ノラ観察日記
【〇月×日】
アパートの扉を開いたら、そこに猫が鎮座していました。
慌てて外へ出て、入って来ないようにパタンと扉を後ろ手に閉め、見上げてくるニャ~と鳴く猫をじっと覗き込みます。
くたびれて薄汚れた白い毛並に、動じることのない堂々たる立ち姿。
…全く覚えがありません。
そもそも転勤が多いためペットは飼ったことがないのです。
このアパートは、今春から八王子勤務になったため、慌てて借りた日野の安アパートで、当然ペットは禁止。
他の住人さんの飼い猫ということも考えられません。
見れば、首輪もついていませんので、野良猫なのでしょう。
とりかえずノラと勝手に命名することにしました。
さて、ノラは気になりますが、急がないと会社に遅れてしまいます。
ここは2階なので、どうしてもノラの横をすり抜けなければならないのですが、仕方ありません。
驚かせてしまう事を承知で隣を通ります。
ノラは逃げませんでした。
元は飼い猫だったのでしょうか。
しかしノラは顔だけ『行って来るが良い』と言うように振り返っただけで追い掛けてくるわけでも懐いてくるわけでもありません。
不思議な猫です。
【〇月×日】
アパートの扉を恐る恐る開いたところ、ノラはいませんでした。
なんだったのだろうと首を傾げ乍ら扉を100度以上開放したところで、ノラを発見しました。
階段のエントランスで遥か遠くを仰ぎ見ています。
このアパートは階段が透かしになっているので、向こう側の景色を楽しむことはできますが、御向かいさんは植木と園芸を拗らせたのか、小さな樹海の森を形成しています。
風景も何もなく、ただひたすら緑が視界を塞ぐのです。
なにが面白いのか、ノラはそれをジッと見ていました。
やはり通勤するには背後を通らねばならず、すぐ横を歩いてみましたが逃げも動きもしません。寧ろ今日は顔さえ固定されていました。彫像のようです。
【〇月×日】
アパートをゆっくり開くと、今日もノラはいませんでした。
どうせエントランスだろうと思いましたが、そこにもいません。
やはりノラは単なる気まぐれな野良猫で、どこかへ行ったのだと何となく沈んだ気持ちで階段に足を踏み出したところ、いました。ノラです。
階段と階段の間に頭を突っ込み、向こう側をみています。
外階段なので、壁ではなく景色が見えると言えば見えるのですが、見えるのは1階の自転車置き場です。
それを微動だにせず観察しています。
何が面白いのか、やっぱり理解不能でしたが、なんだかホッとしました。
そして今日は危うく蹴りそうになりながらノラを跨いで出勤しました。
しかしノラは知らんぷりです。
もしかして人間に馴れているとかではなくて、人間を嘗めているのではないかと思い始めました。
【〇月×日】
アパートの扉を開いてもノラはいませんでしたが、気にしません。
どうせ階段にいるのだろうと高を括って歩を進めていきます。
案の定、ノラは階段の中程にいました。
だけど態勢が奇妙でした。
何故かお腹をこちらに向け、頭を埋め、右足を上げ、そこに右手を付いています。
あ。猫なので前足と後ろ足ですね。
どちらにしても奇天烈な格好です。
何故こんなことになっているのが謎でしかありません。
落ちないようにバランスはきちんと取っているようなので、そろそろと避けて出勤です。
もちろん全く反応することなく、奇妙な体勢を頑張って維持していました。
本当に何を思って何をしていたのでしょう。
【〇月×日】
アパートの扉を開いたところ、ノラがいました。隣の家の前に。
ただ気候が暑くなってきたのか、扉の前で寝そべってしまっています。
あのままだと確実に開閉時に全身打撲です。
しかし態々お隣さんにドアチャイムで「すみません。家の前に猫がいるので開けるのに注意してくださいね」とは言えず、余りお隣さんのドアに近づくのも不審人物になるため、そわそわと気にしつつも出勤です。
時間は待ってくれません。
衝突事故が起こらないといいなぁと祈りました。
アパートへ帰宅したところ、ノラがいました。
1階の扉の前で寝そべっています。
朝に同じような光景を見た気がしました。
そこは衝突区域だと分からないのでしょうか。非常に危険です。
ただ、2階から1階に移動した理由はなんとなくわかりました。
日差しの加減で、1階に影がなくなり、2階にちょうど良い影ができ、コンクリートの床が大変冷えて気持ちよさそうだったからです。
でもやっぱり、そこは危険区域だよ、ノラ。
【〇月×日】
アパートへ帰宅したところ、蝉がいました。
何故か我が家のドアへタックルを繰り返しています。
意味は分かりませんが、とにかく非常に迷惑です。家に入れません。
どうしようかと途方にくれていると、隣で惨状を同じく傍観していた猫が動きました。
今までの呑気さが嘘のように素早い動きで掛け出すと、見事な猫パンチを放ち、一発で蝉を地に叩き伏せました。
なんだか能ある鷹の爪の力を目の当たりにしたようで怖かったですが、助かりました。
ノラは、仕事は終えたとばかりに胸を張って座り込み、手を嘗め始めています。
ただ、蝉がまだ仰向けでコンクリートの地面で蠢いていました。
はっきり言って気持ち悪いです。
しかも完全に扉と自分の短い直線上にいます。
つまりは扉を開けるには、いつ立ち上がるともしれない蝉を跨ぎ、扉の解錠をしなくてはならないのです。
嫌です。
再び制止して冷や汗を流すこちらに、ノラはチラリと視線を向けました。
そして、しょうがないなぁという溜息が聞こえてきそうな鈍さで立ち上がると、あがいていた蝉を右前足で捕まえると、ズリズリと端に移動させてくれたのです。
ありがとう、ノラ!
感動と共に扉を開け、閉めようとすると、さも当たり前のように続いてノラが続いて入ってこようとしました。
もしかしたら、一連の行動は、見張り、功労を得、それと引き換えにねぐらを確保するための長い長いノラの戦略だったのかもしれません。
だったら、こちらには宿を提供する義務があります。
恩は恩で返すものです。
そう思って…
バタンッ!!!
ノラが入ってくる前に急いで扉を閉めました。
このアパートはペット禁止です。
明日、猫缶を買ってきてあげようと思います。