憂き我を
朝起きたら状況が劇的に変化していた。
そんなことは絶対にない。
いっそ政変が起きれば、いっそ神が否定されれば。十代のころはいろいろとくだらないことも考えた。今でも考えないと言えば嘘になる。祖国の後ろ盾を活用すれば、出来ないことはない。しかしそれはユウコが必死で守っているものも同時に破壊することになる。それがユウコを解放することに繋がったとしても、彼女は破壊者である自分を許さないだろうし勿論傍にもいないだろう。
結局は自分には何も出来ない。
つかず離れず。
自分から彼女に近づくことも出来ないが、彼女が離れることも許さない。そんな卑怯な距離を保って日々をやり過ごすことに、最近ようやく慣れてきた。
「殿下…、お目覚めですか?」
お早いですね、と眼をこすりながら起き出した女に、顔の筋肉だけで笑ってみせる。
昨晩は身体だけを貪った相手だが、この女に罪があるわけではない。
「おはようございます、姫。お体は辛くはありませんか?」
こんな言葉に頬を染める女を可愛いと思う。
だがそれだけだ。
心が振れない。
それならば何の意味もない。
すっかり身支度を整えた姿に、女が訝しげに声をかける。
「殿下、朝餉の仕度をさせますわ…。もう少しここにいらして」
つと衣のすそを引く手をやんわりと外し、辞退する。
「…では、次はいつ来ていただけますか?」
女の身でそのようなことを訪ねるのは屈辱であろう。その顔が先程とは違った理由で赤く染まっている。先代帝にあてがわれた女とはいえ、この女の父親も娘と自分の関係から出世の糸口を探っている。それゆえ、軽はずみなことは口には出来ない。
「お約束はいたしません」
「そんな…後生ですから……」
「…私を思って日々を数える、そんな姫が見たいのですよ」
女の耳朶に息を吹きかけるようにして言葉を残し、屋敷を後にした。
所詮は人質の皇子とはいえ、それなりに義務もある。
その一つが、顔見世もかねた参内だ。自分はあなた方の管理下にいますよと告げるためだけに、宮中に顔を出す。もちろんそこでは誰も自分に政治的な意見など求めていないし、こちらとしてもまじめに議論に加わる気もない。ただ時間が過ぎてゆくのを緩慢に見守るためだけのものだ。
参内するときでさえ、この国の男は結い上げなければならない髪も緩くまとめておくだけで誰にも咎められることはない。
存在は必要だが、それは見えなくとも問題ない。
空気のようだな、と自嘲気味に笑うのが常だった。
騎馬のままで門をくぐり、さすがにここまでかと思う場所で馬を預ける。これも決まりきったことだ。
本来ならば宮中に馬で乗り入れるなど許されないが、帝以外に自分に正面から注意を出来る者などいない。その帝は宮の奥深くから出てこないのだ。怖れるものはない。
せいぜい物言いたげな視線が投げかけられる程度。
自分が正しいと思うのであればそう主張すればいい。まさかいきなり切って捨てられるとでも思っているのか。
「相変わらず、好き放題だね。天帝の君」
「その呼ばれ方は好みじゃない。何度言えば理解する、この鳥頭。貴様の頭は飾りか髪の台座かいっそ頭を丸めればそれも不要だろう軽くなっていいんじゃないか?」
「よくもまぁ、そうぽんぽんと言葉が出てくるね。男は黙して語らずだよ」
鳥頭とか頭を丸めるとかそういう語彙はどこで獲得したのかな、と笑う男は傷ついた様子もなく歩を並べて歩き出す。
軽薄なことこの上ない男を睨みつけるが、それで怯むような相手ではない。
「うるさい。朝から貴様の顔を見るとは今日は厄日だな」
「僕にとっては吉日だね。妹から君に言伝を頼まれている。もう5日も前だけどね。
妹が僕を責めるんだよ、なんで伝えないのかって。でも君に恋している妹の理想を崩すわけにはいかないだろう?まさかお前の惚れた相手は見てくれだけの男で滅多に参内さえしないなんて、僕は妹には言えなくてね」
辛いところだよ、と嘆く振りをしてみせる相手を無視する形で歩を進める。
しかしそんなことが許されるはずもなく。
「今日、時間空けとけよ!」
容赦なく後ろからかけられた声に、軽く手を振って了承の意を伝えた。
右大臣家の次男坊であるあの男。母親が神事を司る家の出であることから榊の君と呼ばれる男は、10年で得た唯一の友人らしきものと言ってよかった。
いつものように座って欠伸をかみ殺すだけの会議からやっと解放され、これ以上面倒なことに捕まる前にとそそくさと歩き出したところを、榊にあっさりと捕まった。
「逃げる気だったかな?僕としては読み通りだけどね」
「……。ああ、忘れていたな」
悪びれもなく言い放つ様子にがっくりと肩を落として呟かれた。
明らかに聞かせる目的で。
「……鳥頭は君じゃないか」
榊の家に場所を移し、二人は酒を飲み交わす。
この国は夜が白み始める頃に、一日の政務に取り掛かる。そして午後は殆ど仕事らしい仕事はしない。来たばかりの頃は何と馬鹿らしい習慣かと眉をひそめ密かに抵抗も試みたが、それなりに世間を知るようになる頃にはその理由も分かってきた。同時にユウコの絶対零度の視線がかなり痛かったというのも、今では認めることが出来るこの習慣を受け入れた理由である。
オースキュリテでは帝の前で政策が決まることは殆どない。勿論形式的には帝の決定を仰ぐことにはなっているが、それは判を押すことが求められているだけだ。
具体的な内容は発達した貴族社会のなかで、いくつかの家が特権的に行っている。
「発達した、というよりは発達しすぎたんだ」
「いいのか、そんなことを口にして」
「構わないさ」
大抵の連中は同じ事を考えている、と言いながら榊は杯を空けた。
「初めの頃はなかなかいい制度だと思ったけどな」
「そりゃね、効率はいいさ。リュミシャールでは皇帝と同等の議会があるんだろう?それなら決定までに時間がかかるのも仕方ない」
でもね、と言い置いて榊は杯に酒を手酌で注ぐ。
「確かに父から子へ仕事が受け継がれれば、断絶がない。技術的知識・情報も持っている。でも行き着く先は専制と腐敗だ。誰もが甘い蜜を求めて腐る」
「だが悪いばかりでもないさ。日のあるうちに飲む酒も乙だ」
そう言って杯を掲げると、榊はあっちにいた頃には飲んだこともないくせにと笑った。
「なぁ天帝。国の話、聞かせて」
またか、と思いながらもそれは口にはしない。この国の腐敗の中で抗う男が求めるのなら、何度でも。
「その呼ばれ方は好きではない。それに天帝というなら兄上だ。髪の色は同じだが、瞳は赤と紅の色をしている。
それこそお前たちが崇め奉る『天帝』だろう?」
人々に恵を与え、時には罰するために天災をも用いる。荒ぶる神でありながら豊饒の神。
「あってみたいよ、君の兄さん。ってもリュミシャールの皇帝陛下か」
でもさ、と顔だけでこちらを向いて榊は言う。
これもいつものことだ。
「僕は好きだよ。君の琥珀色の瞳。時間や場所によってあるいは抱える感情によって見え方変わるよな。
もう少し時間がたって夕日になれば、茜色に見える」
そんな言葉をかけられるようになったのは、一体いつからだったろう。
よくしゃべる男の登場です。遠慮のない会話は書いていて楽しいですね。
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あ、あと。この雪待ちの花と対になっている物語の「砂漠の蝶」(これも小説家になろうサイト様で出しています)はもうちょっと話が進んでいるので、よろしければ覗いてやってください。