花の行方 第三幕
帝都東京の中央駅ホームは、海里たちと同じく社から来た客で混雑していた。墨色のコートを着込んだ駅員による独特の抑揚をつけた案内を、海里はじっと聞いていた。舟の春を祝い、平和を龍神に祈願する祭の開催に伴い、社への参拝客が多く来ていることを嬉しそうに話したあと(桜の見事な開花は、普段無機質が服を着て歩いているような駅員をも鷹揚な気分にさせるものらしい)、なるべく往復路の切符を一度に買うよう勧めた。繁忙期に特有の放送を経て饒舌になった駅員は、続けて到着時刻などを読み上げた。
「旅行にでも行くみたいだね」
「そんな気もするわ。叔父様たちと急行で鎌倉に遊びに行ったときのことを思い出すね」
飛鳥は海里の羽織の袖口を掴んで、きょろきょろとホームを見渡していた。二人の様子は本物の仲睦まじい兄妹のようであり、将一は彼らの隣にいると心が暖かくなった。いつも結城屋のこと、両親のことを第一に考える彼にとって、この友人たちは自分を出せる貴重な存在だった。
「俺も行ってみたいな、鎌倉」
「それじゃ、今度一緒に行きましょ。飛空は飛んでなさそうだけど」
「飛鳥さんって俺のことただの飛行機マニアだと思ってないか?」
「それは……ねえ」
海里と飛鳥は顔を見合わせて可笑しそうに笑った。将一は文句を言う代わりに眉尻を下げた。悲しげな表情を作ると、飛鳥のように素直な少女は多少なりと申し訳なさそうな顔をするのだが、海里のほうはそうもいかない。彼は(俺が何か悪いことでもした?)と無知を装ってみたり唇をきゅっと引いてみたりしている。将一は彼らの嘘のない反応を好いていたし、唐桃の二人もある時将一にきらめく情熱の欠片を愛していた。
つんざくようなベルの音が雑踏を割いて響き渡り、轟々と音を立てて小豆色をした電車が駅へ到着する。燈色の生地に真赤な椿を描いた友禅や、金の鷹の飾りピンで留められた群青の襟巻、濃紫の蝶ネクタイ、鈍く光る蒲公英色の絹のワンピイス――それぞれの色彩を身にまとう人々が、話に花を咲かせながら一斉に車内へ乗り込んでいく。その中に溶け込むように、若葉色のスウェータアに糊のよく効いた黒いスラックスを身に着けた少年がいる。彼はつばの広い帽子を被っていたが、その外縁から流れ落ちる癖の強い白い髪は、異境の民の色を現している。(……千尋? 夏目千尋!)少年の名は海里の夢の謎を解く鍵だった。各事象に対する感覚と印象が切り離されて、夜空の星のように不規則に散らばったものを星座に繋ぐための、鍵である。いまその一つ――空を泳ぐ白い龍の星座が海里の意識の中に浮かび上がった。(俺を竹林へ連れてきたのは、もしかして)海里はその予感にリボンをはためかせて、異邦人の後姿を追いかけた。
「二番線扉が閉まりますご注意ください、二番線扉が……」
ホームの端から、駅員の声をかき消すほど笛が高らかに鳴った。飛鳥は押し黙って、ギリシア人を模した石膏像のような将一の胸元に隠れるようにして乗車した。彼女は苦々しいものを噛みしめていた。乗客の存外な多さに辟易しているのではなく、千尋を捕まえようとしている海里の燃えるような蒼い瞳に純潔を見出す奇妙さを不快に思ったのである。この時飛鳥は従兄の秘密をひとつ知る手がかりを得ていたのだが、それを使って思考することに失望や嫌悪を感じてもいた。海里に疑いを掛けようとしたこと自体、飛鳥にとっては恥じるべきことだった。あたしは何も見ていない、と飛鳥は自身に言い聞かせて、ぱっとクロスシートの一席に腰掛けた。対照的にのんびりとした様子の将一が、座席を転換させている。
「どうしよう、将一さん」
「大丈夫。あいつも車内にいるはずだから、すぐ来るよ」
将一は飛鳥に八重歯を見せて、やや能天気な笑みを浮かべた。飛鳥の隣に空席を一つ残して、電車はゆっくりと加速を始め、動力装置の一斉作動による機械のどよめきを煉瓦の駅舎に反響させながら、中央駅のホームを後にして走り去った。
海里は揺れる車両から車両へと歩いて、千尋の姿を探していた。二等車の席はほぼ埋まっていて、社で有名な羽のお守りを入れた紙袋を持っている客を何人も海里は見た。地上に国があった時代から永く信仰されている神の一部を模した、金の鈴をあしらった白い羽をつけた矢だ。旧い民たちはそれをつがえて放ち、天の月へ祈りを届けようとしていたのである。その思想の一端が舟の龍神信仰に発展したのだ。(真実のものこそ儚くて、留められないものだ。俺は永いだけの偽物に祈る真似なんかしない……)すぐに矢への興味を失った海里は、さっと歩みを進めて、最後の車両へ繋がる扉に、長く西洋楽器を嗜む長い指を触れた。
「……を出ますと、次は新橋、新橋に到着いたします。お乗り換えのお知らせを致します……」
口早な放送の末尾が電車の走行音にかき消されるさまは、砂浜の表面を撫でるように引いていく波を海里に連想させた。しかしその光景は、小説だとかキネマだとかの表現が組み合わさって出てきたものにすぎない。舟には海が存在しないために、芸術に従事する人間はそれを熱狂的浪漫をもって描こうとするのだ。天上に暮らす人々は海という失われた地上の国『日之本』の象徴として、望郷の念を感じている。月の舟は、水に浮かばない舟なのだ。扉の先に、海里はまたしても幻想を見た。
商社のビルディングや製菓店の看板を追い越して、電車は前進し続けている。しかし、正常なのはその点のみで、最後の車両に乗客の姿はなかった。乗車券の販売状況からしても、客が一人もいない車両があるとは考えられない。(これも夢だったりして。覚めたらまた冷泉院先生のところにいるのかも。それはそれでいいけど)海里は自分に清廉と憐憫の視線を注いでいるものに気付いて、あどけなさの裏に男を惹きつけ、跪かせる狂気を蒼い瞳の端に滲ませた。秘密の重さから来る自信が無意識のうちにそうさせているのである。
「海里。ここに来ると思っていた」
夏目千尋はたった一人で席に座っていた。この異邦人は道徳の信奉者であり、そうした性質が蜜のように濃い金の瞳によく現れていた。心に一点の曇りもないものだけが持ち得る彼の高潔さに、海里は一転して首筋に冷たいものを感じた。小さな動物と遊んでいる飛鳥の、赤みの差した頬をぼうっと見ているときにふと訪れる感覚と同じである。海里は千尋の背後に立つようにして、座席の背に右腕を乗せた。彼は手を白い髪に落として、その一房を指ですくうと、軽く絡めた。見かけは白鳥の羽のようだが、意外にも少年らしい硬さがある。千尋は数秒海里の意のままにさせたあと、彼の手をぐっと握って外した。重々しい貞淑の拒絶。この反応を海里は待ち望んでいた。彼は禁欲の鎖に図らずして縛られているものにこそ、恋の陥穽に陥る素質のあることをよく知っているのである。千尋が非現実を通して海里の前に現れる意味を、海里は初めて実感的に欲した。
「今日はお前をよく見かけるんだ。夢でも、舟でも。千尋もそう?」
「ああ。俺が海里を探していたから。こうして舟で会うまでに時間がかかったが」
海里は千尋の言葉にかすかに頷いた。夢の外郭が次第にはっきりとしてくる。千尋の現実存在を認識していることで、そこでの出来事が記憶の一部として修復されていくような気がしている。薔薇の砂糖漬けを食み続けてきた、それ自体甘さを持つかのような唇に、彼は指をそっと当てた。
「……やっとこのメッセージを伝えることができる」
千尋は立ち上がって、長い瞬きをひとつした。
「月の舟は、『鬼』によって滅びを迎えようとしている。それを回避するために、『龍』である俺と、『翼』……羽衣の乗り手であるお前が必要だ。舟を循環する信仰の力を集め、高めることができるのは、羽衣だけだ」
警笛がどこかで鳴っている。瞬間、隣の線路を走行する電車と海里たちの乗る電車がすれ違った。風を鉄の巨体が切る。社でお守りが人気なのも、龍神に祈りを捧げる祭りがどんどん大規模化していくのも、舟の滅びが近づいているからだと考えれば納得がいく。そして目の前の少年が、舟の守り神である龍神だという。この鉄の異界を訪れたために、海里は普段彼が嫌っている『道徳』という二文字の毒に魂を売り渡す覚悟を迫られることとなった。生命の力を司る『龍』による終末の預言を海里が信じるか信じないかの問題ではなく、『舟で暮らす全ての人のために』身を投げ打って戦う、という結論だけを千尋は要求している。海里は彼の信条に実直に従った。
「そうは言ったって。舟が仮に明日沈むとしても、醜く生きながらえるより良い。俺にしたってそうだ。だから、舟の救世主になるなんて……」
「唐桃万里がどこに行ったか、知りたくはないか?」
(千尋は兄様を知っている!)海里は千尋に詰め寄った。朝方の夢の根幹をなすものに、彼の思考が至った――唐桃万里。海里の兄で、羽衣の美しい乗り手。彼が半身のように思っている、追憶の海に生きる少年である。彼は羽衣と共に生き、そして舟から消えた。海里は眠りの中不吉な映像を連続映写で見ていたのだ。彼はその甘やかな声を低めた。
「俺が羽衣で飛べば、兄様を探すことができる?」
返事代わりの沈黙。海里はそれを肯定と取った。不敵とも取られる微笑をこぼす。
「万里はこの舟のどこかにいるが、今の俺の力――信仰の量ではその場所を探すことすら困難だ。彼を探し出すことができれば、月の舟は奇跡を見る……」
「奇跡。神様のくせに、そんなものに頼ろうとしてるのか」
恐れを知らない海里は、首を傾げてよく櫛を通された黒髪を頬に滑らせた。なだらかな首筋が現れる。千尋は一瞬(解らない)と言いたげな、厳しい瞳をした。それは唐桃海里という少年の本質に向けられているようだった。身体の芯から花の香を漂わせていて、一度も完全に同じ色を映すことがない蒼い瞳に少年の純心を宿している。千尋は苛立ちというより不理解を海里にぶつけていた。肉体の魔力で何もかも意のままに変えようとする少年に、永い時間の中で千尋が培った良識が警鐘を鳴らしている。千尋は不意に右手を上げた。その手から海里が雪か花弁かと考えたあの羽がいくつか落ちていく。龍神の力の発露である。
「誰かが結界に来ようとしている。海里、この続きは竹林で」
「竹林……お前にとっての『都』かな。神様の集まる場所。今日は飛空が飛んでるみたいだけど」
革靴の規則正しい歩みと、それに混ざっていくつかの下駄の軽い跳躍が二人の少年に近づいていた。現実の時間と平行な空間である異界を創り出す、千尋の結界が霧消しかけていて、徐々に『現実』が一つに収束しようとしているのだ。発車した電車が必ず決められた駅で停まるように、千尋との邂逅も終わりを告げようとしている。海里は引き返すことはできないのだ。一度千尋のメッセージを受け取ったら、万里のことも羽衣のことも無かったことにはできない。それでも海里に逃げ出すような考えは全く無かった。(誰かが俺のためにすることは、奇跡なんかじゃない。俺が俺の意思で飛ぶこと、ここじゃない世界に飛ぶこと、それが奇跡を『起こす』んだ)万里の映像と千尋の謎かけの夢は、海里に大きな可能性――『翼』を与えるものだったのである。
「……俺の使命のためには、お前でなければ。永遠を破る力のために」
白い閃光に海里は思わず手で目を覆った。彼が正しい視界を取り戻す頃には、乗客たちの話声が辺りを満たしていた。感情表現の薄い千尋の、雪を解かすような眼差しが海里の胸に残っている。永遠を偽物だと断じる千尋の血は、海里の同胞のものである。蒼い瞳の少年は何か輝く宝物を手に入れた気分だった。海里は席を立っていた西洋人顔の学生服の少年の隣を抜けて、海里は飛鳥と将一の待つ車両へと引き返した。車掌は単調な声で電車が新橋駅へもうじき到着する旨を放送した。