表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花散郷  作者: 花壁
第一章 夢の浮橋
7/8

少年迷宮 第二幕

 飛鳥はモザイク状に光を落とす桜の花々と眩暈のするような鳥居の連続を抜けて、旧い地上の国からそのままの姿で飛んで来たかに思える本殿の前に立っていた。海里と飛鳥を引き寄せる、月の舟の神秘が全てこの中にある。彼女は『変身』途上で子供らしい固さの残る手のひらをぎゅっと握りしめた。舟の人間が持ち合わせるべき霊験あらたかなものへの敬意というより、隣にいるはずの海里とはぐれてしまったことへの言いようのない不安がそうさせたのである。そう、従兄の羽織を握っていれば、自分の手で彼を捕まえておけば良かったのだ。飛鳥の猛禽の目は濡れてぎらぎらとした光を放った。そして彼女にとって不幸なことに、その光を全く些末なものとして受け止めている白い少年が榊大尉の隣に控えていたのである。動きのないゆえに人を心底馬鹿にしているような(と飛鳥は感じた)金の瞳をした夏目千尋とは対照的に、榊は年甲斐もなく皺の入った、やや細い目尻に柔和な笑みを浮かべた。

 「ごきげんよう、飛鳥お嬢さん」

 「あたしの従兄の海里がいなくなったんです。榊大尉。一緒にここまで来たのに。あたしたち、本殿の祭主様と宮司様のところに行くように言われてて」

 「はぐれてしまったのか」

 挨拶もそこそこに、飛鳥は不機嫌を隠すことなく胸元のリボンをぐしゃぐしゃに握った。彼女はお嬢さんと呼ばれるのも本当は好きではなかった。

 「君は海里がどこにいるか、感じることができるはずだが。自分の力に気がつかないか?」

 「何なの、偉そうに……海里やあたしのことなんか全部知ってるって? ……貴方が『龍』だから?」

 千尋の物言いに、飛鳥の苛立ちは更に募ったようである。争いを避けるために他人の感情に鈍感であろうとする傾向の強い榊だが、軍人としての神経のごく素直な反応で『お嬢さん』にすぎない少女の内部にある尖ったものに危機感を覚えた。飛鳥は躊躇なく乱暴な調子で核心に切り込んだ。飛鳥の足元に舞い降りた小鳥たちが逃げるようにしてちいちいと鳴きながら空へ羽ばたいていく。千尋は遅れた一羽の気だるげな飛翔を、厳しくも生命力の巡りのこもった親鳥の目をして見送った後、飛鳥の質問に不必要な沈黙で応えた。

 「そう。あたしは貴方のことなんか何にも知らないけどね」

 「ああ、飛鳥お嬢さん、どうか気を悪くしないで。彼は貴方や海里君が社に来ることを歓迎しているんだ。多くを語らないだけで」

 「それって……海里が羽衣に乗るってことですか? ……この人のために?」

 「俺のため、ではなくて龍と舟のためだ。それに海里は一人ではない」

 「……」

 「そう、私たちカラス隊もついているし、お嬢さんに心配はかけさせない。約束するよ」

 聡明な飛鳥は、榊が穏やかな口調で語りながらも頬骨に苦悩を乗せている言外の意味を瞬時に理解した。龍神への信仰と祈りを糧に、自在に空を飛ぶ羽衣の操縦者に選ばれるということは、舟の中では大変な名誉だとされている。羽衣に乗ることは舟を守ることであり、神に近づくことでもある。龍神の『翼』と呼称される神秘の機械と関わる特殊な才覚センスに目覚めた少年はその意思に関わらず羽衣に引き合わされる。そうして舟を襲う敵と戦い、空や龍といった見えない価値にその命を捧げるのだ――。飛鳥は今日宮司に呼び出された理由に思い当たっていたが、それが全く外れていないことを悟って、逆にその瞳に何かの決意を弱々しく巡らせた。殊勝な少女だ、と榊は胸を締め付けられるような思いがしていた。彼は舟の防衛に少年と『翼』を使わなくてはならない状況への憂いから離れることができない。飛鳥のような、天真爛漫な少女の表情が曇るのを目の当たりにしたとき、彼は本当のところ出来るなら自分が代わってやりたい、と子供たちを気の毒に思わずにはいられなかった。自己犠牲を誰かに強いることを割り切れるだけの心の強さが榊にはいかんせん欠けているところがあったが、それでも彼が私情に流されることはない。榊は濃灰の制服の左肩にあしらわれた、空軍所属を表す龍の羽の図柄に触れた。翼や羽の意匠は榊(のみならず、舟の人間)の精神の水面に波紋となって響き、彼に勇気を与えるものである。気後れしそうな時、一歩踏み出さなければならない時、榊は心にその文様を描いている。彼の自戒的な癖をよく見抜いていた千尋は、この心優しい青年に代わって飛鳥を彼女にとって然るべき場所へ解き放った。

 「君が集中すれば、海里のいる場所……夢殿の鏡面の位置が分かる。もっとも君のような少女が羽衣と海里の間に割って入れるかは保証できないが」

 「何ですって?」

 「海里を呼び寄せたものが『奇跡』だから」

 桜の花弁が雨雪のように音もなく降っている。飛散する白は千尋が抱える箱舟の中をやがて埋め尽くしていってしまうのだろうか、と飛鳥は空想した。月の舟とは白の龍の世界なのだ。しかし彼女には何者にも踏み入られることを許さない領域、自らの爪と羽で固く守っている巣箱があった。飛鳥はそこに蒼い瞳の美しい少年と二人で住んでいるつもりだったが、千尋の硝子の眼に当てられると、(そこには誰もいない。彼は俺の舟で遊んでいる)と囁きかける破滅的な現実で彼女の幸福が壊されていくような気がするのだ。だから飛鳥はもがいていた。舟の住人が信奉する『奇跡』に刃を向けるだけの強さを、彼女は十分すぎるほど持っていた。

 「それでも、あたしはあの人を探しに行く。貴方にも、万里さんにも、あたしを邪魔させない。……失礼します、榊大尉」

 軽く一礼すると、少女は自信に満ちた足取りで走りだした。本殿から出てきた社の職員たちがぎょっとして彼女を呼び止めようとするが、時間が閉塞したような社という空間の中で唯一動的な力に溢れている飛鳥を彼らはただ見送るだけだった。『飛び去った』少女の足跡が、榊と千尋の前に残された。

 「彼女はなぜ海里を『翼』から遠ざけようとするのでしょう? 彼女がいくら高い霊力を持っていても、ひとりではどうにもならないのに。海里は飛ぶしかない。……飛ばなくてはならない」

 「さあ。あの頃の子供は難しいものだ。それにお嬢さんの言葉を気にするなんて君らしくもない」

 磨かれた磁器人形ビスクドールの艶めきを持つ額や頬を覆うようにしている、千尋の細やかな白髪のうねりに、榊は指先で触れた。『龍』の力を持つがゆえに永遠を生きているという点を除けば、夏目千尋もまた一人の少年である。飛鳥の倒錯した愛情から来る『龍』への敵意が千尋の閉ざされた感覚を傷つけながら目覚めさせていき、感情のイリュウジョンを彼が間違った形で学習することを榊は恐れていたかもしれない。実際、千尋はいつになく物憂げに花と霞が混ぜあった空を見上げていた。彼は自らの力を分けた盟友――『翼』の姿に思いを馳せていた。

 「『翼』が海里を守るよう、ここで祈ることしかできないのが、少し気にかかっただけです」

 「救世主……『奇跡』……唐桃万里が弟君と何を話すのか、私のような者には聞けないのが惜しいね」

 榊は誰に見せるでもなく優しい微笑を浮かべた。『啓示』の後青年となったときから彼の中で時間は止まることなく緩やかに流れている。彼はもう戻れない少年の日々と社の緑の深い薫りを思い返して、自分が過去に残してきたものの断片を懐かしんでいた。春の温い風が青年の感傷を撫でる。千尋はメッセンジャーとして、大尉にひとつの預言をもたらした。

 「彼は必ず、俺や海里……社の力になります」

 榊は千尋の髪をかき回した。自分が老いて死んだ後も、千尋や目に見えない『奇跡』や羽衣の乗り手となった少年たちが舟を導いていくのだと思うと、急に彼らとの時間的な断絶が壁として感じられたのである。ふとした哀愁が父親の真似事となって現れたことに、榊自身が一番驚いていた。反射的に左肩を押さえた榊に、千尋は艶のある唇をほとんど分からないくらいに開いて、小さく首を傾げた。



 海里が一秒前に見ていたのは、軽やかな足取りで社の大橋を渡っていく飛鳥の姿である。彼の意識はいま浮遊していた。(飛鳥がいない。あの危なっかしい子が)海里は途端にそら恐ろしい病的な気分に襲われて、内心でその飛鳥に助けを求めた。しかし、藍色の波の中に、海里は黒い鋼鉄の存在を感じて、竹林に落ちた白菊に対して抱いたような親近感とは違う奇妙なやさしい感覚が彼に起こった。暗闇の中、鋼鉄の中から何者かが海里を見つめている……。それを彼が認識した瞬間、海里の身体は羽衣の格納庫である夢殿ゆめどのの内部に飛んでいた。『啓示』を受けない少年のみが扱える祭具が眠っている夢殿は、霊廟のように荘厳な静けさに満たされている。海里は彼を囲むようにしている、現在の舟の戦力である数機の羽衣をぐるりと見渡して、そのうちの一つに心を奪われた。黒々とした夜を映し出す『翼』が、少年の目の前でその硬質な羽を開いている。『翼』――花明はなあかりの名は宵闇を照らして咲く桜に由来する。その神々しい姿で見る者の目を止める『翼』に、海里は無意識に手を伸ばしていた。何にもとらわれない、純粋な感情の持ち主であるこの少年は、この『翼』に宿る意識の正体を突き止めていたのである。花明は数歩海里に歩み寄って、彼の蒼い瞳を覗き込むように投影機カメラのレンズを狭めると、その手をゆっくりと開いて盟友の熱を持った手に指で触れた。冷たい鉄の感触の快さに海里は目を細めて、花明の指に頬を寄せた。

 〈海里。俺の弟、桜の咲く世界の番人……〉

 「そこにいるのは兄様でしょう? ずっと会いたかったんだ」

 花明は胸部を開いて、海里を無言で操縦席へと呼び寄せた。『翼』は彼をあまりに永い時間待ちわびていたためにかえって熱情的な性向を見せたようだった。海里が操縦桿に触れると、花明の意識が後部座席に人の形をとって現れた。社の制服に身を包んだ少年――月の舟の誰もがその姿を夢見る――唐桃万里の幻影である。彼は弟のものよりも鋭く研ぎ澄まされた蒼い瞳で冷徹に主画面を見つめて、ないと分かっているものを探した後の自嘲をごまかすようにして祈りの言葉の一節を口にした。そして身を乗り出すと海里の肩に手をかけて、耳元に唇を寄せた。花明を飛ばせ、と舟の救世主たる少年は命じた。彼は自分の意識が鋼鉄に宿ったことで、羽衣での飛翔や戦闘への屈折したメランコリイを強めていた。海里はそんな万里の言葉を彼の病状ごと振り返ることなく感じることができたが、それは万里の本質を形成している、人を自然と従わせる強さが、実体を持たない彼の手を花明と同じように重くしているためであった。海里にはほとんど兄に触れられた記憶がない。他ならぬ万里だけは、他人の愛情を全て食らい尽くそうと息をひそめる獣が棲まう海里の心に捕らわれることがないまま彼の元から飛び去ったのである。舟を救う、という命題自体は海里の中では価値を失いつつあり、花明の操縦席にいれば二人の間にある病的な悲哀や激情が幾分か救われるということのほうが重要であると思われた。彼は万里の要求を無視して、『子供』を演じることに徹した。

 「兄様、この前神様に会ったんだ。『奇跡』を探してる龍の神様に」

〈舟や『龍』が探している俺はどこにもいない〉

 海里は操縦席に背を預けたまま顎を上げて、瞳を上に引きつけた。彼の知っている万里は、遥か昔からそうだったというように変わらぬ輝きを秘めた少年だったが、花明に飛来してからますますそうした傾向を強めていた。兄の内に息づく全てのものに触れようとして、海里は手を伸ばした。

 「触れられない……」

 目の前にいる万里、彼の意思や動き、そういったものは感知できるのに、肌の熱や滑らかさといった感覚は海里に伝わらず、彼の手は空をさまようばかりだった。熱を帯びる若い肉体の魔力を自在に操る海里にとって、魂の深いところで繋がっている万里と自分が同じ羽衣にいるのに、二人がかえって遠いものとなっているという現実は、自分の美の価値を知り尽くしている少年の自尊心を傷つけるものだった。仮に羽衣が消え、龍が去り、舟が沈んだとしても万里と自分だけは夢の世界でいつまでも生きている――。その観念が虚構とは海里は思っていない。反対に、万里のほうは幻影の身となりながらも現実の舟と自身が固く結ばれていることを自覚していた。

 〈飛ばなくては……。俺自身を探すために。戦うために。……舟を守るために。龍が俺やお前を必要とするならなおさらのこと。羽衣は二人の祈り手がいなければ動かせない〉

 「だから俺が必要?」

 万里は悠然と一度瞬きをして、意思の力を蒼の中に光らせた。大人になることを拒んだ少年としての苛烈なヒュブリス的意識が見せるこうした影の機微が、海里の胸中に棲む獣を刺激するのである。

 「兄様が必要なのは俺も同じ。だけど舟のことなんか今の俺にはどうだっていい。俺は兄様の本当の姿を見つけて、ただ抱き締めたいだけ」

 虚言癖ということではないのだが、本心と違う言葉を媚態の中に使いがちな海里にしては、真実の込められた想いであることに間違いはない。しかし万里は人格と比べて緻密で繊細な唇に動揺と恐怖を現した。

 〈お前はここに来た意味を分かっていない。俺とお前は兄弟である以前に『翼』の乗り手――『龍』の下で誰かを殺すだけの存在でしかない〉

 「何も悪くない」

 〈俺は……何もかもお前とは違う〉

 海里の視界を闇が覆いつくした。彼は万里の意思に基づいて花明から脱出させられたのだ。舟で最も強い祈り手と称され、行方を眩ませてからもしばしば崇拝の対象となりながらも、万里は自分に向けられる愛情をとりわけ恐れていて、そうした孤独感がパラノイアを生んでいるようだった。海里は兄を傷つける術を、子供が歩き方を覚えるようにして身につけていた。そしてその事実、万里の怯えが自分によってもたらされたことに軽い快感すら覚えていた。万里が言った通り、彼が海里をどんなに拒否したところで、花明を飛ばすには彼が必要なのだ。だから万里はこの――彼にしてみれば血を分けた弟とはとても思えない、奔放で蠱惑的な魔を求めざるを得ない。二人の間に勝ち負けがあるなら、海里に惑わされた時点で万里の負けなのだ……。海里は残酷な陶酔感に浸りながら波に意識をゆだねるようにして、大いなる力に流されていた。羽衣がかしずく夢殿の一角に海里が降り立った時、彼は不安や驚きや確信がまぜこぜになった顔をしている飛鳥の姿を見た。制服のリボンとスカートのひだを揺らして駆け寄ってくる少女に、海里は微笑を零した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ