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雪待ちの花  作者: Akka
10/22

泡沫

「お前を、後宮に移す」

 

後宮に移す。

それが意味することは――――。

刹那の沈黙の後、ユウコは気が触れたように叫んだ。

「いやぁ!やだ、いや…やぁっやっやだぁぁぁ!」

自分がどのように見えているかとか、そんなことは眼中外だった。

そうしなければ大きな流れに飲み込まれてしまうことは分かっていたから。

「やだっいやいやいやいやっ!離して、離してよ!」

めちゃくちゃに身体を動かした。それは普段舞の型を身につけた人間が取る優雅さとはかけ離れた、乱雑で暴力的な動きだ。

「いやぁっっっ!触らないで、触らないで!!]

空を切り続けていた手が、何かに触れた。

それが何であるのかを確認する前に、爪先はその柔らかな肉を切り裂いた。

「……っ!」

それでも拘束する力は弱まらず、顔をしかめたことで力の入った頬から一層鮮血が流れ出る。

それはまるで役者が施す化粧のように白い肌に映え、頬から顎を伝って首筋を彩り、着物に紅い花を咲かせる。

「離してよぉっ後宮なんか行かない…私は兄上のものじゃない!」

「――っ!!!」

それまで抑えるためだけに使われていた力が、暴力的に作用した。

強く肩を押され背中を強か打ちつけたユウコは、痛みに強く目をつぶった。力が弱った隙にのしかかられ、全身で全身を押さえつけられた。

きつく目を閉じた下の頬に、温かい何かがポツリと落ちる。

「では、お前は誰のものだと?」

少し位置を変えてポツリともう一つ。

荒い呼吸の下で、問は重ねられる。

「お前は私以外の誰のものだ。目を開けて答えろ!」

「…私、は……」

震える睫の下から涙が一滴零れ落ち、頬に伝った。その雫は頬に落ちた紅に触れ、そっとその色を変えていく。

「私は」

続けようとした言葉は舌の上で凍りついた。

「続けろ」

「兄、上」

そろそろと開いた瞳は目の前の光景を捉えた瞬間に、最大限に見開かれそのまま固まった。


頬から続く一筋の紅。


ユウコは無意識に、その頬に手を伸ばした。既に血は止まっているように見えたが、その色はあまりに鮮明だった。

震える腕を伸ばし頬に触れようとした瞬間、呼吸が止まった。

自分の爪が紅く染まっている、その理由。

「ユウコ、…お前は誰のものだ?」

「兄上」

「誰のものだ」

「兄、上っ」

「誰のものなのか、と、聞いている!!」

「……主上!!」

兄ではなく、その名でもなく。最後に呼びかけたのは、その位。

 

たとえ医師であっても、いかなる理由であろうとも、その身体を傷つけることは許されない。

その命を救うためであろうがその苦痛を取り除くためであろうが、在位の間は決して損なわれることがあってはならない、絶対不可侵の玉体。


その血の一滴までもが絶対的な存在を象徴する。

 

本能的な恐怖だった。有り得てはならないことに対する恐怖。

「そうだ……お前がこの肉を切り裂いた」

ユウコの恐怖を分かっていて、嫣然と微笑む。

その心を確実に縛るために。

その心を確実に蝕むために。

「私は、お前の兄である前に、この国を統べる者だ」

しんしんと降り積もる雪のように一つ一つは小さかろうとも、確実に心に澱を溜めていく。

それでもユウコは否定した。ただ、己のためだけに。

「…お許しください。私は兄上の妹でありたいのです。……私と貴方は、同じ血を分けた兄妹です」


必死で搾り出した言葉を嘲笑うかのように、艶を含んだ声が重ねられる。

取り去ることの出来ない澱が、溜まっていく。


「この血はお前のものと同じか?」

ユウコの頬に落ちた血は空気にふれ、色を黒くしていた。

それを親指に掬い取り、そのままユウコの唇に押し当てる。

もはや身体にかかる重さは無くなり逃げ出すことも起き上がることも出来るというのに、まるでその意思が沸いてこない。

「同じだというのなら、口に含んでみせろ。その舌で舐め取り、飲み干してしまえばいい」

硬直した体は、幸いなことに口を硬く閉ざしたままだ。唇の上で血が固まり不快な感覚が残っていく。

自分の身体に取り込むことなど、出来るはずが無い。

同じ血を分けた兄妹だというのは、理性が訴える事実だ。

しかし、同じであってそうではない。

帝位に就いた瞬間に、その身体は変質した。

自分と同じものだと知りながらも、その存在価値は、その重みは、その意味は、全く異なる唯一無二のものとなった。

理性ではなく、感情が。

頭ではなく、心が。


それは洗脳とも言うことが出来るのかもしれない。

雛鳥がはじめに目にしたものを母鳥と信じるように、ユウコもまた同じ概念を繰り返し繰り返し教えられることで心の奥底でそう考えるようになった。

帝とはすなわち絶対の存在である、と。

普段の生活では神を否定することも出来る。帝とて血の通った人間だと分かっている。

しかし最終的に帝を最優先に守る。その対象は個人ではなく、帝という偶像だ。

国の中枢にいる者としては相応しくは無い。

国政を担う以上、場合によっては時の帝を廃して政治を立て直さねばならない場合もあろう。しかし皇位継承権を持つ者には、帝に対する絶対的な忠誠が必要だ。

皇位継承権者は、他律的な存在で無ければならない。そうでなければ政治の駒になり得ない。


「お前は、ただ私に従っていればよい」

促されるまま首肯した。

そうしなければならないと、どこかで警鐘が鳴っていた。


「…仰せのままに、主上」




何かが壊れるのではない。

すべてが壊れ、終わった。

しかし新たな関係は始まらない。

 

動力を失った装置は動き出すことは無い。

そのまま固定され、朽ちるのを待つだけの運命。

甘美なる滅びのときを、ただひたすらに待ち続ける。


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