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花散郷  作者: 花壁
第一章 夢の浮橋
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サナトリウムの亡霊

 ……唐桃万里の意識が花明で覚醒したことを、身体の超意思的感覚で悟った少年たちが夢殿の外にもいた。結城将一も、彼にとっては不本意かつ不幸なことに、その一人であった。彼は自分が結城屋の出前の用事で社に呼ばれたならどんなに気分が明るくなるだろうと思った。外界に対する力を持たない将一は、自身の内的な変化にも目を閉ざしていた。彼はさなぎの殻から足を急激な速度で離してしまったために、自ら羽ばたかず風に流されていく蝶として、その魂を目覚めさせたのだった。『奇跡』は将一を抱き締められるくらい近く、あるいは彼からもっとも遠いところに『存在して』いる。それを感じ取れるようになったことが、将一の意識を蝕んでいくのである。もう元の結城将一には戻れないという決定的な事実が、彼の選択ではないものによってもたらされたことに、将一は叫びだしたくなるほどの寂漠を感じていた。将一は安息の息吹の奔流を求めて、日々の家業の手伝いで鍛えた大柄な身体と柔らかい髪を不規則な調子で揺らしながら『社』の境内を歩いていた。目的地は決められていたが、そこに向かうことは将一自身の意思が実体のないものに拘束されることに直結していた。突然に魂の眠りから覚め、白い『龍』と月の舟を浮かべる空に祈りを捧げるという使命と共に羽化した将一は、しかしながら彼の友人のようにその羽を悪徳で彩ることだけの勇気を持ち合わせていなかったし、『龍』に救いを求めることもしなかった。彼はただ戸惑っていた。変わりたくなかったのだ。将一は握りしめた手を開いた。いつの間に掴んでいたのか、桜の花弁が一枚、彼の掌から滑り落ちた。将一という少年には、吹雪くほど花弁を散らしていく嵐が必要だった。真理を覆う硝子は光を屈折させ、閉じているはずの蝶の目を惑わせる。将一は硝子の奥にあるものの正体の位置すら知らない。しかし、彼の乗る風――嵐が、将一を輝きの元へと攫っていくのであった……。

 

 社の診療所の、薄青をした患者服を着た少年が、腹部をかばうようにしながら本殿へ向かおうとしている。将一は竹林で、少年の子供らしいつるりとした胴から血が溢れているのを見たのを思い出した。彼はあの空を飛ぶ機械の(つとめて将一はこの表現を使っている)射手だった少年だ。彼が生きて社にいるということに将一は驚いた。彼は現世への執念を重力とした亡霊が月の舟に現れたのだと思った。少年は意思の力(無論、将一に最も欠けているものである)だけで出来た糸で、マリオネットに厳しい指令を出すがごとくその身体を動かしているかのように見えた。怪我の癒えない年下の少年に追い付くのは容易だった。将一は砂利道を器用に駆け抜けて、緊迫を隠さずに強ばった声で細切れに呼び掛けた。

 「待てよ。お前、この前羽衣に乗ってた……」

 俊敏に振り向いた少年の青白い顔の中でとりわけ将一にとって印象的だったのが、手負いの獣のような、生死の境にいるものの持つ瞳の暗い光だった。この境界の間をふらふらと飛んでいる風である将一を、少年の視線がきつく咎めていた。神様を飼っている人間の目だ、と将一は胸中を遅すぎる雪の静寂で満たした。こいつが社で成し遂げようとしていることには、それほど価値が――心臓とそこに流れる血を一滴残らず差し出せる何かがあるんだろうか、と将一は少年に希薄な興味を抱いた。赤い血の流れる亡霊、遠い世界からの旅人。

 「この前の怪我がちゃんと治ってないんだろ。どうやって抜けてきたか分からないけど早く診療所に戻った方がいい。傷が開いて死んじまったらどうしようもねえよ」

 丸みのある肩の上で切りそろえられている、重たげな髪が汗で張り付くのにも構わず少年は将一をじろじろと眺めるのに気力を集中しきっている。利発な少年は、将一が魂の質量を持たず、惑いの中にその身体を置いていることを探り当てた。

 「……お前のほうが早く死にたいような顔をしてる」

 「さあな、そんなことは。死にそうになったことがないからな。で、お前、名前は」

 「八雲やくも。僕の主人はそう呼んでいる。彼のもとへ早く行かなくてはならないんだ。主人と離れるわけにはいかない。……僕はもう行く。そうだ、もう羽衣に近づかないことだ。弟様も、お前も」

 将一は不意に目線を反らした。彼と頭一つ近く身長が低く、筋肉の付ききらない八雲は、傍から見れば実際以上に歳が離れているように見える。しかし肉体の成長、少年から青年へと変わっていく、抗えない速度が全く異なっているのだ。八雲は危険な少年だった。彼は崇拝と恋慕のために自ら掛けた罪の鎖を身に纏っている。将一は八雲と同じく『翼』のもとに呼ばれたのだ。この蝶は『翼』と共に飛んで、彼の意識世界を崩壊させるか、八雲の小さな手の中で潰されて千切られるか、どちらかしか選ぶことができないという不可逆の迷路に立ち入っていたことになる。唐桃海里であれば、幾千の罪を重ねてでも運命というものに逆らってみせるのかもしれないが、そんなことが自分に出来るというだけの自信は、将一には欠片もなかった。悪魔の血族の、扇情的な黒鳥のように振る舞う海里の一側面を写しとることなど、微塵も考えなかった。彼は致命的に万物に対して清純でか弱い少年だったのだ。

 「俺は……結城将一。あの機械のために死のうって大層なやつじゃない。ただの定食屋の跡継ぎだ」

 「勝手なことを」

 八雲の目にさっと怒りの炎が走った。

 「この舟が今飛んでいるのは、彼と僕が『翼』で祈りを捧げてきたから――戦ってきたからじゃないか! 他の祈り手だってそうだ! 彼の祝福は舟を救ってきたんだ! それをお前は……」

 舟を守るために、信仰――そして魂を羽衣に捧げて戦う少年の、やる瀬のない憤りだった。八雲は全身から血を流すような、精神の救われない苦しみを叫んだ。舟の人々に希望を託されて飛んだ結果、八雲は主人との永久の別離に遭ったのだ。言葉の端から彼の事情を将一は瞬きする間に読み取ったが、そう瞬時に空虚が信仰で満ちていくわけはない。しかし、将一は優れたイノセンスに基づく慈愛を自ら解放したのである。

 「そう、俺はお前が思ってるみたいに、羽衣に関わったらいけないやつなんだ。だけど、傷ついてるやつに肩くらい貸せる」

 「結城将一……」

 忌々しげに吐き出された名前に、お前の手だけは借りない、という憎悪に近い拒絶があった。社にいながらに『奇跡』や『信仰』にひれ伏さないもの、畏敬の念に打たれないものを八雲が軽蔑しているのは明らかだったが、将一は至って冷静に彼自身の空洞を覗き込んでいた。日々食材に宿る生命に触れるとき、彼は感謝以上に儚さを感じるのだ。その切ないような深い螺旋を、八雲の激しい気性の内に見出だした将一は、蝶の飛行の軌跡に奇妙な調和を描いたのであった。激情と理性のバランスを崩して倒れ込む八雲の身体を将一が抱き留めたと思った瞬間、八雲は初めからそこにいなかったかのようにどこかへ消えていた。彼は本当に亡霊で、将一はこれまで幻覚を見ていたのだろうか? ……『無い』はずの信仰そのものに触れたのだろうか? 彼はその答えについて確証を持っていた。八雲が飛んでいった夢殿へ、将一は自分の意思で飛んだ。意識が波打ち、身体が跳ねる感覚に、彼は不思議と安らぎを覚えていた。社の桜は少年たちの飛ぶ道を現世の喧騒から隠すように、白い花弁を風もなく散らした。

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