トーニはファーナをお嬢様と呼ぶ。
良家の子女が、好奇心に駆られてお忍びで街へ出たり、ちょっとした遠出をするのは、あまり褒められたことではないが、よくあることだ。お転婆なお嬢様と召使い――そう見えるように努めているが、油断は禁物だ。
突風でファーナのフードが飛ぶかもしれないし、それをたまたま誰かが見てしまうかもしれないのだ。
わざわざ幌付きの荷馬車を用意したのは、少しでも彼女を他者の視線から守るためだ。
「ごめんなさい。気を付けるわ」
座りっぱなしで少し腰が痛かったのだ。話しかけられたのを幸いと動いたのだが、窘められて、自分の行動が軽率だったことに思い至る。
確かにトーニの言う通り、どこで誰が見ているかわからないのだから、用心するに越したことはない。
逃亡を企てるというのは予想より遥かに神経を使うものなのだと、改めて思い知った。
そして、そんな逃亡にトーニを巻き込んでしまったことも心苦しいし、後を任せて部屋に残してきてしまったツェラのその後も気になって仕方がない。
(明後日、無事にヴァールで合流できますように――)
ファーナは、トーニに気づかれないように嘆息した。
自分の我儘に付き合わせてしまったふたりには本当に申し訳ないと思うが、しかし、後悔をあらわに謝ればに、彼女たちの立つ瀬はないだろう。彼女たちの献身に報いるには、無事逃げおおせ、婚約解消を成立させるしかない。
「で、トーニ。どうかしたの?」
落ち込みそうになる気持ちを抑え、気を取り直して尋ねた。
もしかしてつけられてでもいるのだろうか? ファーナ自身にはなんの影も見えないが、もしかしたらトーニにはなにか見えているのかもしれない。
「道がおかしいのです」
「おかしい? それはどういうこと?」
奇妙な言い回しだ。
道がおかしいとはどういうことだろう?
ファーナは、フードの下で黒々とした大きな目をしばたたかせた。
「それが、おかしいとしか言いようがないのです。同じところをぐるぐると回っている気がします。予定では、とうにこの森を抜けて、今日宿泊する村へ到着しているはずなのです。王都からヴァールまでは一本道ですから迷うなんて……」
トーニの言う通り、ヴァールまでは一本道だ。ファーナ自ら何度も地図を確かめている。
「どこかで脇道に逸れてしまった可能性はない?」
「いえ、間違えてしまうような大きな道はありませんでした」
トーニは抑揚のない声で告げる。
まるで焦っているようには見えないが、長い付き合いのファーナには彼女がひどく困惑していると察していた。
「そう。同じ場所をくるぐる回っていると言っていたけれど、どうしてそう思うの? この森が思っていたより広いのではない?」
「それも考えたのですが……その、先ほど道端に変わった形と色の大岩があるのを見かけたのです。黒い岩肌に白い筋が一本入っていて目立ったので印象に残っていました。それとそっくりの石の横を、もう七度も通っております」
「まぁ……」
はじめは似た岩が転がっているものだと思った。次に、等間隔に置かれているようだから地元の人間が道しるべとして使っているのかもしれないと思った。
が、あまりにも岩はそっくり過ぎた。注視すればするほど、同じ岩にしか見えない。
「その岩はどこに?」
「あそこです」
トーニの指し示すのは進行方向、道の左手だ。なるほど遠目に見ても大きな岩が下草に埋もれるように転がっている。
「あれがそうなの? トーニ、差支えがなかったらあの岩の前で馬車を止めてくれる?」
「かしこまりました」
「お願いね」
トーニはタイミングよく馬を止め、大岩に横付けするように馬車を止めた。御者台から飛び降り、抜かりなく周囲に目を光らせる。
「周囲に人がいないか確かめますので、今しばらくそのままお待ちください。決して馬車からお出になりませんように」
「ええ」
トーニはぐるりと視線を巡らせるとともに、五感を研ぎ澄ましてあたりに人の気配がないかを探る。
しんと底冷えのするような湿気があたりを取り巻いているものの、他に不審な気配も物音もしない。
周りには人も、人を襲いそうな野生動物もいないようだ。
少しばかり違和感はあったが、その違和感の正体はあまりにも漠然としていた。おそらく静かすぎることと、道に迷ってしまったかもしれない心細さがそうさせているのだろう、と納得する。
「お嬢様。特に不審な点はないようですが、お気をつけてお降りください」
馬車の後部、布の覆いをそっとまくり上げ、トーニはファーナの降車を手助けした。
「ありがとう、トーニ」
「いえ。――ですがお嬢様、どうして馬車を止めたのですか?」
「本当に同じところをぐるぐる回っているかどうか、試してみましょう」
ファーナは手にした小さな布切れを、岩のすぐ近くの低木の枝へ結びつけた。
本当はもっとしっかりした木に結び付けたかったのだろうが、背伸びをし、上を向くことで顔があらわになるのを避けたようだ。
「これでいいわ。こうして目印をつけておけば、同じ場所を回っているかどうかわかるでしょう?」
「なるほど」
「エドガルト様からの受け売りよ。昔、聞いたの。もし魔物に惑わされそうになった時は……って。まさかここで役に立つとは思わなかったわ」
魔物が人を惑わせるには典型的な例がいくつかあるらしいが、エドガルトによれば同じ場所を堂々巡りさせて獲物が疲弊したところを襲うというのが一番多いらしい。
もし、自分が魔物に惑わされているのか、単純に道に迷っているのかわからなくなった時は目印を作るといい――そうエドガルトに教えられたのだ。
――最も、人をたぶらかしたり襲うような魔物は、人里離れた山奥や、人の住めない辺境の砂漠にしかいないし、時々人の住まう場所に現れたりもするけれど、それは稀なことだ。だから、ファーナがそんな目に遭うことはないと思うけど。
対処法を教えてくれたすぐ後に、彼はそう言って笑ったものだ。
「さ、行きましょう」
「はい、お嬢様」
ふたりは荷台と御者台に戻り、再び馬車は動き出した。
「こんな人里近くに魔物はいないわ」
「そうですね、お嬢様。王家直轄のシュティレ領までの道に、魔物が出たなどという噂はついぞ聞いたこともございません」
「ええ、そうね。きっと大丈夫」
それきりふたりは黙り込んだ。
馬車を引く馬が、かぽかぽと小気味のよい足音を立て、ふたりの気持ちを次第にやわらげてくれた。
だが……
「お嬢様」
抑揚の乏しいトーニの声が、ファーナを呼ぶ。
いつもよりすこし硬い声音に嫌な予感がよぎる。
「どうしたの、トーニ」
問い返す声も思わず緊張に掠れてしまった。
ファーナは自分の心の弱さにほぞを噛みながら、トーニの肩越しに馬車の向かう先に目を向ける。
轍の残る道の左脇、黒々とした岩が見える。
そのそばの木の梢には、白い布がだらりと力なく下がっている。
「まさか、そんな……」
ファーナは愕然とした顔で呟いた。
脳裏に、いつかのエドガルトの笑顔が浮かぶ。
――もし、万が一、君が魔物に惑わされて道を失ったら……それ以上進んじゃいけないよ。戻ってもいけない。戻ったら、君が罠に気づいたことを魔物が知るだろう。そうしたら即座に襲われてしまう。休憩でもするふりをしてその場にとどまり、体力を温存しながら逃げ出す機会をうかがうんだ。
その時、確かファーナは無理だと首を振った。
――機会をうかがう? それは魔物と戦うということですか? 私にそんな力はありません。無理です。
怖い魔物に襲われる想像をして、ファーナは身を震わせたものだ。
――大丈夫だよ、ファーナ。僕が必ず助けに行く。だから君は僕を信じてくれればいい。絶対になにがあっても飛んでいくから。
そう言ってエドガルトは優しくファーナの髪を撫でてくれた。
(でも、エドガルト様は来ないわ)
そそくさと逃げ出した自分のことなど、腹立たしいと思いこそすれ、どうして追いかけてなどくれよう。
(あの人の手を振り払ったのは私。ここはひとりでなんとかしないと……!)
「トーニ、止めてちょうだい。これ以上、進んではいけないわ」
「――かしこまりました、お嬢様」
なにも聞かず、トーニは手綱を引いて馬車を止めた。
ファーナはゆっくりと目を瞬くと、拳をぎゅっと握った。
せめてトーニだけは無事に逃がしてやりたい。
そのためには、昔エドガルトに教えてもらった魔物への対処法を思い出さなければ。そして、その知識を総動員して、自分ができる精一杯のことをしなければ。