表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花散郷  作者: 花壁
第一章 夢の浮橋
6/8

少年迷宮

 使用人たちの足音が、海里から遠ざかっていく。湿ったような茉莉花の香が、唐桃邸のリビング・ルームを霧のように満たしていた。洗いざらしの髪を花の息にさらして、海里はひとり、洋琴ピアノの鍵盤を整然と叩いていた。父親の薦めで始めた洋琴だが、その腕前は教養を超えつつある。リビングに君臨する、焼けたような褐色をした洋琴に四六時中熱意を捧げるほど海里は真摯な人間ではなかったので、折角の才能もただ浪費されるにすぎないのだが。唐桃家の洋琴の名手はもう一人いるが、父親は海里の演奏のほうを言外に喜んで聞くので、倦怠感をもって音楽と手を切ることは海里にはできなかったのである。海里は抒情的な旋律の渦を彼の魂に流し込むようにして弾いていた。物思いに耽るときに、そうして洋琴と対話しているのである。勉学は父親が選んだ家庭教師に見てもらうことが多く、高校も最低限の日数しか行っていない海里は、どこかで洋琴が非共通の言語による独白と思考の機会をもたらすことを見抜いていたのかもしれない。竹林に白菊が墜落してから数日間が経過した。カラス隊は警戒飛行を続けていたが、白菊との接触以外には特別なことには遭遇しなかった。社で最も位の高い宗教指導者である祭主さいしゅと実質の指揮官である宮司の名で、海里と飛鳥が呼び出されたのである。控え目な使用人の男は演奏の終わりを待って、海里に車の用意が出来ました、と声をかけた。蒼い瞳の少年が二言三言洋琴に何か歌うように呟くのを、使用人は聞いた。


 赤坂の唐桃邸から数十分の走行の後、海里は女学校の制服を着た飛鳥を見た。彼女は大がかりな鉄の門に背を預けて、セーラー服の胸元に結んだ赤のリボンを入念に直していた。運転手が飛鳥に声を掛けに降車すると、その姿に気が付いた飛鳥が挨拶もそこそこに自動車へ駆け寄った。海里は勢いよく開かれた扉から眩い光が飛び込んできたような気がして、何も考えていないような鈍さを蒼い瞳に落とし、瞬きを数回した。少女は従兄がさっきまで早い昼寝でもしていたのだろうと思った。

 「眠いの?」

 「そんなことないよ。『モスコーの夜』もそらで弾ける」

 「ふうん。今日はさかき大尉と将一さんも来るかしら?」

 「きっとね」

 この二人の人間の名前を聞くと、海里は窓を開け放して帝都の音を聞いていたい気分になった。自動車の警笛、省線電車の一定間隔の走行、凡庸な人々の雑談、急ぐ足音、そして機械仕掛けの鳥の声、花の咲く時のぞっとするような生命の鼓動。そうしたものに触れるとき、海里は狭いようで広い月の舟の中で旧くからの知己の存在を感じるのである。はち切れんばかりの野菜を入れた袋を抱えた男が慎重な足取りで歩道を行くのを見た海里に、将一は今頃どうしているだろう、という疑問が降っておりてきた。(俺たちだけでなく、将一も社に呼ばれたとして、あいつが素直に来るんだろうか。そうは思えない。でも、俺たちには将一が……)飛空と違って、社は信仰を持たないものを手放しでは受け入れない。生家である食堂『結城屋』という繭と身体が繋がっている将一は、社という異界ではなく、ささやかだが幸福な生活の中に生きる少年である。

 「きっと将一は清汁コンソメとオムレツの匂いをさせて来るよ」

 「美味しそうじゃない」

 飛鳥は無邪気だった。世俗の生活に宿る、暖かい『命』の香をさせているからこそ、将一は飛鳥に近しい少年たり得るのだ。自動車の加速力と同時に、海里は押しつぶされるような重力を感じていた。命。心臓を包む雛。生きる実感。それを持つものと持たないものの深い断絶。その力に任せて瞼を閉じ切った海里に、飛鳥はひょっとしてお腹が空いているの、と見たことも無い母親のような調子で訊いた。



 社の『本殿』の外れにあるカラス隊の屯所内の執務室にて、榊絢人さかきあやと大尉は部下で通信士の織井中尉がまとめた報告書を再度読んでいた。墜落した白菊は、過去の舟から飛来したものと推測される、という一節が榊の目を引き付けている。中に乗っていた少年の状態が落ち着くのを待って、彼に詳しく質問をする予定である。といった旨の文章が報告書の末尾に来ている。誰も彼も解らないことばかり起きているようだ、と榊は目をぎゅっとつぶった。不可視のものを感知するセンス、とも説明されるべき霊力に秀でた飛空乗りを集めたカラス隊の長を務める榊は、やはり『不可思議な出来事』に遭遇する機会に少々恵まれすぎていた。特に竹林という場所において――簡素な部屋に取り付けられた長椅子のなだらかなひじ掛けに腕を投げ出し、頬を寄せるようにしている少年がいる。彼が身じろぎすると、両耳の下で巻毛をくくっている金の筒状の髪飾りが弱日よろびを受けて輝いた。

 「まさか一日に二度も唐桃の弟君と会うことになったとはね。全部君の差し金だったんだろう。私とカラス隊を巻き込んだ予定調和……」

 唐桃の名を聞いて、龍の少年はすっと上体を起こした。海里が竹に引き寄せられているのは完全な偶然ではないこと、具体的には龍神の力によるものだということを、榊はある程度確信している。千尋は彼の形式的な保護者の、鼻梁の整った顔に穏やかな色が浮かんでいるのを見た。私だって暇じゃないんだぞ、などとは言いそうにない。柔軟な思考が千尋との共同生活を可能にしているのだ。榊大尉は思慮深く働く理性と人の好さを自己の内に同居させている稀有な青年である。二人が初めて例の竹林で出会ったとき、千尋は当時少尉だった榊に制御を外れた念動力をぶつけてしまい、軽い怪我を負わせたことがある。しかしこの白髪の異形に対して、キネマの俳優もかくやという凛々しい頬骨のあたりに生真面目な若さを出した榊は、怯むことなく所属と階級を名乗って、「私は舟にいる全ての生命を守るものです」と青臭いまでの微笑を見せたのだった……。

 千尋は立ち上がって、書類で埋められている執務机の唯一の装飾と言ってもよい小型のランプを付けた。和紙で作った菊の花の模様が浮かび上がる。おぼろげな菊の影を見つめながら、千尋は朗々と敬語を使った。

 「彼らには、羽衣の乗り手として目覚めてもらわなければなりませんでしたから。そしてあの邂逅は絶対だった。俺が干渉した部分はそう多くはありません」

 「ともかく、危険なことはやめてほしいものだ。君も私の部下も……あの少年たちも聞いてはくれないのだろうが」

 榊はペンを動かす手を止めて嘆息した。竹林でのフライトを終えて帰還した後、彼と執務室で二人きりになった田沢中尉の涙を湛えたような非難の目線を思い出して、胸の底がひりついたのである。誰にでも(部下に対してすら)腰が低い『お人好し』の大尉は、時折隊長というより子供を沢山持った家庭の父親のような顔をすることがあった。実際カラス隊のエースパイロットは、戦闘機を降りた途端に発揮される嬰児らしい強烈な本能をもって、榊を頼みにしているのだ。永い時間の流れで鈍くなった千尋の感性は、青年同士の錯雑をやはり不可解のものとして捉えた。羽衣の少年たちも『そうした』感情で身を滅ぼすこともあるというのに、彼らは成長しないのである。繰り返すのである。千尋は人間の根底に流れるものに対して孤高な忌避感を抱いた。榊は千尋が退屈しないようにレコードをかけることを提案したが、いいえ、という低い囁きだけが返ってきたのでそのまま執務に没頭することにした。彼が持っている『明治夜曲』は古すぎるようにも今風すぎるようにも思われたのである。


 ……織井中尉からの切羽詰まった緊急通信が榊のもとに入った。

 「榊大尉、夢殿ゆめどのの羽衣の一機……花明はなあかりから発進許可を求めるメッセージが送られてきています。これは……」

 適合する乗り手の不在から、社の本殿の地下にある、羽衣の格納庫ともいえる夢殿に安置されていた花明の名前を二人は久方ぶりに聞いた。単なる信号ではなくメッセージとしてカラス隊や社へ花明の声が送られているという事象は、それが――いや、『彼』が意思を持って誰かへ語りかけていることに他ならない。榊は傍らに立つ龍の少年をちらと見た。

 「お客さんの到着かな、千尋君」

 「ええ、三度目の」

 二人は共通の答えを持っていた。飛行機械、『翼』が目覚め、対話の準備が整ったのだ。青年にとっては不可知のものを文字、数字、音の列に帰して対話できる存在がある。榊はてきぱきとカラス隊に観察を続けるよう指示を出して、執務室を後にした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ