わびごと 3
「君は…常識をどこに忘れてきたのかな」
「知るか、そんなもの。生憎最初から持ち合わせていないな」
「今からでも遅くないよ。ご母堂の体内に取りに行ってくればいい」
珍しくやさぐれた様子で、榊は杯を傾けた。山を借景にして人工的に作られた庭は今が秋の見ごろを迎えていて息を呑むほど美しいが、そんなものは急降下した機嫌を直す助けにはならない。
「普通、家に行って『外出中』って言われたら、諦めるでしょ。あー、君に行き先を教えた家の者にもがっかりだね」
「片がついたら謝ってやる。だから今は話を聞け」
頼む立場のくせにどこまでも不遜な物言いであるが、榊は今更そんなことに腹を立てなかった。女性との逢瀬を邪魔された後で、そんな些細なことはいちいち気にならない。
ここしばらく仕事以外の時間の殆どをつぎ込んで、歌を送り花を贈り噂を流しようやく手にした女性に「私よりも優先したい方がいらっしゃるならどうぞそちらに」と絶対零度の声音で言われた日には、それに勝る感情の振れなど滅多に無い。
「……あれは多分修復不可能だよなぁ。ようやく父上のお眼鏡にかなう女性だと思ったのに、また振り出しか。家に帰ったらまた愚痴を聞かされることになるね、なんて哀れなんだ私は」
「愚痴愚痴と面倒な男だな。結局お前があの女より僕を選んだからここにいるんだろうが。責任転嫁は見苦しいと思わないか?」
あんまりと言えばあんまりな理屈に、榊はもう何も言うまいと心に決めた。
父が認める家柄の女性は探せば他にもいるだろうが、結局この男は一人しかいない。選んだと言われれば確かに恋人よりも友人を選んだことになるのだろう。
「君は自分勝手も程ほどにしないと見苦しいと知るべきだと思うね、いつか。
……で、何の用だい?」
ため息混じりに吐き出した言葉は、降参の合図だ。
猫が笑うとしたらこんな表情だろう。
その顔を見た瞬間、榊は後悔で目眩がした。
『心配しないで。必ず私が守ってあげる』
――何も出来なかったくせに。嘘つき。
『本当…に?』
『勿論!だって私はショウコのお姉ちゃんだもの』
『…ユウコ様、でも……』
『お姉ちゃんでしょ。ほら、言うこと聞けないの?』
長い逡巡の後に小さく呟かれた音は、幼い自尊心をくすぐった。
『……お姉、様』
求めていたものとはほんの少し違っていたけど、それさえも妹の奥ゆかしさを表しているようで可愛くて。
『約束ね。絶対に守ってあげるから』
そう言って強引に小指同士を繋いだ。
――不安げに、でも喜色を隠し切れずに見上げる様が愛らしくて、本当に守ってあげたいと思った。その相手も知らずに。残酷に希望だけを与えて、結局何も出来なかったくせに。
――子どもだったから何も出来なかったの?違うと知っているくせに、言い訳ばかり。
――ほら。今も、何一つ約束を守れていないじゃない。
――また、守れない約束を重ねるつもり?
額に冷たい感覚を覚え、意識が強制的に浮上させられる。
ぼんやりとした視界が徐々に焦点を結び、明瞭な線が浮かび上がった。
それが自分の館ではないと気付き、身体を起こそうとした。
「……っ!」
「斎宮様?!」
「お目覚めに?」
「誰か、主上にお知らせしろ!」
意のままにならない身体に眉を顰めると、額に乗せてあった水に浸した布が褥に落ちた。
自分のものとは思えない思い身体に侍医たちが触れ、脈を取る。
「大分落ち着かれたご様子で、よろしゅうございました。主上もお喜びになりましょう。ですがまずはお体を休めることが先決です」
あからさまにほっとした表情の侍医に対して、申し訳なく思う。
今回倒れたのは明らかに自分のわがままからくる失態で、本来は人の手を煩わしてはいけない。
「ありがとう。もう、大分いいようだから貴方も休みなさい」
その顔を見ればどちらが病人だか分からないほどやつれている。随分と疲れさせてしまったようだ。
「いえ、まだお傍に侍らせていただきます。しばらくはご様子が気にかかりますので」
「迷惑をかけるわね。それで、私はどうしてここに?」
さっと侍医たちの顔に緊張が走った。
「斎宮様、頭が痛んだり身体が動かないようなことは?」
「ないわ。大丈夫。ただの事実確認よ」
高熱が出ると記憶の混濁が起こることもある。酷い場合には脳に障害が残ることもあるらしい。侍医たちはそれを説明すると、何か不順があるときは我慢しないようにと少々きつめに言った。
「では女官を呼びましょう。我々よりも詳しいでしょうから」
「帝がお連れになったのです」
「……やっぱり」
ユウコが倒れたのは斎宮と帝以外は立ち入ることの出来ない場所だった。自力で出てきたはずが無い。とすれば結果は自ずとわかってしまう。
「斎宮様のご様子がおかしい、と言伝があって。眠っておられる間も何度かいらっしゃったのです。
それで…暫くの間こちらでお体を休めるようにと」
「暫く?」
「はい。主上はそうおっしゃっておいででした」
「嫌よ。帰るわ」
「は?」
「屋敷に帰る、と言ったのよ」
そもそもどうして内裏に連れてきたのだろうか。
倒れたのはユウコの屋敷の中だった。それならわざわざ内裏に運び込む必要など無かったはずだ。
それなのに面倒な手順を踏んでまで内裏に戻された。
そこに不穏なものを感じないわけにはいかない。
「……そうですか。致し方ありません」
能面のような顔をした女官は、ぞっとするような冷たい声でそう言った。
それは肯定にも否定にも取れる言い方だ。しかしユウコは自分の行動が否定されたような錯覚を覚えた。
呆然と相手の顔を見返していた間に、背後の扉が次々に閉められた。
「……なっ?!」
「そういうわけには、参りません」
愕然とするユウコをよそに、女官は能面のような顔を崩さずに淡々と言った。
「帝から、そう言われております」
「随分良くなったな。何よりだ」
反射的に振り返れば、そこには今一番会いたくて、反面顔も見たくなかった人。
緩やかに動く空気とともに運ばれてきたのは、愛好する紫煙の香り。
周囲が帝に対する礼をとる中、ユウコは礼儀も忘れて詰め寄った。
「兄上!」
しかし数歩歩いたところで脚から力が抜け、床に崩れ落ちる。衝撃を覚悟したが、それはやって来ず代わりに紫煙の香りがより濃厚になった。
「まだ、本調子ではないのだ。ゆっくり休めと言ったはずだ」
外に出ることも無い割にはたくましい腕に抱えられ、涙がにじんだ。
額に手を当てて熱は大分下がったようだと笑う頬を張ってやりたい。
どういうことだと叫びたくなる。
人の意思を殺しておいて、人の行動を抑えていて、なぜそれほど悠長に構えていられるのか。
そんなユウコの動揺を読み取ったのか、タカオは人払いをした。
衣擦れの音が遠くなり、次第に静寂が強くなる中でユウコは身体の震えを押さえ込んだ。
「……帰らせて下さい」
「帰ってどうする」
「……は?」
真っ直ぐに顔を見返した。なんてことは無い言葉だった。しかしその顔と声音は重々しい。
「帰ってどうする心算だ。またお前は死を願うのか」
死を、願う。
そんなはずは無いと言いたかった。
そんな願いを持ったことは無いと。
「逝かせるものか……っ」
骨が軋むほどきつく抱きしめられ、ユウコは言葉の意味を反芻した。
死を願う。
そうだ。
望んでいたのだ。絶えず心の奥底で。
どうしようもない閉塞から抜け出すことを。
そのためにはそれが簡単な手段だった。
「私を生かしたのはお前だ。お前だけ解放など、するものか」
目の前の人は誰よりも傲慢で我侭。
そして誰よりも優しい人だった。
誰よりも傷つきやすい人だった。
「私が、簡単にお前を逃がすと思ったのか?」
そっと頬に触れた手は、驚くほど冷たかった。その声音もまた、冷たい熱を帯びていた。
「私の腕の中に、飛び込んできたのはお前だ。逃げることも引き返すことも出来たはずだ。
己の罪が今になって怖くなったのか?」
淡々と紡がれる言葉はユウコに語りかけたものではなく、今まで裡に閉じ込められていた独白。
頬に添えられた手がユウコの口唇をなぞる。そこから毒を刷り込もうとでもするかのように、繰り返し繰り返し。
「兄上?」
押さえ込んだはずの震えが、蘇ってくる。
一番近くに添っていた心算だった。何かを壊してもどこかを守れていると思っていた。
しかし。
この人をここまで孤独にしたのは、ユウコだ。
「お前は私の側にあれ。それ以外に心を囚われることは許さない」
縛られたのは身体。
壊されたのは――――、何?