表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花散郷  作者: 花壁
第一章 夢の浮橋
5/8

花の行方 第四幕

 曇天ではあるが、視界は良好。霧のように眼下に広がる新緑の連続を眺めながら、田沢愁明たざわしゅうめい中尉は後方を飛行する飛空の一機へおもむろに無線通信を入れた。細く柔らかい髪を後頭部で編み込んでいる中尉は、蠱惑的な口元に露骨な飽きを刻んでいた。生地の厚い、ぴったりとした濃茶のフライトスーツに包まれている若い身体を燃え上がらせるような戦闘を待ち望んでいたが、どうやらその期待は今日も裏切られそうだった。田沢はともすれば一回り年の離れた富豪の男性の情人、と見られることはあってもカラス隊のエースパイロットとは中々見られないようなところがある。しかし彼は空を飛ぶということを本能で愛する青年である。彼より真摯に飛空と向き合っているパイロットはそう易々と見つからないだろう。田沢の信条では、乗機がその性能を最も良い形で発揮できる機会とは、外敵との接触に他ならない。主画面を確認。僚機を表す印が三角形に点滅しているだけだ。竹はその伸びやかな体躯をそよそよと波状に揺らした。平穏は尊ばれて然るべきではある、とは田沢の上官のみならず多くの人間の真理なのだが。

 「我々カラス隊よりも、羽衣のほうが向いている任務だと思わないか、通信士君」

 飛空の通信士、織井瑞木おりいみずき中尉の呆れ顔が目の前に浮かんできそうな短い返答。

 「任務中だぞ、ミカボシ二号」

 「これが任務? 飛空で龍神とお喋りしろって? この山水さんすいは羽衣でもないのに」

 「搭乗者は元羽衣の乗り手だろ」

 「候補、が抜けているよ。それに昔の話だ」

 哀れな青年を、彼の頭に接続された機器に増幅された生来のヒステリーが襲った。カラス隊が仕える『社』の指揮官・宮司ぐうじが、帝都の上空を球状に覆う結界の揺らぎを察知して二十日ほどになっていた。舟の敵である『鬼』の大規模襲来の予兆ではないか、と社の権力者たちは危惧した。そこで空の異常に対する情報収集と警戒飛行がカラス隊に命じられたのである。加えて餞別と言わんばかりに新型の飛空・山水が優先的に配備されることとなった。こんな時に唐桃万里がいれば、という年長者の嘆きが聞こえてくるような気がして、田沢はもとからこの任務に乗り気ではなかった。社や舟が崇める万里も、彼が搭乗していた羽衣壱式ごと行方不明になっている。しかし、一介の軍人としての使命感と、彼の敬愛する上官への、心地良い陶酔で彩られた忠誠心がこうして田沢を空に送ったのである。

 「あのな、いくらお前みたいな戦闘バカでも戦うだけが任務じゃないことくらい分かるだろ。隊長はお前に期待してるんだって仰ってたぞ。……もう切るからな、ミカボシ二号」

 通信士は星の神の名に由来するコールサインをことさらに強調した。返答を待たずして叩くようにスイッチを切り、一方的に田沢を遮断した。心理的拒絶の現れでもあった。なぜおれが田沢に優しい言葉をかけてやらなくちゃならないんだ、という彼の苛立ちがキーによる情報入力の速度を上げた。田沢の気まぐれとヒステリーに任務中ですら振り回されることに思わず微笑ましさを感じてしまう自分にも尚のこと織井は腹が立って、普段以上の勤勉さで各機から送られてくる情報を分析した。織井機は無線通信と情報解析に長けた機体である。人が一人なんとか入る程度の広さの操縦席の他は、演算器や表示器、各種レーダーがパイロットを圧迫するように搭載されている。舟の科学技術は現在発展中といったところであり、舟の防衛や航行には未だ正体が解き明かされない信仰の力が使われている。信仰という神秘を扱えない人間が空を飛ぶには、機械との共存が不可欠だ。もっとも『共存』を掲げるにしては人間の存在が軽いのだが。

 

 田沢に言わせると『空中遊泳』であるこの任務は、突如として緊張を高めた。織井機のスコープが、他の機体より早く高空の歪みを捉えた。織井は反射的に彼が取るべき行動をとった。各機への信号送信、社への連絡。空間の歪みから受信した信号の解析。織井機が歪みを感知した地点で、落雷を思わせる亀裂が空に入った。パイロットたちの視界を奪う閃光。空を飛ぶ鋼鉄の出現。それは胎児のように膝を抱いて、その身体を丸めている。腕や脚にひび割れがあり、白い塗装は薄汚れている。胸部装甲を縁どる黄色の線と同化している鋼鉄の色合いを投影機カメラ越しに見た織井は、生命力といったものがはげ落ちているかのような印象を受けた。

 多くのパイロットたちにとって幸運だったのは、この鋼鉄が敵の信号を持っていなかったことである。しかも、それはただ空中に浮いているだけで、飛空の一隊を認識している様子すらなかった。田沢は青年になって以来心地良い永劫の眠りについていた霊的なセンスがもたらす直感を信じたくない思いでいっぱいになっていた。それはこの得体の知れない、スクラップ寸前の鋼鉄が羽衣だと告げているのだ。田沢が少年であったときに憧れていた、龍神の使いである。田沢機が短射程誘導弾を射出する体勢に入る。パイロットはほとんど無我夢中で鋼鉄に襲い掛かろうとしていた。月の舟よりも、青春時代の思い出を守りたい一心だったのかもしれない。田沢は残酷なロマンティストだった。セーフティ解除。

 「田沢、あれは敵じゃない! やめろ、撃つな!」

 通信士は必死で田沢の名前を呼んだ。彼は土壇場で、田沢のセンスではなく乗機の判断を信じた。それが飛空乗りの軍人として正しいことだという、苦渋の判断である。

 「だが……!」

 「中に乗っているのは……」

 正体不明の鋼鉄に対する織井の解析は、ミステリーめいた結果を示していた。無論織井はホームズやポワロではないので、仮説を披露したところで田沢を止められるかどうかは怪しかった。織井機は、鋼鉄の『機体』識別番号が羽衣のものだとその主人に伝えていた(つまり、田沢の直感も正しかったのである)。しかし、その羽衣はかつての鬼の襲撃の際消えた――羽衣壱式、通称『白菊』だったのだ。それが今、カラス隊の目の前に現れた。織井はカラス隊員たちによる洪水のような会話の声に撃たれながら、『僚機』へと通信を試みた。返答無し。白菊内部の生命反応は一つ、後部座席のものである。

 「いない……? まさか」

 「唐桃万里は、そこにいないんだな、通信士君」

 田沢は操縦桿を強く握りしめた。あと少しだけ彼が感傷的だったなら、万里の影ごと青春の挫折を破壊しつくしていただろう。白菊の姿は、田沢の内にある恐怖を呼び起こすのだ。田沢の困惑など意に介していない白菊は、急に浮力を失って、竹林の一角へと墜落した。



 飛空が統率の取れた渡り鳥の群れのように飛んでいるのを竹の若い葉の隙間から見ていた少年たちもまた、白菊の降臨を目の当たりにしたのである。口の軽い結城屋の客から聞いた、新型機『山水』の秘蔵の情報とやらを息つく暇もなく海里と飛鳥に講義していた将一も、さすがに閉口した。身体の大きさに釣り合わない、繊細な気質が裏目に出て、最も憔悴しているのも将一だった。

 「一番まずいときに二人を呼んじゃったんだな、俺。ほんとごめん。今日はもう帰ろう」

 「将一。うまく言えないけど、あれって悪いものじゃない……と思う」

 「海里もそう思う?」

 海里は小さく頷いた。夢の世界や龍の結界といったものに惹かれる少年の感性が働いたのである。千尋が次に竹林に現れると言い残したのも、おそらくこの鋼鉄の出現を知っていてのことではないかと海里は推測した。一連の夢の終着点が、鋼鉄にある気がしたのだ。彼は飛空のアンテナやレーダーを通さなくても、白菊の内包する神性を感じ取り、了解することができた。そしてそれは飛鳥も同じだった。彼女は少年の肉体を持つゆえに、未だ強い霊力を一身に留めている。二人は竹林に落下した鋼鉄に、どこか懐かしいような親しみを覚えていた。将一からすれば無鉄砲極まりない発想なのだが、彼らはその鋼鉄を見に行こうと誘った。

 「本気なのか? 危ないと思うんだけど」

 「大丈夫だよ。あれは鬼じゃない」

 「あたしもいるし。行ってみましょ」

 飛鳥の意思は海里の意思にも通じるのだ。結局二人を鋼鉄に近づかせない方向で説得出来なかった将一は、果敢な友人たちの後ろをそろそろとついて行くことにしたのである。


 羽衣『白菊』は、竹を下敷きに見るも無残な姿で落ちていた。胸を反らせて、空を仰ぐような格好で、ひしゃげた腕や脚を投げ出していた。胸部装甲には割れや擦傷が目立っている。羽のように見える背部のユニットは乱雑にむしり取られたかのような有様で、その付け根の空洞が気味の悪い虚無の闇を晒している。

 「これ、羽衣みたいだけど、こんな風に出来てるんだな」

将一は『機械』愛好者の図太い探求心をもって、ずかずかと羽衣に近づいた。先程までは散々怖がっていた将一だが、本当に『ただの機械』だという認識が強まるにつれて、持ち前の好奇心が徐々に顔を出してきたようである。特に海里も飛鳥も彼を止めなかったが、それは彼らが羽衣の持つ意味について無知だからではなく、羽衣でさえも古くからの友人のように思っているからである。だから、二人の少年の持つ信仰を動力にして、自在に空を舞うこの『翼』が傷ついていることを海里は痛ましく思っていた。彼が白菊に触れようとすると、胸部が開いて、操縦席に光が差し込んだ。しかし、二つある操縦席の前部は空になっていた。そこに誰がいたのか、海里は知っている。

 「……万里?」

 後部座席から荒い息づかいが混ざる少年の声が聞こえてくる。海里の元へ寄ってきた飛鳥がばっと立ち止まった。白菊の中の少年は、機体と同じように傷ついていた。彼の脚や腹から流れる血が、社の制服を染めている。血と汗で顔に張り付いている、量の多い髪を払うこともせずに、少年はうわごとのようにその名前を繰り返していた。

 「……万里は、どこに? 万里……お前は……」

 「俺は唐桃海里。万里の弟だ」

 海里はひるむことなく少年の焦点が合わない瞳を見据えていた。万里と同じ蒼い瞳の光は、少年の錯綜している精神を惑わせた。

 「……嘘だ。万里がいないなんて、嘘だ」

 絞りだすような声で、少年は絶望を吐き出した。白菊を操っていた万里はどこかへ消え去っていた。(千尋の言う通りだった。万里はここではないどこかにいる……)海里は龍の少年の姿がないか、緑の檻を見渡した。さほど時間を空けずに、彼の期待通り、白の巻毛の少年が、密集する竹を抜けて海里の前へと現れた。

 「海里、あれは誰? 何が起こってるの?」

 「俺は、夏目千尋。この羽衣を回収するために、君たちを神の力が集まる竹林に導いたものだ」

 「俺も? 何なんだ、あんた? 神の力だって?」

 飛鳥と将一の猜疑心に気付いていないかのように、千尋は白菊に向かって立った。そしておもむろに手を広げて突き出し、何かを念じた。彼の手から溢れていく白い羽が白菊を取り囲むように舞い、光の環を創り出すと、羽衣は少年を乗せたままどこかへ消えた。飛鳥は千尋の人知を超えた行いを見て、彼の正体を察した。そして、この龍の少年が自身と海里の間を裂き得る存在であることに思い至った。彼女の心に蒔かれた憎悪の種は小さな痛みとなって飛鳥を刺した。将一は唇を軽く噛むようにしている飛鳥が千尋の力に怯えているのだと思って、彼女を背中に隠すようにして千尋の前に出た。

 「よく分からねえけど、あんたあの羽衣をどこにやったんだ?」

 「あれは、社の一角へ移動させた。カラス隊の人間が、じきにここに来て安全を確認するし、社の医者が白菊の乗り手を保護する手はずだ」

 「へえ。俺たちはボロボロの羽衣を呼び寄せた道具にされた挙句軍人に突き出されるのか。愛好者マニアとして飛空を見に来ただけだと思ってたんだけどなあ」

 海里は千尋の言葉の裏に隠された意味を考えていた。彼は海里以上に、万里を欲しがっているのだ。それも『奇跡』という細い糸のような輝きのために。舟を救うために。そのためならきっと海里だけではなく、飛鳥や将一も使うのだろう。だからカラス隊の隊員を差し向けて、彼らをも社や羽衣のほうへ誘おうとしている。二人も千尋と出会ったことで、その未来が大きく変わろうとしている。白菊の少年や夏目千尋、そして海里もまた、皆が万里の行方を追い求めていた。奇跡、革命、崇拝、といったドラスティックな夢想が息づく少年、それが唐桃万里である。彼の存在に対する各々の想いが飛翔する力を失った羽衣のいた空間を中心として渦巻いていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ