泡沫 3
注:残酷表現アリ
「そなたを褒めにやってきたのじゃ」
「何の冗談ですか、それは。面白くもなんともありませんね」
もはや体裁を繕うことさえ面倒で、口元を隠していた扇で左の手のひらを叩いた。パチンと軽快な音と共に扇が閉じられ、両者の視線が互いに譲らずぶつかり合った。
「そうかっかするでない。言葉通りの意味に取ればよかろう」
「如何せん、思い当たる節がないので」
どこまでも冷たい言葉の応酬だが、それでも皇太后はにやりと笑った。
それを視界に入れてしまった瞬間、ユウコは扇を持つ右手を指先が白くなるほど握り締めた。
それは恐怖以外の何者でもない。
これから目の前に晒されるであろう、到底理解し得ないものに対する恐れ。自分とはかけ離れた場所に存在する、意思の疎通を図ることができないものに対する嫌悪。
「そなた……」
粘着質な視線が幾重にも重ねられた衣服を通してユウコの腹部に注がれる。
「これまでよく主上を支えてくれたな」
「……っ!」
そんなことを言われたくは無い。
犠牲を払ってきたわけではない。そうすべきと思ったからしてきただけだ。
「妾に、このようなことを言う資格は無いが……」
自嘲するように言う。
おかしい。
こんなことを言う人ではなかった。
「一体、何を」
皇太后は深々とため息をつき、そして笑った。
「妾はそなたを哀れんでおった」
「貴女に哀れまれるほど、堕ちた心算はございませんが?」
「娘を斎宮にしたことは、残酷であったやもしれぬ…と」
突然の言葉にユウコは眉を顰めた。
立身栄達を願うなら、息子を帝に、娘を斎宮に出来たことは最高の形であったはずだ。貴族に嫁がせれば政局に左右されることもあろうが、斎宮の地位は独立にして帝以外からは不可侵だ。
「斎宮であれば、清い体が求められよう。女としてそれは不幸じゃ」
搾り出すように紡がれていく言葉に、耳を塞ぐことが出来ない。
「そう思えばこそ、砂漠の皇子との婚姻を進めたが…そなたにとっては重荷でしかなかったのだろうな?ずっと思っておった。そなたは真面目すぎると。
無理に婚姻をさせたはいいが、よくよく考えればそれでどうにかなる問題でもなかったな」
「…母上?」
「無理に母と呼ぶ必要はない。妾は確かにそなたの手本となることは出来なんだ。
しかしそれでも子の幸せを願っていなかったわけではない……」
「いきなり、何を…」
「そなたが…妾を恨んでいることは知っておる。
されど妾にはこのようにしか生きられなんだ。どうあっても入内したときから生家のことを考え、危険を排除し…いつしか手を汚すことに抵抗がなくなった」
先帝が寵愛した女を次々と殺め、生家の政敵を排除し続けた。
影の権力者とも呼ばれた女の懺悔は続く。
「妾には主上を救うことは出来ん。あの方のお心はもはや遠い。そなたに触れることも叶わないと諦めておったが…妾ではない、そなたを案ずる者があるならその方が良かろう」
「……一体、どうしたのですか。何を、急に…」
それではまるで。
辞世のようではないか。
「あの、禁忌の子も妾は殺そうとした。その母も。国の歴史にあってはならぬとそう信じておった……」
すべてを諦めたかのようで、それでいて華やかな笑顔を浮かべる。
この人のこんな顔は、見たことがない。
「やめて…」
やめてくれ。そんな懺悔は。
「そんな言葉でショウコは救われない。貴女が殺してきた人は、そんなことでは赦さない。
今更懺悔なんて、聞きたくない!」
「わかっておるわ」
その顔は、今まで見たことがないほど穏やかで。
年老いた手で、ユウコの頬に流れた涙を掬い取る。
「わかっておる。懺悔ではない。これまでも生きたいように生きてきたのだ。死ぬときもやりたいようにやるに決まっておる。
主上はそなたを正式に女御としてたてる御積もりらしい。
聞け。それを阻もうとしておる者がいる。そなた、分かるな?
その者と共に行け。ここにいては、主上諸共、腐り落ちてしまうだけじゃ」
その言葉を飲み込むか飲み込まないかの内に、廊下が慌しくなった。
女官の足音ではない。複数の男の荒々しい音だ。
「…何?」
「ようやっと、おいでになったか…」
状況を把握できずにいるユウコに比べ、皇太后の声は穏やかだ。
そのことが余計に焦燥感を募らせる。
「主上のご命令に背いて来たのじゃ。お咎めがないはずがなかろう?
先程の話、忘れるでないぞ」
通常であればいかに帝いえど母親に容易く処罰を下すはずがない。
しかし、ユウコは先程、おそらく帝にとっては都合の悪い情報を聞いてしまった。
「まさか……まさか、その話をするために?」
自分に逃げろと言うためにここに来たのか。
声が震える。
この人は、子どもなど道具程度にしか考えていないのではなかったか。
こんなことのために、自分の身を危険に晒すはずがない。
「妾に主上を救うことは出来ぬ。しかし、諌めることは出来よう」
答えを聞くことは出来なかった。
荒々しい音と共に、扉が開けられた。殆ど蹴破るといっていいほどの勢いだ。
「…どうしてここにいらっしゃるのか、訳をお聞かせ願いましょう」
熱を感じさせない声で問いかけるのは、帝その人。
その手には、太刀。
「主上!」
「ユウコは、黙っていろ」
一歩、帝が皇太后に近づく。
反射的にユウコは二人の間に割り込もうとしたが、皇太后がそれを阻んだ。
「逃げる心算は、ございませぬ。ですが、妾の侍女たちには罪がない。どうか放してやってもらえませぬか」
言われて視線を走らせれば、皇太后と共にやってきた侍女たちが屈強な男に捕らわれている。その顔は一様に青ざめていはいるが、諦めているようにも見えた。
「言い訳は、せぬと?」
低い声で帝は問うた。
何でもいい。どうか釈明して。
そう切に願った。初めて、母の無事を祈った。
しかしその思いは裏切られる。
「致しませぬ。主上のご命令に背いたことは事実」
すらりと鞘から刀身がその姿を現す。冷たく光を放つ、人を殺めるための道具。
「主上!おやめください!!」
「抑えていろ!!」
その声にすばやく反応して、武官に身体を押さえつけられた。
ユウコの身体を痛めないよう配慮はしているが、どんなに身を捩ろうとも自由にはならない。
「主上、ただ母が娘に会いに来ただけです!ご命令に背いたことは事実ですが、それほどの罪ではございません!」
叫びながらふと思った。
そうして私はこんなに必死なんだろう。軽蔑していたはずの人間が手打ちにされようが、関係ないはずなのに。
「主上!!」
ゆっくりと、帝が振り返る。
その瞳は虚無。
「会いにきていただけ?この女が?そんなはずはあるまい…私からお前を引き離しに来たのだろう?
これまではその腹を借りた恩も感じていればこそ、好きにさせてきたが…。もはやこれまでだ。何者であろうとお前を奪うものを野放しにはしておけん。
もともと生家以外からは評判の悪い女だ。殺したところでそう大事にはなるまい」
「そうではなく!そんなことではないのです!」
確かに皇太后を殺めたところで帝の評判は落ちないだろう。むしろ問題の多い母親に己でけりをつけたと評価されるかもしれない。
でも、そんなことをすれば必ず悔やむときが来る。
発端となったのは自分だ。これ以上傷を広げるわけにはいかない。
「……兄上!!」
「お前のそういう顔は、久々に見たな。やはり、人形よりもその方がよい。
……せめての礼だ。私が直々に手を下してやろう」
笑顔を浮かべたかと思えば、皇太后に向き直って冷ややかに告げる。
その瞬間、悟った。
もう、覆すことはできないのだと。
「主上から死を賜るとは。恐悦至極に…!」
音もなく、刀が振り落とされた。
空気と共に、豪華な衣装と現世とのかかわりを断ち切って。
「あ…。あ、や…いやあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
老いた体のどこにこれほどの鮮血があったのか。
そう思わせるほどの紅い花が畳に、壁に、衣装に咲く。
「母、上……母上、母上!」
もはや武官もユウコを押さえつけることはしなかった。誰の目から見ても皇太后が助からないことは明らかで、手の尽くしようがないとわかっていたから。
「母上!どうしてっ…!」
どくどくと腹から流れ続ける血を止めようと、傷を押さえる。
そのユウコの手さえ赤く染めて、血溜まりはどんどん広がっていった。
「なんで!最後だけこんなことしたって、赦されないだから!」
どうせ悪なら、世にはばかって生きていけばよかったじゃない。
最期に混乱させないで。
「…そなた、は…厳し、ぃ、な」
荒々しい息の下なのに、その顔は穏やかだ。
わかってしまった。
わかりたくなどなかったのに。
「母上は…愚かですっ」
腐った政治を立て直すには契機が必要だ。
これまでの象徴が地に堕ちて、また新たに一から作り直すために。
一族主義と世襲制、寵愛人事の象徴だったのは、この人。政治を立て直すには、どうしても帝の手でそれを断ち切らねばならなかった。
これで国は持ち直すかもしれない。
この人はきっと、後世まで稀代の悪女・腐敗の温床として語り継がれるのだろう。
今日ここに来たのも、ここで散るのも、子どもたちのためだったのだ。
「タカオ、ユウコ……幸、せ…にな」
そう言ったきり、もう二度とその口は言葉を紡ぐことはなかった。
―――――そなたを褒めに来た。
主上にしろ砂漠の皇子にしろ、愛する者を見つけたそなたを、褒めにやって来たのじゃ。