落花の雪に 2
助けて。
お願い、誰か。
誰か助けて。
鮮やかな手並み、としか言いようがない。
左大臣からとても受け入れられないことを聞かされ、真偽の程を確かめなければと思ったときにはもう遅かった。
「では、もう一度お聞かせ願えますか?」
白髪の老人が筆を片手に温和な表情で言う。
「ええ。何度でも」
「では、えー、思い出せる限りでそのときの状況をお願いします」
帝による母殺し。
これは国にとって看過できる問題ではない。当然に事実を詳らかにしなければならないことだ。
その理屈は理解できる。だから拒否は出来ない。
むしろそれを言い出したのが事件の当事者たる帝だと言うのだから、高潔な精神だといえるだろう。
「母上は私の部屋にいらっしゃいました。供の者は皆、部屋の外に控えていました」
「それは何故ですか」
「母上と私がそれを望んだからです」
結末は見えている。
国に仇なす母を涙を呑んで切り捨てた帝。
それ以外にありえない。
すべては予定調和だ。
それでも拒否は許されない。
たとえその間に、入内の準備が進められているとしても。
「やつれたね」
薄暗い部屋に入った榊は思わず眉を顰めた。
灯りは落としてあるというのに、影と雰囲気がすべてを物語っている。
華やかな金糸の髪さえ、僅かにその色がくすんだように見えた。
「……。」
榊の言葉がやっと届いたとでもいうように、緩慢な動作で顔が向けられる。
まるで手負いの獣だ。
傷ついているといのに眼光だけは炯炯として、余計に鋭さを増している。
「帰ったほうがいいかい?」
「……聞かせろ」
「正直、旗色は悪いよ。何て言っても帝の希望と左大臣一派の賛成がある。倫理や道徳振りかざしても、いつかは飲み込まれるだろうね」
多くの貴族にとって、ユウコの入内は寝耳に水だった。
同母の妹を帝を望むなど、あってはならない。
おそらくは母を失ったばかりの帝の一時の気の迷いだろうと思われていた。すぐに収束する騒ぎだと。
しかし実際に御前に詰めてみれば、左大臣が賛成だという。未だに帝も翻意していない。
ユウコ内親王は帝の母殺しの一件で忙しいらしく、意思は確認できていない。
旗色良好とは言えなかった。
「君は、どうする心算だ?」
「さて……どうするか」
榊にはこの気のない返事も理解できなかった。
立場上口にすることは憚られても、この友人が内親王を思っていることは知っている。
なのに何故この状況で動こうとしないのか。
「君が故国に掛け合えばいいだろう。すべて解決するはずだ」
すべて、という言葉には御幣があるかもしれない。
しかし大国を敵に回してまで帝が妹を望むというのなら、それは君主のあるべき姿ではない。
それを諌めることが出来ないなら、この国は狂っている。
「今更、どの面下げて」
自嘲気味に笑う様子に思わず声を荒げた。
「体裁なんかどうでもいいだろう!そんなものに拘っていたら失うぞ!」
詰め寄って胸倉を掴む。
抵抗なく僅かに浮き上がった上体と、力なく反った首。しかし表情は鋭かった。
「なら、お前らは何なんだ」
ひやりと首筋から背中に冷たいものが流れ落ちた。
「禁忌なんだろう?同母の兄妹が睦み合うのは。斎宮は純潔でなければならないのだろう?今お前も口にしたように、リュミシャールとの関係が悪化するのだろう?
これだけの理由が揃っていて、何故旗色が悪くなる。何故正論が通らない。
お前が望んでいるのは、僕が故国に掛け合うことで他力本願な解決じゃないのか?」
底冷えするような声で言われたことは、それこそ正論だった。
思わず手の力が緩むと、するりと衣が滑る落ちていった。
力なく去っていく榊の背中を見送りながら、どうしようもない嫌悪感に襲われた。それはどう誤魔化しても、自分に対するものだった。
榊に向けた言葉は正論だ。
だがそれ以上に自分の中に言い訳が燻っている。
動くことが出来ないのは、自分の望みが分からないからだ。
後宮に入るのはユウコの意思ではないと思う。
ではそれを阻むためにリュミシャールの力を借りることを望むだろうか。
皇帝である兄は甘くはない。
頭を下げればオースキュリテにもレイシア本人にも何某かの要求を突きつけてくるだろう。
では、国家間の約定であるレイシアとユウコの婚姻が破棄されたと知ったら。
ただで済ませるはずがない。
下手をすれば戦になる。
そこまで考えて頭を抱えた。
結局何をすればいいのか分からない。
空回る思考は断ち切ろうとしても出来るものではない。
何がしたいのだろう。
これが、何もせずにただ生きて来たツケだろうか。
――――「惨い。あの方は、なんて惨い」
――――「あの子さえ、生まれなければ。あの子さえ、産まなければ」
――――「しかし、この母も惨い。お前は、なんて哀れな子」
――――「お前が、私の子だというのか」
――――「喜べ。お前にも生きる道がある」
――――「行け。私の前に二度と現れるな」
――――「お前が、母上の御子か」
――――「今のこの国に、お前の生きる道はない」
――――「お前もまた、私の被害者か」
「……っ!!」
大きな音で目が覚めた。
薄闇の中で目を凝らすと、横にあったはずの小卓が倒れていて酒瓶が転がっている。派手な音は自分がそれを倒したからだろう。右腕が痛む。
息が白くなる季節だというのに背中にはじっとりと汗をかいている。鼓動がうるさくこめかみに響いた。
長らく見ることのなかった夢だった。
嘆く母と歓喜に震える父。無感動な兄。
振り切ったはずの思いが重く心に圧し掛かる。
口では故国などどうでもいいと言いながら、いざ切り捨てようとすれば迷いが生じる。
ここで自分が無分別な行動に走ったら、何と言われるだろうか。
母は嘆くだろうか。
兄は蔑むだろうか。
そして、ユウコは何と言うだろう。
ポツリと涙が零れ落ちた。
何も出来ない自分は、子どものままだ。
促されるままに生きてきて、図体ばかりが大きくなった。
ユウコが必死で磨いてきたものを、自分は何一つ持っていない。
側にいる資格などありはしないのに、離れることも出来ない。
もう、一歩も動けなかった。
久々の更新です。
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