2.「カクヨム」に投稿された小説『オレオ』の意義について
【本話の要点】
・実際にオープンした「カクヨム」だが、仕様に不備が多く、ユーザーの不満が募った。とりわけ書き手ユーザーにとっては死活問題であるランキングの不備が露呈したため、期待は一気に失望へと変わった。
・「カクヨム」におけるランキングの不備を指摘したという点で、『オレオ』は意義ある作品である。
このような状況下において、カクヨムは2016年2月29日に正式オープンしました。このエッセイを書いている時点では、まだ2週間程度しか経っていません。そのため、カクヨムにおいて提供されるサービスもまた、まだまだ未熟であり、過渡期にあると言って良いでしょう。
しかし期待が大きかった分、別の小説投稿サイトからカクヨムへ出向いてきたユーザーにとっては、不自由もまた大きいものでした。ここでいう不自由とは「小説の閲覧・投稿・執筆に関わる機能が、ユーザーフレンドリーではない」という単純な意味ではありません。小説の評価機能、ならびにランキングの制度設計における不備が明らかになるにつれ、カクヨムに対して抱かれていた期待は幻滅に変わりました。ユーザーの経験した不自由感は、そのまま不満へと変容しつつあります。
カクヨムのユーザーをして不満にせしめた材料とは一体何でしょうか? 上の段落で触れたとおりですが、一言で言ってしまえば、それは「カクヨムの仕様に対する不満」です。
この問題を抽象的に描写するのは限界があります。そこで、カクヨムで話題をさらったある小説の意義を考えることで、「カクヨムの仕様に対する不満」を洗い出してみたいと思います。
2016年3月13日ごろ、小説投稿サイト・カクヨムに、一尾の隕石が衝突しました。「隕石」というよりも「兇星」といった方が良いかもしれません。その破壊力は絶倫で、カクヨムの地平に住む恐竜たち(コンテンツ)を一瞬にして根絶やしにしました。――大げさに書きましたが、結果的にはほぼ同じ効用をもたらしていると考えられます。
その兇星の名前は『オレオ(https://kakuyomu.jp/works/1177354054880427843)』と言います。世界中で愛されるビター&スイートな味わい(註:「オレオの歴史」、http://www.yamazaki-nabisco.co.jp/brand_nb/oreo/index_oreo_history.html、2016年3月13日閲覧)。――エッセイを読んでいる皆さんは、面倒くさがらずに『オレオ』を読んでみましょう。読み終わったら、『オレオ』を読むために費やした労力と、『オレオ』を読んだ労力とで、一体どちらが大きかったのか考えてみましょう。1円玉を拾うのに費やす労力は、金額に換算すると1円より大きくなります。『オレオ』もまた、そのような小説であると言えます。3文字しか書かれていないのですから。
『オレオ』が投稿されたのは、2016年3月6日でした。その後間もなくして、にわかに脚光を浴びるようになり、2016年3月12日時点では、カクヨムのSFランキング3位、2016年3月15日時点では、同2位に浮上しています。確認できるかぎりでは、『オレオ』のインパクトはカクヨムの枠内を越え、twitterや各種のブログ等でもピックアップされているようです。
『オレオ』についての周辺事情を概説するのは、このぐらいでやめにしておきましょう。ここで確認したいのは、「『オレオ』という小説が、カクヨムで発表されたことの意義について」です。
念のため指摘しておくと、「『オレオ』という小説そのものの意義について」考えることは、原理的に困難です。テキストにのみ焦点を絞って分析する手法は、文芸批評にも数多く見られます。ところが、肝心のテキストが3文字しか書かれていないために、『オレオ』はテキストに根ざした分析手法の一切を拒絶しています(あるいは、そのようなテキスト分析から自由である、と言うことも可能でしょう。そのように考えた場合、『オレオ』は自由を享受しているという点で、ある種「究極の小説」と呼べるかもしれません)(註:「オレオは黒いビスケットの間に白いクリームがサンドされたお菓子である。そこで、文中における『オ』の記号がビスケットのメタファーであり、『レ』の記号がクリームのメタファーであると考えてみれば、『オレオ』という文字列全体が一種の視覚的効果を持っている」などという、見苦しい分析をすることは可能ですが、この程度の話だと広告分析の域にとどまってしまいます)。
話を元に戻しましょう。いずれにしても、『オレオ』という小説の意義を洗い出すためには、『オレオ』という小説が投稿されたプラットフォームである、カクヨムとの関連から考える必要があるわけです。そして「カクヨムと絡めて『オレオ』を考える」ということは、とりもなおさずカクヨムのステークホルダー、つまりカクヨムのユーザーが『オレオ』をどのように受容したのかを検討することと同義になります。批評理論風に言えば、カクヨムに投稿された『オレオ』という小説について、読者反応批評を試みるわけです。
この手法を用いることには、他の手法にはないメリットがあります。それは、検討対象はあくまでもカクヨムのユーザーであるため、『オレオ』の作品内容に触れる必要がなくなる、というメリットです。このとき、作品の中身は補助的な数字/式のようなものとして機能するだけです。計算の過程では便宜のため導入するものの、計算結果に至ると消滅してしまうような、そんな数字/式としての役割です。
前置きが長くなりましたが、実際の分析対象についてもここで指摘しておきましょう。
対象の一つは、『オレオ』自身に寄せられているレビューです。2016年3月15日時点では、218人が『オレオ』に対して評価をつけていました。コメントを書いている人は、その3分の1程度に留まります。コメントの内訳としては、肯定的なコメントを書いている人が6割程度、否定的なコメントを書いている人が4割程度いるように見受けられます。
対象のもう一つは、『オレオ』に対するSNS上の反応です。2016年3月15日時点のtwitterでは、『オレオ』に対して多くのツイートがなされました。Botによる紹介が過剰のため、検索で上がってきた全てのツイートを把握することはできませんが、twitter上でもやはり、肯定的なツイートが否定的なツイートを上回っているようでした。
注目すべきなのは、肯定的なコメントではなく、否定的なコメントについてです。『オレオ』自身に寄せられているレビューを閲覧すれば、その特徴をはっきり確認できるのですが、否定的なコメントの大半は「こんな作品投稿しやがって!」というような、作品に対する批判ではありません。むしろ「こんな作品がランキングの上位に来るなんて、カクヨムの制度はおかしい!」というような、カクヨムの制度上の不備に対する批判――更に一歩進んで、カクヨムの運営者に対する不満――となっているのです。
カクヨムのランキング制度については、さまざまな不満が噴出しています。もっとも、ランキング制度についてはブラックボックスと化している部分も多いので、噴出している不満のどの程度が取り越し苦労であり、その矛先のどの程度が正しい方向に向けられているのかは分かりません。有り体に言ってしまえば、ほとんど混沌とした状態にあるわけです。
しかし、その混沌としたカクヨムのランキングにおいて、『オレオ』という作品が上位に食い込んでいるのは象徴的です。ここからが大事なことですが、『オレオ』という作品が注意を喚起したのは、「たった3文字で書かれている」という、奇想天外な外見がもてはやされたからではありません。たった3文字、およそ小説と呼ぶにはふさわしくないように思われる『オレオ』という作品が、ランキングの上位に食い込んでしまっている。そのような作品が野放しになってしまうような、脇の甘い制度をカクヨムの運営が準備してしまったということを、『オレオ』は象徴的に問題提起しているわけです。
なんと鮮やかな問題提起! こんなエッセイを書いていることが馬鹿馬鹿しく思えます。「カクヨムのランキング制度には、著しい不備があるよ」ということを、『オレオ』という小説はたった3文字で、過不足なく示しているわけです。「オレオ」が記号表現ならば、「カクヨムのランキング制度には、著しい不備があるよ」は記号内容です。記号論的に言ってしまえば、『オレオ』は脱イデオロギー的であり、反社会的であり、非人間的です。しかしそれは、世界の内部にあって世界に支配されないことを意味しています。『オレオ』はその外見においても中身においても、何者にも束縛されない自由な小説として、自分の足で立っているわけです。