落花の雪に 3
細く開けられた扉から光が目に刺さる。
薄暗がりに慣れた目には、御簾越しの光さえ痛かった。
「殿下……」
こちらを刺激しないようにと気遣われているのが分かる声だ。
大きな声で呼びかけられたら今はたまらなく不愉快だ。かといって、それを叱責するほどの気力もないが。
「殿下?」
「……なんだ」
一瞬自分の声だとは信じられなかった。
喉が焼けるほど強い酒を飲み続けて、酒の肴が煙草だとこうなるのか。
「表に内裏からの使者の方がお見えですが……」
「決まっているだろう。追い返せ」
「ですが……」
妙に歯切れの悪い家人の様子に流石に身を起こす。
吐き気と頭痛は気のせいと思い込むことにした。
「必ずお目にかかると……屋敷が囲まれています」
「これほど仰々しいお迎えは初めてですよ。このようなあばら家へようこそ」
大袈裟な身振りとともに痛烈な皮肉をぶつける。
茶番だとしか思えなかった。
「おい。皆様に酒でも振舞って差し上げろ。塀の上から酒瓶でも転がせば手っ取り早いな?」
後ろに控える家人にそう言うと、流石に使者は渋面になった。
いい気味だと思う。
屋敷を囲むなど、まるで謀反人の扱いだ。
それで平和的な話合いが出来ると思うのが間違っている。
「随分…酒気がございますな?天帝の君」
「酒は和をつくるというではありませんか。まぁ、貴兄との間には望むべくもないが」
「水でも飲まれるがよろしかろう。少しは頭も冴えるでしょう」
「せめて酒がなくなるまで外で待っていて欲しかったですね。急いては事を損じましょう」
わざと相手を煽る様な言い回しで会話を繋いでいく。
急いては事を損じるとは自分に対する戒めだ。
今にも破裂しそうな言葉のやり取りに耐えられなくなったのは、相手のほうだった。
「内裏にお越しいただきます」
ぎりぎりと歯噛みするような声で言う。
全く頼まれているという気がしないのは気のせいではないだろう。
「嫌だ、と言ったら?」
陳腐だなと自分でも思う。
しかしこんな場合でもなければこんな台詞は口にする機会もないだろうから、半分口を笑いの形にして問いかける。
「言えないでしょう。状況を考えれば」
勝ち誇ったような顔が滑稽で、嘲笑を浮かべないようにするのに苦労した。
「状況、ですか。確かに、屋敷を囲まれてまぁ酷い話だ。このことが故国に知れればただでは済まされないでしょうね?」
「我々がよもやそれを恐れるとでも?」
「矛盾ですよ、それは」
外交問題になることさえ辞さないという相手の口ぶりに対して、あまりにも軽い返答だった。
虚を突かれたような顔が哀れで一瞬湧いた仏心を殺す。
「貴兄は言われたことを伝えているだけでしょうから、罪はないのですがね。
おそらく僕が今内裏に呼ばれるとしたら、まぁ主上とユウコのことをリュミシャールに認めさせろとかそんなことでしょう。リュミシャールをどうでもいいと言うなら、そんな真似はいらないはずなんですよ。貴兄は兵を移動させる権限は与えられていても実際に兵を動かす権限はないでしょう?ほら、行動と言動の矛盾が露呈した。
だから僕はその手札では動かない。さぁ、次をどうぞ?」
どうぞ、と言われてそうですかとはいかない。これは面子の問題だ。
そんなことは分かりきっていたが、ささくれた気持ちはどうにも納まらず酷い言葉を投げつけた。
荒々しく男が立ち上がる。予想通りすぎて笑いたくなった。
「あまりに礼を欠いた物言いだ!失礼する!」
「ええ。どうぞ。出口はあちらです。見送りませんよ」
図星を差されて逆上するのはいただけない。
しかし所詮男なんてそんなものだ。行動の基準は善悪ではなくどちらがより自尊心を傷つけずに済むか。愚かだとは思うが、仕方ない。
「ああ、結構!全く、榊の君の気が知れませんな!」
「は?」
相手にしてみればただの嫌味だったのだろう。
しかし聞き捨てならないような言葉だった気がする。
思わず眉根を寄せた顔を見て、相手は鬼の首でも取ったかのように言った。
ここに来て本来の目的は忘れ去ってしまったらしい。
動揺した、ということは有効な手札になりえるということだった。
「一人帝に直訴したのですよ。ユウコ内親王と貴方の婚姻を破るべきではないと。血気盛んな友情には関心しますが、全く愚かだ。お怒りを買って今は軟禁中とは、お家に泥を塗ってしまった」
顔を真っ赤にして嘲る男はもう視界に入っていない。
数日前酷い別れ方をした友人の背中が思い出された。
分が悪いことは分かっていたはずだ。
それなのに何故そんなことをしたのか。
男の弁ではないが、それは愚かだとしか言いようがない。
「……ああ。そういうことか」
やられた、と思わず小さく声が出た。負けを認めるのは非常に悔しいが、今回は完敗だ。
少し考えれば分かることだ。
底抜けの善人だ。ある意味阿呆だ。それが榊という男だった。
「あー、ちょっと待て。同行しよう」
酒と不摂生な生活のせいでふらつく足を叱責して立ち上がる。
リュミシャールを出たときはまだ子どもだったのであちらでの比較はできないが、この国ではかなり長身の部類に入る。
必然的に見下ろされた男は思わず一歩退いて唸った。
「急に何を……」
「別に説得に応じたわけじゃ…いや、ある意味そうなるのか。馬鹿な友人の必死の行動に報いないわけにはいかないからね。
悪い話じゃないだろう?君の面子も立つし」
「馬鹿にしているのか!いい加減にしろ!」
体裁だけは整えた言葉を取っ払って、居丈高に命じる。
「四の五の言わずにそこで待っていろ。まさかこの格好で参内するわけにはいかないだろう?」
流したままの髪に糊の取れた服。
染み付いた煙草の臭い。
自覚はあるが悲惨だ。
どうせ屋敷を囲んでいる兵を動かすだけでもあの程度の風采の男なら暫くかかるだろう。少し時間を与えてやったほうがいい。
身なりを整えるために部屋を出て歩きながら思う。
榊は善人だが、あまりにも行き過ぎている。
これまでは幾度となくそれに甘え頼ってもきたが、こんな竹箆返しは予想していなかった。
レイシアがユウコを想っているのを知っている。それでも動けない立場も分かっている。
だから強制的に動かした。
流石に友人が軟禁されていると聞いて黙っていられるほど薄情ではない。
悔しいがそこまで読まれていたとしか思えなかった。
おそらく軟禁されている榊は思い通りにことが運んだと知れば、一人会心の笑みを浮かべるのだろう。そんな場面までありありと想像できてしまう。
「……安い芝居だ。大根役者しか揃っていない」
悪態をついてもどうにもならない。
人を振り回すのが専門で振り回される趣味はユウコ以外になかったはずだが、思うままにならない世の中だ。
しかしどこか晴れ晴れとした気分だった。
本当は言い訳をしている自分に気が付いていた。
立場上動けないとか、外交問題になるとか。
そんなことはどうでもいい。
怖かっただけだ。
切り売りされるようにやって来たこの国には何もないと思っていた。そして自分を切り捨てた故国にも何もないと思っていた。
今ならわかる。
それ以外に手段がなかったのだと。
必死の外交努力を重ねて、最も被害の少ない方法がこれだっただけだ。
そしてこのオースキュリテでユウコに出会った。
黒い髪に黒い瞳の、初恋だった。
そして、今日終わるかもしれない最後の恋。
崩れることのない凛とした瞳、それを支える強い意志。
生まれの上に胡坐をかいていた自分には眩しかった。
僻んでいたのだと思う。
それ以外に伝える術を知らなかった、なんて言い訳にもならない。
やがて長じて間違いに気が付いたときには、修復できない関係が出来上がっていた。
決定的な答えを聞くのが怖くてはぐらかしてばかりいた。
でも、もう終わりにしよう。
ユウコが望むなら、終わらせる。
故国よりも両国の万民よりも、ユウコの願いを叶えてやろう。