君がため 2
こんな心算はなかったのに。
レイシアが立ち去ったあと、一人残されたユウコは堪えていた涙を止めることが出来なかった。
最後に綺麗に嘘を吐いて、それで終わりにしようと思っていたのに。
こんな無様な姿を見せたくはなかったけれど、せめて記憶に残る姿は毅然としていたかった。
でもそれは叶わないから、せめて何一つ忘れないように覚えておこう。そう思った。
月明かりよりも輝く金糸の髪も。
陽の祝福を受けた肌も。
真っ直ぐな琥珀の瞳も。
他の誰より温かかったその腕を。悲しませることしか出来なくて、心からの笑顔を見たことは何度あっただろうか。
皮肉を返すことしかせずに、どのくらいの時間を無駄にしただろう。
俯く頬に触れたのは、記憶に留めておきたかったから。
酷い言葉で終わらせる心算だった。
それなのに僅かに本音が滲んだ言葉に自嘲する。
――――貴方のことを、好きになれればよかった。
好きじゃなかったと言えなかった。
好きだと堂々と言える立場が欲しかった。
好きになってもいいと思いたかった。
そんな本音が滲んだ言葉を、果たして上手く取り繕えただろうか。
好きになるように努力したけど駄目だった。そう理解しただろうか。
誰より優しい人だから、これ以上重い荷物を背負わせたくはない。
思い出に残す価値もない女だと思ってもらえればそれでいい。
タカオの母殺しの調書を作っている間、ずっと嗅がされていた弱い香。
気が付いた時には身体の自由は利かなくなっていた。
何の目的でそんなことをしたのかなんて、どうでもよくなった。
信頼されていないことさえ悲しくない。ただそういう関係しか築けなかったと思い知っただけだ。
だから会いに来てくれたという事実だけで十分だ。
紗がかかった意識の下で、胸を締め付ける声を聞いた。
徐々に明瞭になる視界にその姿が映った。
それだけで、十分。
そう心に決めて酷い言葉を投げつけた。
なのに。
なんて脆い決意なのか。
遠ざかっていく背中を見ただけで崩れてしまうような、その程度のもの。
レイシア、と初めて呼んだ名前は取り消すこともできなくて。
助け出すと言われて歓喜に震えた胸を否定できない私は、どこまでも愚かだ。
望まないといった声は虚ろに響いたことだろう。
それでも、何度でも私は嘘をつく。
危ない目に遭わせたくない。
底の知れない沼に引きずり込みたくない。
だからお願い。
私の事を捨て置いて。
座敷牢の格子ごしに平伏した女官は、一見恭しくユウコに礼をとった。
「内親王殿下。お加減は如何でしょうか」
声の調子にはまったく気遣いなど感じない。形式的にそう尋ねるべきだから一応の体裁を整えているだけ。
レイシアが去って暫く経ってからやって来た女官は、能面のような顔に一切の動揺を浮かべず荒れた室内を見渡した。
外気を遮断するための布はレイシアがすべて取り払ってしまった。
今はとぐろを巻く蛇のような姿で床にうねっているだけだ。
自分が何をされたのか、ユウコはもう把握している。
しかし女官の顔を見ていると、それがどれほど仁義にもとる行いか分かっていないかのようだ。
「……悪くないわ」
「それはよろしゅうございました。では、帝がお呼びです。ご足労願えますでしょうか?」
「その自由は私にはないわね」
四方を囲まれ、座敷牢には出入り口らしきものはない。
ユウコには出入りの自由など全くなかった。
しかしそんなことはなんでもないと女官は笑う。
合図とともに室内の入ってきた二人の男の手には大鉈が握られており、何のためらいも無く木枠に鉈を振り下ろした。
「…随分、原始的なことね」
零れた声は今まで聞いたことがないくらいに乾いていた。
粛々と作業をする男二人と、それを女官が無感動に見守っている。
彼らにとって、ユウコはモノだ。
仮に火災にあったとときユウコにが逃げ出す自由はなく、焼死するしかなかったのだろう。
その程度にしか思われていない。
犬に紐をつけるのと同じ感覚で、牢に囚われている。
砕けた木片が手にぶつかる。
そこは先程レイシアが口づけた場所。
痛みはさほどでもないが、大切なものが汚されたようで無意識にユウコは手をかばった。
「遅い」
「……申し訳ございません」
久しぶりに見た兄の顔は変わっていなかった。
そこにあるのは徹底した無感動で、ユウコにしたことの罪悪感など微塵も感じていないのだろう。
牢から出された後、女官はユウコを一瞥して汚いと言い捨てた。
何日か櫛を通さなかった髪はもつれていたし、香の副作用で流れた脂汗もあったはずだ。
気遣いも丁寧さも感じない手つきで身を整えられ、引きずるように連れてこられた。
すべては兄の支持かと思っていたが、兄の態度に変わったところは無い。
ここまで露骨なことをされれば、悟らないわけにはいかない。
ユウコの入内を受け入れられる人間など、内裏に一人もいないのだろう。
母を同じくする兄妹が睦み合うことを、感情では受け入れられるはずがない。しかしそれによって利があるから、意図的に目をつぶっているだけだ。
何かと帝に意見を求められてきたユウコが入内という形で政から遠ざかれば、より帝を御しやすくなると踏んでいるのだろう。
しかしすべてを隠し通せるはずがない。
帝という至高の存在を前にすれば一時的に忘れても、常に拒絶は裡に燻っている。そしてそこから発する暴力は常により弱い人間へと流れていくのだ。
「入内の日取りが決まった。報告しろ」
帝の命を受けた老臣はかしこまって祝いの言葉を述べるが、ユウコに向き直ったときには侮蔑の感情を露にしていた。
「善き日を占いまして…ああ、斎宮である内親王殿下には釈迦に説法ですな。日取りは20日後となりました。ご異存、ござりませぬな?」
「……」
周囲が音もなく嘲笑する。御簾を通して世界をみる帝には分からないのだろう。
神に仕える斎宮に対して釈迦に説法とは。
馬鹿にされていると腹を立てるのも虚しくなる。
「つきましては、入内の後に内親王殿下には斎宮位を辞していただかねばなりませぬ」
「……道理でしょうね」
「次の斎宮は…はて、適任者はいらっしゃいましたかな」
国の要職について、後任者も考えないまま退位を迫っていたのか。
適任者などいるはずがない。
もしいるのであれば、ユウコとレイシアの婚姻が決まったときにユウコは斎宮位を降りていた。
「……アレはどうだ」
「アレ…とおっしゃいますと……忌み姫ですか」
吐き捨てるような帝の言葉を周囲は的確に理解した。
忌み姫あるいは障りの姫と呼ぶのは、その名を呼ぶことさえ不浄と思われているせいだ。
ユウコはそれが我慢ならない。
今この国がリュミシャールからの侵略にさらされていないのは、ひとえにレイシアとその『忌み姫』のおかげではないか。
「ショウコはこの国の内親王ですが、リュミシャールの皇妃です。
他国の皇妃を斎宮にすえるおつもりですか?」
忌み姫などではなく、はっきりと妹の名を呼んだ。
しかし予想していたよな拒否反応はなく一瞬居心地の悪い沈黙があり、すぐに合点がいったというように帝が口を開いた。
場を繋ぐ会話をするような軽さで。
「ああ。アレは今皇妃ではない。皇后だ」
言葉が耳を撫でただけで頭に入ってこない。
皇后?
どうして。
いつの間に。
愕然とした。
そんな妹の大事を、どうして知らなかったのか。
「いつだったか…まぁ暫く前だ。かの国から連絡があった。先代の皇后が没したので繰り上げてアレが皇后になると」
「正確な文面は!?」
急に大きな声を出したユウコに周囲が思わず引く。
今は入内が決まって政から一切の手を引くことが決まっているとはいえ、少し前までは実質的な政治を行っていたのだ。何か致命的な失策があったのかとざわめきが広がる。
「一体どうしたというのです。よくある話ではありませんか」
「四の五の言わずに!誰一人覚えていないの?」
参議の言葉を切り捨て睨みつける強さで視線を走らせる。
気圧されて部屋の隅から声が上がるまで、長い時間は掛からなかった。
「確か……忌み姫…いえ……ショウコ・リーデル・オースキュリテ第二皇妃の立后に関し、こちらの承認を願い出るものであったと記憶しています。勅使はかの国の貴族で…名前は…記憶していません」
「返事はなんと送ったの?」
「返事は出していない」
答えたのは帝だ。
その答えにユウコは絶望を感じながらも、向き直って言葉を紡いだ。
すべては手遅れだと分かっていても、言わずにはいられなかった。
「何故ですか?あちらは承認を求めてきたのでしょう?」
「形式だけだ。勅使がついたときには予定表にあった立后の儀まで終わっていた」
「それでも!意思を表明しなければ認めたことになってしまうでしょう?」
意義を申し立てたという事実がなければ、後日動くことが出来ない。
妹の身は勿論心配だ。
しかしそんな常識さえ持ち合わせていない自国が危ぶまれた。
父である先帝が、何故ショウコを後宮に入れないという選択をしたのか。皇帝の外戚になるという機会を失っても、潰しておきたかった可能性を忘れてしまったのか。
しかしユウコの危惧をまるで分かっていない周囲は、宥めるような口調で言う。
「まぁ斎宮にするということで、あちらの立后の解消を申し立てては如何ですかな?」
「いっそのことその理由でこの国に呼び戻すことも出来るのでは?ついでに天帝の君を返してしまえば関係が随分とすっきりしますな」
世迷いごとだとしか思えない言葉が並ぶ。
そんなことをかの国が許すはずがない。
むしろこちらの未熟な政治と内政干渉を責め、国家間の約束の不履行を訴えてくるだろう。
武力と合理性の国。今それは不文律の伝統よりも世界の基準となりつつある。
勝ち目のない戦を仕掛けるようなものだ。
一体いつになったら、この国は前に目を向けるのだろう。
先の不和を解消してから、この国は進んでいない。
安穏が保証されたことで、裡に閉じこもることを選んでしまった。
否、その自覚さえない。
世界は自分たちと歩調をあわせるべきだという傲慢を抱いている。
ユウコはリュミシャールの皇帝に会った事は無い。
しかしその手腕を見ていれば人となりは想像できる。
攻勢にでるには遅すぎた。急ぎ退路を確保しなければ、この国に先はない。
「いずれにせよ。お前にはもう関係がない」
考え込んだユウコに対して帝はあっさりと言ってのけた。
周囲も同調するように頷く。
「砂漠の皇子がお前の入内を認めると返答している。お前は余計なことに煩わされず、私の側にあればいい」
何に驚けばいいのかわからない。
何に時間を割けばいいのかわからない。
ただ、この国だけでなく自分自身も追い詰められていることを自覚しないわけにはいかなかった。
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