とある一つの顛末、或いはその結論
先に結論を述べてしまうならば、件の事件は極めて速やかに、且つ穏やかな形で終結したと言う事が出来るだろう。
何せ実質的には、街への被害はほぼゼロだったのだ。
確認が取れただけでも八名の犠牲者が出てしまってはいるが、これは状況を考えれば奇跡的だとすら言える。
そして何よりも、その全てはランク二以下の冒険者であり、重症を負ってしまった者もその全てが冒険者だ。
街の住人には――市民には一切の被害が生じなかったことを考えれば、被害などはなかったと言ってしまっても構わないだろう。
これも全てはギルドを始めとした街の皆が力を合わせた結果であり、その成果である。
不足の事態であったにも関わらず、これだけのことを成せるのだから、間違いなく開拓も成功するに違いない。
原因不明のままに終わった魔物の大量襲撃事件ではあるが、結果的にこの街の力強さを示すことが出来たということを考えれば、悪いものでもなかったのではないだろうか。
最後にそんな希望に満ちた一文を沿え、ここに筆を置くことにする――
「……ふん、くだらんの。まるっきり茶番ではないか」
そこまでを読み終えた老人は、そう言って鼻を鳴らすと、もう興味もなくなったと言わんばかりに手元の紙片を投げ捨てた。
それ一つで下手な奴隷を買うよりも高くつくというのに、まるでそれを気にしている素振りすらも見せることはない。
だがそれは、老人にとって当たり前のことだからだ。
何せ老人が今居る部屋の値段を考えれば、それでさえ路傍の石ころ程度の価値しかないのである。
扱いが相応のものになるのも、当然のことと言えるだろう。
とはいえ、だからといって老人がそれそのものの価値を認めていない、というわけではない。
情報伝達手段が限られているこの世界において、手軽に様々な情報を得られるということには十分な価値があった。
特に価値があるのは、様々な情報、というところだ。
老人ほどの人物ともなれば、独自の情報伝達経路を持っているものだが、そこから得られる情報というのは、どうしても偏ってしまう。
しかし時に重要な情報というものは、そういったところとはまったく関係のないところから得られることがある。
故にこそ、それがどれほどくだらないものであったとしても、我慢して目を通しているのだが――
「時間の無駄じゃったな。こんなことなら、一眠りしていた方が余程有意義じゃったわ」
「おや、お気に召しませんでしたか? 今回のは割といい出来だったと思うのですが」
声は唐突に響き、その男もまた突然に現れた。
ドアが開く音はせず、また視線を外すこともなかったはずなのに、男は当たり前のようにしてそこに立っていたのだ。
だが老人がそれに慌てることはなかった。
いつものことであるし、手飼いの者が訪れた程度で、何を慌てることがあるというのか。
知っている者の中には、そうした態度を取る者も居るには居るが、老人に言わせればそれは惰弱なだけだ。
用心深いなどと言葉を濁してはいるが、それは要するに手飼いの者すら疑わずにはいられないということである。
有り得ない……否、有り得たらただの間抜けでしかないそんな心配している時点で、それは間抜けで無能な証なのだ。
そうではない老人には、その必要はない。
ただそれだけのことであり、自明の理であった。
そしてだからこそ、老人は無能を嫌う。
例えば――今目にしたような、くだらないことを書き連ねる輩だ。
「ふん……いい出来じゃと? ギルドに媚を売っておるだけじゃろうが。冒険者にしか被害が出ていない? 当然じゃ、被害が出た者は全て冒険者として扱ったのじゃからな。それを追求するならばまだしも……大方今回の件でギルドがさらに力を持つとでも思ったのじゃろうが、浅はか過ぎて反吐が出るわ」
「ふむ……? おや、最後までお読みになられていないのですか?」
「あんなものにあれ以上時間を使うほど儂は暇ではないわ。なんじゃ、何か興味を引かれることでも書かれておったのか?」
「いえ……お読みになっていないのであれば、問題はありません。わざわざお耳にいれるようなことでもありませんので」
「ふん……そうか」
老人がそれ以上追及することをしなかったのは、それだけ男に信を置いている故であった。
興味深くはあれども、自らが知っている必要はない。
そんな内容だったのだろうと、推測したのだ。
何せ男との付き合いも、もう十年以上となる。
そんなやり取りをしたのも一度や二度ではなく、今回もまた同じことだろうと――少なくとも老人は、そう思っていたのだ。
「それより、あのくだらんことを書きおった者が誰なのか、知らぬか?」
「あれの製作者、ですか? 文末に名前が書かれてあったかと思いますが……ヨルン・アーレント、でございます」
「そこまで読んでおらん儂が、知っているわけがなかろう。だが、名前が分かるならば、特定は容易じゃな?」
「それは勿論でございますが……?」
「儂が無能が嫌いじゃということは知っておるの?」
それ以上老人は何も言うことはなく、また男も聞きはしなかった。
何を意図しての言葉であったのかなど、確かめるまでもないからだ。
男は一つ頷くと、恭しく頭を下げた。
「畏まりました」
「今日はもう下がってよいぞ。随分と不愉快な気分にさせられたからの」
頭を下げたままで男は再度頷くと、そのままの体勢で一歩を後ろに下がり、背を向ける。
そのまま歩き去る――直前。
「そういえば、一つだけお聞きしたいことがあるのですが」
「なんじゃ、改まってからに」
「いえ……私の名前を、覚えていらっしゃるかと思いまして」
「ふむ……? そういえば、知らぬな」
それは老人にとって、何の意図もない言葉であった。
その意味がないからだ。
男の名前を知っていたところで、どうせ呼ぶ機会もない。
不要なものを覚えておくほど、老人は暇ではないのだ。
故に。
きっとその結末は、最初から決まっていた。
「そうですか……それは残念です。……ええ、本当に、残念でした」
言葉の直後、男の姿が消えた。
ただしそれはいつものように、そのまま去っていったわけではない。
「……?」
老人が異変に気付いたのは、次の瞬間だ。
そして老人は、それを理解することが出来なかった。
それが何であるのかは理解出来る。
だが……何故そんなことになっているのかが、理解出来なかったのだ。
どうして、その視界が、反転しているのか。
「まあ、何も知らぬまま、というのも哀れですので、少しだけ解説いたしますが……端的に言ってしまえば、あなたはやりすぎたのですよ。あなたの野心は我々にとっても都合がよく、非常によい関係を築くことが出来ていたと思うのですが……それだけに、非常に残念です」
老人は、男が何を言っているのかが理解できなかった。
何故声が自身の後方から聞こえてくるのかも理解できなければ、それを問うために言葉を発そうにも、口だけが動き音が作れないことも理解が出来ない。
否、そもそも……何故、首から下の感覚がないのか。
「もっともこれは私の監督不行き届きでもあるので、あまり偉そうなことも言えないのですが。……まさか私ではなく、別の者を使い事を進めてしまうとは。最初から私に任せてくださいましたら、上手く失敗させることが出来ましたのに……あそこまで進んでしまえば、止める方が危険です。おかげでいらぬところにいらぬ借りを作ることとなってしまいましたが、まあこれも私の不徳の致すところとしますれば……と、長々と申し訳ありません。どうやらそろそろ限界のようですね」
男の言葉は何故だか遠く、何を言っているのか、よく分からなかった。
ただ、限界、という言葉だけは、どうしてかはっきりと聞こえ――
「ああ、それと、最後になりますが、私の名前を告げておきましょう。ヨルン・アーレント、と申します。それでは、長い間、ご苦労様でした。どうか、良き夢を。……おやすみなさいませ」
何かがゴトリと、地面に落ちた音が耳に届いた。
そしてそれは、何故か妙に近くだったように思え……それが、老人の意識が存在していた――老人というものが存在していた、最後の瞬間になるのであった。
ふと天井を見上げたことに、意味などはなかった。
それで見えるのはいつも通りの天井だけであり、それ以外の何かが見えるわけでもない。
だからそれは単純にただの気分でしかなく、届かぬそこに吹きかけるように溜息を吐き出した。
「キミは何か勘違いをしていたようだけど、この街には支配者なんてものは居ないんだよ。居ないし、居ちゃいけない。ボクは傍観者で、ボク達は緩衝材だ。表向きそう見える誰かが居たとしても、それは必要だからそうしているに過ぎないのさ」
周囲はいつも通りの喧騒に満ちていたが、その呟くが漏れ聞こえることはない。
それは例えそこがギルドの受付でなかったとしても、同じことだ。
彼女が意図していない者にその声が届くことはなく……彼女の前に誰かがやってくることがないのも、それが理由であった。
「ま、キミの気持ちが分からないとは言わないけど、少し望んだことが分不相応過ぎたね。どうせその思惑を成功させたところで、諸共巻き込まれてしまっていただけだし……それは多分、下手に失敗するよりも余程酷い結末だろう。結果的には変わらないとはいえ、キミとしてはこっちのがマシだったんじゃないかな?」
視線は動くことなく、呟きも続く。
それは誰かに語り掛けているようでいて、実質的にはただの独り言である。
少なくとも、その先に居る誰かに聞こえていない以上、それそのものに意味はない。
それでも、そこに何か意味を求めるとするならば――
「まあとはいえ、ボク達もこうなることを望んでいたわけではなく、むしろ回避しようとしていたんだけど……結局こうするしかなかったのは、彼女の執念の成せる業、と言うべきなんだろうね。いやはや、母親というものは恐ろしいものだよ。ボクにはちょっと理解できないことだけど……或いは、ボクも母親になれれば理解出来るのかな? どう思う?」
「知るか」
独り言だったはずのものに言葉が返り、サティアは少しだけ口元を緩める。
視線を下ろし、前方へと向ければ、和樹が呆れたような顔をしてこちらを見ていた。
「知るか、とは随分と酷い言い方じゃないか……もう少し温かみのある言葉をかけてくれてもいいと思うけど?」
「生憎と電波の相手をまともにしてやれるほど人間が出来てなくてな」
「ふむ……これでもボクは色々な呼び方をされたものだけど、電波、という呼び方をされたのは初めてだね……これから名乗る時に使ってもいいかい?」
「間抜けにしか見えないからやめてくれ」
「それは残念」
小気味良い会話に、心地良い空気。
溜息を吐き出す和樹を眺めながら、サティアはくすくすと笑みを漏らす。
やはり彼とは相性がいいようだ。
或いはカレさえいなければ、サティアは和樹のことを選んでいたかもしれない。
もっともそれは、前提の時点で有り得ない話でしかないのだけれど。
「で? わざわざ俺を呼び出したのは、そんな妄言を聞かせるためだったのか? それならもう帰るんだが」
「妄言とは失敬だね。ボクは単に、終わってしまった人に葬いの言葉を送るついでに、ちょっとだけ私信を述べただけだっていうのに」
「その私信が余計なんだっつの」
「ふむ……なら、私信じゃなければいいんだね? そうだね、そういうことなら……ああ、そうそう、彼が記事の最後に書いた内容なんだけど……その件とは無関係だろうが、とある有力者の一人が原因不明の死を迎えた、っていう内容だったんだよね。まあそれを読んでいたところで、結末は変わらなかったんだけど……それでも、彼的には自分が道化だったんだってことが最後に気付けただろうから、ちょっとだけ違いはあったんじゃないかな」
「だからって誰が戯言をほざけと言ったか。呼び出した用件を言え、用件を」
出来ればもう少しだけ楽しんでいたかったが、あまりやりすぎると本当に和樹は帰りかねない。
仕方なく、用件を切り出すことにした。
「まあ、じゃあ、そうだね。とりあえず……ありがとう、と言っておこうか」
「あん? なんだ唐突に」
「いやあ、ボクは……ボク達は最終的にはキミに助けられたことになるわけだしね。まあ彼の後釜も見つける必要があるし、まだちょっとゴタゴタが続くだろうけど……これでようやく開拓への障害も全てなくなったわけだし」
「俺に、ね……俺達、じゃなくてか?」
「勿論助けてくれたのはキミ達だけど、それもキミが居てこそだ。それに、ボク達がキミ達に対して礼を述べることは許されていない。だからボクが今回こうして、個人的に礼を言っている、ということさ」
「過大評価な気がするがな。それに、個人的に、ね……」
含みを感じさせるような言い方で和樹は言葉を口にするが、サティアは笑みを浮かべただけで、それに関して何かを言うことはしない。
ただ……そう、ただ、それでも敢えて言うことがあるとすれば――
「過大評価なんてことはないさ。キミ達は……キミは、結果的に多くの人々を救った。そのことは、誇っていいことだと思うよ」
「……それは、ギルドの受付嬢としての言葉か?」
「勿論さ。ここに居るボクは、ギルド受付嬢のサティア、だからね」
「……ならありがたく受け取っておくかね」
そう言って肩を竦める和樹に、サティアは口元を緩めた。
今言ったことは、正真正銘の本音だ。
そこには、何の含みもない。
まあ、欠片も思惑がないと言ったら嘘になるが……その程度のことは、ご愛嬌といったところだろう。
「で?」
「ふむ? で、とは?」
「まさかそれを言いたかっただけってわけじゃないんだろ?」
「その通りだ、と言ったらどうするんだい?」
「このまま帰るだけだが? 帰っていいのか?」
「やれやれ……キミと会話しているのは楽しいのだけど、せっかちなのが珠に瑕だね」
「別にお前を楽しませたくて会話をしてるわけじゃないからな」
取り付く島もない言い方に、つい苦笑が浮かぶ。
それでもそこに悪い印象を覚えないのは、そんな態度を取る理由が分かることと……多少なりとも罪悪感のようなものを持っているからだろうか。
反省もしていないし後悔もしていないが、まったく思うところがないというわけではないのである。
ともあれ。
「ま、確かに本題は別にあるんだけどね。実は――」