落花の雪に
「これを、今度の使節団に持たせてください」
すっと差し出したのは、妹に宛てた手紙。
それを見てタカオは眉をひそめた。
「またか。どうせ返事は来ない。アレはそういう者だろう」
「……それだけのことを、したのですから」
タカオは嫌悪を露にしてはき捨てた。
「それだけのこと?それは何だ。
アレはそもそも存在してはならぬ存在。この国の、皇族の汚点だ。それをどう扱おうと非難される謂れなどあるか」
「…ともかく、お願いいたします」
ユウコは何も反論しなかった。
悲しく悔しいことではあるが、タカオの言うことはこの国の支配者層が考えていることと同じだからだ。表立って反論すれば、その余波が海を越えて妹に及ぶ可能性がある。もし妹が海の向こうでユウコが望んだように幸せを掴んでいるのなら、それに水を差すようなことはしたくない。
黙って頭を下げたユウコに、タカオはふてくされつつも文を受け取った。
タカオが何故毛嫌いするショウコとユウコの橋渡しをするのか。
その答えは驚くほど簡単だ。
タカオにとってなんら不利益が無い。それに尽きる。
むしろそれを拒否すればユウコが益々ショウコに執着する。それを見るのは不愉快でしかないのだろう
そこには帝としての考えも、国益も無い。ただタカオ個人があるばかり。
ユウコは母の死を迎えて一つの真実にたどり着いた。
自分が大切に思っているのは兄ではない。
他の多くの者と同じように、帝位を尊重していたに過ぎないということを。
「退屈だ」
人を呼び出しておいてその言い草は何なのか。
「この国には何もない」
ぼんやりと庭を見ながら呟く様は、タカオの中の真実を口にしているのだと分かる。
「私はそのようには思いません」
「……ほう?」
「梅が散り桜が咲きました。もう少しすれば若葉が萌えいずる季節になりましょう。楽しみではありませんか?」
「……。…見飽きた」
それはまるで生きるのに飽きた、と言っているようだ。
ならば勝手に死ねばいい。生きる気のない者を生かしておくほど、元来世界は寛容ではないのだから。
他の誰が相手でも、ユウコはそう言って切り捨てる。
しかしタカオにだけはそう言うことは出来ない。
皇統は男児優先のこの国で、現在直系はタカオただ一人。女児が皇統を継いだ場合には補佐役をおく必要があるが、その人選は極めて政治的であり困難だ。
皇統を安定させるためには、タカオを帝位に据え置くより他にない。
部屋の隅の控える重臣たちも、無気力な帝に何も言わないのは、逆上されるのが恐ろしいからだ。
「では書物でもいかがでしょうか。刺激にもなりましょう」
「詩歌や物語の類は殆ど読みきったと知っているだろう。今更目新しいものもあるまい」
「そうではなく、法や政といった学問はいかがでしょうか。多くの考えを知ることは悪いことではないでしょう」
ユウコは以前からこの内裏がその他の場所から隔絶されているのではないかと感じていた。
それは都の外と言った広い範囲ではなく、内裏から目と鼻の先にあるユウコの屋敷とも一線を画しているように思う。それが神性を維持するためなどではなく、存在していることは確かであるのにまるで見えていないような。
「最近ではお認めになるか否かは別として、皇位に関する新たな考え方も出ています。またリュミシャールに移った者たちが興味深い報告をいくつもしていますから、楽しめるのでは?」
「そんなものが面白いのか?」
「少なくとも、知ることなく断じることは出来ますまい。知った上でどのように判断なさるかは主上次第でしょう」
その挑発的な物言いに、タカオが僅かに口の端を吊り上げる。
「いいだろう。…次はそれらを用意して参れ。暇つぶしくらいにはなるだろうからな」
「かしこまりました」
すっとユウコが頭を下げると、大臣の一人が口を開いた。
「おそれながら申し上げます。そのような雑事は主上のお耳に入れるようなことではありません。主上には季節の移ろうこの時季にはお体大事にしていただきたく存じます」
その言い方にユウコはなにか違和感を感じた。
しかしそれを具体的に言葉にする前に、タカオが口を開く。
「お前…私に何を言っている?」
「しかし……」
「わきまえよ。下がってよい。しばらく顔をみせるでない」
伏せられた顔は見ることが出来ないが、僅かに震える拳から感情は察せられた。
軽く視線を走らせると、どの顔も一様に押し殺した不満に彩られている。
――――これは、なに?
ユウコは退室を命じられた大臣が下がっていくのを見送り、タカオに向き直った。
「よろしいのですか?」
「お前もくどいな」
タカオは盛大なため息をついて立ち上がった。
「先程申し付けたように取り計らえ。私は休む」
以前にもまして無気力となった兄の背中を見送る。
少なくとも以前は臣下に対してあからさまにそういった様子を見せることは無かった。
こうして徐々に壊れていくのだろうか。
壊れないでと願ったものが、どんどん手のひらから零れ落ちていく。
「ユウコ様」
後宮に与えられた部屋に戻る途中で、掛けられた声にゆっくりと立ち止まる。
後宮に部屋を持ってから、事実上内裏の中に囚われてから、ユウコを斎宮と呼ぶ者は少なくなった。それがどうしてなのか、その理由は考えたくも無い。
「何か?左大臣」
廊下の先に控えていたのは、先程タカオの不興をかった左大臣だ。これほどの地位の者がいつとも知れぬ帰りを待っていたというのはただ事ではあるまい。
「お話がございます。少々お時間をいただけますでしょうか」
丁寧に頼んでいる形を取っていても、実際に拒否は許されないのだろう。それが分かっているからユウコもあえて歯向かおうとは思わない。
導かれるまま用意されていた部屋に入る。廊下に女官と衛兵が控えているので危険は無いだろう。
「先程のお話ですが、ご再考いただきたく存じます」
「…先程?」
「主上に新たな学問は不要ではないかと存じます。ただでさえ主上はそのお体を気遣って、外国語は言うに及ばず漢詩・論語も就学されておりません。我々としましてはこれ以上お身体にご負担を掛けることは控えていただきたいと考えております」
「我々、と言いましたね?それは参議の総意と考えてよいのですか?」
左大臣は黙って首肯する。
ユウコの違和感は益々強くなった。
「そうですか…。日頃反目しあう者同士が合意に達したとは…喜ばしいことですね。今後もそうであると良いのですが」
強烈な皮肉にも左大臣の様子は変化しなかった。
これを異変と言わずして何と言うか。
常日頃参議の中には己が利益のためあるいは相手の不利益のために、反目しあう者同士が少なくない。全会一致で物事が決まるなど、滅多に無いことだ。
ユウコは檜扇を開いて表情を隠した。一体、何を考えているのか。
「ご再考いただけますでしょうか?」
「しかるべき理由を提示するなら、考えましょう」
「ですから…主上のお体を思えばこそ」
「それでは納得できません」
はっきりとユウコは言いきった。部屋に焚き染めてある香が鼻に付き、無意識に扇で煙を払う。
「主上は現在お健やかでいらっしゃる。書物を開くことがそれほどお身体に障るとは思えません。むしろあのように緩慢な時間を過ごされることのほうが有害ではありませんか?」
一歩も引かないというユウコの姿勢が伝わったのか。左大臣は明らかに不快気にため息をついた。
「では、ユウコ様は主上にとって書物を開くことに何の意味があるとお考えですか?」
「……は?」
「率直に申し上げましょう。私どもは主上が政の知識を求められるのは百害あって一利なし。国を滅ぼすことに繋がると考えます」
「どういう…ことですか」
言葉の意味を理解できない。
国主が政に関わることは害であると、そう言っているのだろうか。
左大臣は老いを証明する皺を目じりに作って言った。
「ユウコ様、貴女は聡い。
私も老いました。後は息子に譲る心算です。あれは立派に勤めを果たし国のため主上のため皇族のために力を尽くすでしょう。ですから主上には何らご心配を頂く必要はございません」
「主上に…国政に関わるな、と?」
左大臣の笑みは益々深くなる。
反比例してユウコはさっと青ざめた。
この国はいつからおかしくなった?兄の代?父の代?あるいはもっとずっと前から?
「主上のためを思えばこそです」
主上のため。
国の政に関わることは主上のためにならない。換言すれば、政に容喙するならばただでは済まない――。
これは明確な脅しだ。
凶暴な力を持って人を従わせる。
ユウコは知らず知らずのうちに扇を持った手に力を込めた。
「ならば―――」
暴力で以って人を従わせる相手に、どこまで対抗できるかは分からない。だが黙って引き下がることなど出来るはずも無い。
それはユウコの皇族としての矜持だ。
「ならば、私は政に関する一切の文書に御璽を使うべきではないと考えます。いえ、むしろそれが正当でしょう。主上が政に関わらないのであれば、御璽を用いて民を動かすのは民に対する詐欺に他ならない。
今後は参議各位の名で文書を発するべきでしょう。……勿論、国外に対しても」
「…っそれ、は」
一瞬で左大臣の顔色が変わった。
御名御璽を用いて政をするならば、失策を責められるのは帝。かの大国との関係においても、責任を取るべきは帝となる。国政の中心のことはその場にいる者にしか見えない。左大臣たち参議は自らは一切の責任を負うことなく、国を我が物にしようと企てたのだ。
「如何かしら、左大臣。私の言葉は間違っていますか?」
ユウコは何も帝が政治を行うことが最良だと考えるわけではない。むしろタカオには一切のやる気が無く、また知識もない。
しかし知識は補えばいい。
帝以外のものが政治を行うのならば、責任の所在は明確にしなければならない。それが為政者としての義務だ。名を持たない者は責任を取ることが出来ないのだから。
「主上が政を勉強することで不利益を被るのは民ではなくあなた方ではありませんか?既得権益がなくなるかもしれないから、あるいはより都合のわるいことが露見するから、主上に停滞を求めるのでは?」
まっすぐな視線を受けて、左大臣の老獪な顔が醜く歪む。
そこにはまぎれも無い憎悪を嫌悪が浮かんでいた。
「…内親王として斎宮として、お言葉は慎重であるほうが望ましいかと」
「仮に参議各位が政をするにしても、主上の責任がなくなるわけではありません。参議の任命にかかる責任は負って然るべきでしょう。ですが個々の政策に対する責任は担当の為政者にかかるべき。
主上を隠れ蓑にしようというのは、むしが良すぎるのというもの」
これ以上の話は無駄だろう。
そう判断して席を立つ。
「ユウコ様っ!」
どこか必死な左大臣を睥睨し冷たく言い置く。
「安心なさい。私は今の話を主上に申し上げる心算はありません。参議各位はこの国に必要な人物です。今後はより有意義な話し合いの場を持ちたいものです」
互いに全く譲らない視線がぶつかり合う。
破裂しそうな緊張を破ったのは、左大臣の嘲笑だった。
「まぁユウコ様の最後の政治指導として、心に留め置きましょう」
「……何?」
「正式に後宮に入られれば、政治に介入することはできません。まったく、惜しいことですなぁ?」
正式に後宮に入る。
話が見えない。
「帝はユウコ様を正式に入内させると仰せです。まさか、まだご存知なかったのですか?」
白々しい言葉にユウコは目の前が真っ赤になった。
怒りに拳が震える。
「許されるはずが…ないっ」
搾り出した言葉を左大臣は一蹴した。
「何故ですか。至高の存在である帝が望まれるのです。……帝が望まれるのであれば、黒も白になるのですよ」
歪んだ微笑みが、焼き付いた。
本当に受難なヒロインです……。
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