泡沫 2
何も考えなくとも、時間は常と変わらず過ぎてゆく。
何もしない時間が長いと感じるのは、その時間に何かをしなければならないと考えるからだ。
内裏の奥深く、外部との接触がただでさえ少ない場所で、ユウコは意図的にすべての情報を遮断した。
聞いてしまえば望まずとも頭は考えてしまう。それを止める術は無い。
もう十分だ。
何もかも。
ここで帝の訪れを待って、ただ生きていくことはそれほど罪だろうか。
たったそれだけで帝の心が安らかにあるのであれば、それもまた臣下の勤めではないか。
幸か不幸か、ここにはユウコの現状を否定するものは一人もいない。最低限の言葉を交わすだけの侍女たちに囲まれ、ただ生きていればそれでいい。たまに訪ねてくる女御は、どういう説明を受けているのか聞かれたくないと思うことは一切訊ねてこない。
ここでは息をするのがとても楽だ。
安穏と息を吸い、息を吐き、それを繰り返していればいつの間にか一日は終わる。一日の始まりも終わりも、意識せずとも教えられ、そしてそれに頷けはそれでいい。
しかし息をするのが面倒だった。
それをしなくては本当にいけないのだろうか。
もう、生きていくのは面倒で。
でも、死ぬことはもっと面倒で。
だから惰性で生きている。
そこに自らの存在価値など見出せようか。
最も早く入内したこの女性は帝の寵愛もさることながらその人柄は信頼に足りる、というのが宮廷の評価らしい。一部では家格がそれほど高くは無いために中宮候補からは外されているのが惜しいとも言われている。
「庭の椿がそろそろ花を咲かせると思いますの。ささやかですが宴などいかがでしょうか?」
「…キョウコ殿、わざわざお誘いいただいて申し訳ないのですが……」
「あら、駄目ですわ」
あっさりとユウコの言葉を遮り微笑む。決して派手な顔立ちではなく月並みの容姿であるが、野の花のような可憐さがある。
「駄目、ですか?」
「ええ。駄目です。椿の宴は大きくは無いですが、冬の間はこういったことは少ないのですから。
主上は勿論宮中の方もいらっしゃいます」
穏やかそうに見えて意外と押しは強いらしい。
反抗する気力も無く、ユウコは投げやりに答えておいた。
「……そうですね。…考えてみましょう」
満足そうに微笑む相手に、面倒だと思うよりも仕方が無いなと苦笑する。
「それも…キョウコ殿の才覚なのでしょうね」
「え?何ですか?」
檜扇の影にさっと口元を隠し、ユウコは顔を背けて言った。
「いえ、お気になさらず」
会話は決して不快ではない。
それは相手が気を使ってくれているからなのだろう。
「……。」
「まぁ、ユウコ様、お疲れですか?」
口元を隠したままで俯いていたのがそのようにとられたらしい。どうせなのでそれを否定せずに黙っていると、やはり話は勝手に進んでいった。
「申し訳ございません。私、少し話過ぎてしまってようですわね?
私は戻りますからどうかお体をお休めください」
そういって慌しく立ち上がり帰り支度を始める。
「…申し訳ありません、キョウコ殿」
善意の塊のような人間を騙すのは、気分のいいことではない。
しかしすべてに先立つおっくうだという感情はいかんともしがたかった。
「そんな、お気になさらず。でも椿の宴はよろしくお願いいたしますね?他の者もユウコ様にお会いするのを楽しみにしておりますので。……あら」
いい人間であることは間違いないが、しっかり釘を刺していくことも忘れない強かさもあるらしい。一瞬頭を抱えたくなったが女御があげた奇妙な声に反応して視線を上げると、たった今あけられた扉の外に帝が立っていた。
「主上。ユウコ様はお加減が優れないご様子ですわ」
略式の礼をとり伝えた女御には答えを返さず、帝はユウコに視線を投げかけた。
一瞬絡み合う視線で、頭の回線が切り替わる。
「主上、ようこそおいでくださいました。うれしゅうございます」
「気分が優れないというのは?侍医たちが必要か?」
女御の存在を完全に無視して帝は部屋に足を踏み入れ、几帳の影にいるユウコの顔を覗き込んだ。
それは明らかに親密な男女の距離感。
「いいえ。少し休めば問題ありません」
「そうか。無理はするな。……キョウコ」
「はい」
「いつまでそこにいるつもりだ。下がれ」
あたかもそこに邪魔なモノがあるから取り除くかのような冷たさで。
その言葉に女御は泣きそうに顔を歪ませたが、ユウコからは帝が陰になっていてその表情をうかがうことは出来ず、帝はこれまで寵姫と言われていた女を振り返ることもしなかった。
廊下に控えていた侍女たちが青ざめた顔をしていたが、女御は何も言わず早足に立ち去った。
「今日は何をしていたのだ?」
「…何も」
「キョウコとは随分話が盛り上がっていたようだな」
「そうでもありませんわ」
「内容を言ってみろ」
「主上のお耳に入れるようなことは、何もございません。取りとめの無いことを、つらつらと話していただけですもの」
隠し事をしようとしているのではなく、本当に何も伝えるべきことが無いといった風情だ。
タカオが覗き込んだユウコの瞳は何も捉えていない。
黒い瞳は人形のようで、なまじその容姿が整っているだけに見る者をぞっとさせる何かがあった。
「…ユウコ」
唇を寄せれば従順に受け入れる。
いや、その表現は正しくは無い。
受け入れているわけではなく、拒否しないだけだ。この二つにこれほどの違いがあるとは、こうなるまでタカオは知らなかった。
瞼も下ろされることはなく、何の感情も伴わない口づけは酷く味気ない。
「私は……間違っているのだろうな」
ここ数日で細くなった肩を抱き寄せて、ぽつりともらした。
胸に去来するのは後悔の念と、しかし消しきれない暗い充足感。
手放してやるべきだとは分かっている。
しかしこの手を離してしまったら。
「主上が間違うことなどございません。…主上はこの国を統べる唯一のお方なのですから」
感情もなく淡々と紡がれる言葉は、なおさら胸を痛めつける。
ユウコを捉えその心も身体も縛って己のものとしたのに、結果は一層の孤独を連れてきた。
少なくとも以前のユウコは人形ではなかった。様々なしがらみがあったとはいえ一人の人間として自分に向き合い、帝であるタカオも個人であるタカオも確かに見ていた。
これが代償だろうか。
相手が望むものを分かっていながら、それを踏みにじったことへの代償だろうか。
タカオは腕に力を込めて。一層強くユウコを抱きしめた。
「それでも…私は……!」
この手を離したら、どうすればよいのかわからない。
たとえ完全な形ではないとしても、失うよりはずっといい。
ユウコがその心に何一つ受け入れないとしても、それでもその瞳に映るのは今は自分だけだ。そんなことでこの沼のような浅ましい心は喜びに震えるのだから。
どうせ、本当に欲しかったものは手に入らなかった。
これ以上ない形で踏みにじられ、汚された。
もはや、自分がやっていることは復讐なのか己の望みなのかわからない。
ただ一つ明白なのは、ユウコの腕が抱きしめ返してくれることはないということだった。
常に生き生きとしていた瞳はどんよりと闇を映し、唇は何かを考える前に相手の言葉を肯定するだけ。
望んだものは、手に入った。
手に入らないものなど、これまで無かった。
この手に取った瞬間に、枯れてしまう花があることなど知らなかった。
「お待ちくださいませ!」
「どなたもお通しするなとの、主上のご命令です」
「どうか表でお待ちください」
複数の足音はどんどんこちらに近づいてくるようだ。
珍しいこともあるものだ。
侍女たちはいつも水の中を進むように移動する。衣擦れの音は聞こえてもその足音が聞こえることなど滅多にないのだが。
「「「皇太后様!!」」」
その言葉を耳に捕らえたと同時に、戸が勢いよく開け放たれ見知った顔が飛び込んできた。
「久しいのぅ。息災のようでなにより」
赤すぎる紅を刷いた唇を歪ませ、笑う女。
若い頃は国一番との声が高かった美貌は見る影を潜め、今はその身に溜め込んだ欲が外見ににじみ出ている。
冬の始まりの空気は凛として思わず背筋が伸びるものだ。その空気がもつ僅かな香りが鼻腔をくすぐるとき、人は厳しい冬への覚悟を決める。
しかしその香りをかき消して、激しく室内に流れ込む香油の強烈な匂い。
御簾ごしに相手をはっきりと捉え、強く見据えた。
久しぶりに頭が冴える。体中に、血液が巡る。
「お久しゅうございますね」
知らず知らずに顔を歪ませ、ユウコは低い声で言った。
「母上」
その応えに、女の唇から黄ばんだ歯と不健康な歯茎が覗いた。
でっぷりと肥えたその身体を下品なほど豪華な衣装で包み、痩せた髪を高々と結い上げ豪奢な簪を挿す。
それで己の力を誇示している心算なのだろうか。
「その目よ。
そなたはいつでも妾に汚らわしいものでも見るような目を向ける。真の母子であると言うのに」
「…何の御用でしょうか」
どこまでも冷淡に突き放す。
しかし今日はそれを不快に思うことも無いらしく、鷹揚に笑んだ。
「無粋なことよ。母子の語らいに他の目は要らぬ。下がれ」
そういって皇太后は人払いをするが、侍女たちの目は明らかにユウコに許可を求めていた。それが気に障ったらしく、大きな声が上がる。
こうも簡単に激昂するから、鷹揚な態度も着飾った容姿もすべてが安普請に見えてしまうのだと言うことに気付かないのだろうか。
「妾が下がれと言っておるのじゃ!下がりゃ!!」
「しかし…」
「まだ言うか!!」
「……下がりなさい」
決して大きくは無い静かな声でユウコが言うと、侍女たちは躊躇いながらも退出していった。結局はこれが立場の差、見られ方の差というものだ。
「そなたらも下がりなさい」
つと視線を向けると、皇太后付きの侍女たちの数名がその場に留まっている。
「私どもは、皇太后様に従います」
その言葉にユウコは思わず嘲笑を顔に浮かべた。
どうやら先程の言葉はユウコの侍女にのみ向けられていたらしい。別段彼女たちを特別に扱うわけではないが、それにしても滑稽にも程があるというものだ。
「『母子の語らいに他の目は要らない』でしょう?それとも…」
一人では娘と対等に話すことも出来ないのか。暗にそう問いかけると、皇太后はしぶしぶといった様子で人払いをした。
その威光を称える者がいなくなれば、その姿は益々小さく見えた。
この人はどうしてこうなってしまったのだろう。
「そなたは真に妾が憎いと見えるな」
ポツリとこぼされた言葉があまりに小さく、ユウコも思わず呟いた。
「…はじめから、厭うていたわけではございません。母上には、尊敬できる方のままでいていただきたかった」
「…そなたにも、いずれ妾の思いがわかろうよ」
答える代わりに力なく首を振った。
先帝の中宮として数多の女たちのなかで誰よりも早く嫡出の男児と女児を上げ、すべてが思うとおりに進んでいたはずだ。あるいは思うとおりになりすぎたのだろうか。
何があったのかはっきりとは分からない。
しかし母が権力を私欲のために使ったことは確かだ。
後宮の女を次々と殺め、自分の他に唯一子を上げた女は二度と帝に会えなくなった。
どんな理由があろうとも、ユウコは母の所業を認めることは出来ない。
そう思って俯くと、大げさなため息と共に言葉が吐き出された。
「まぁそんなことはよい」
「妾は今日そなたを褒めにやってきたのじゃ」
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