幕間 終幕への序曲
「ねえ、本当にやるのかしら?」
決して狭いとは言えない部屋の中に、ふと少女の声が響いた。
開いた扉の方へと男が視線を向けるが、すぐに何を当たり前のことをとでも言わんばかりに鼻を鳴らす。
「今まで何のために金をばら撒き、実験を繰り返したと思っておる? そもそも、止める理由がなかろう」
「そうかしら? 色々とイレギュラーなことが起こっている、というのは止めるのに十分な理由だと思うけれど」
「かかか、それこそ逆じゃよ。イレギュラーなことが次々と起こっているからこそ、次に何が起こってもおかしくないという空気が出来ておる。そう、例えば、大量の魔物に突如街が襲われてしまう、とかの」
そう言って嗤い、言葉を語る男は、既に老人と言って差し支えない外見であるにも関わらず、相変わらずその目だけが異様なほどに爛々と輝いている。
欲望に濁ったそれを眺めながら、少女――瑠璃は、そっと息を吐き出した。
「そ……まあ確かに、今更ではあるわね。けれど、計画の方は上手くいっているの?」
「当然じゃ。抜かりなく、順調そのものじゃよ」
「なら、こんなところで悠長にしていていいのかしら? このままではあなたも巻き込まれるわよ?」
「ふん、むしろそれが目的よ。そもそも街を救うための儂が、この場所から動いてどうする?」
「随分と自信があるようね」
「なに、儂はかなりの小心者じゃからの。その上、自分で言うのもなんじゃが、用心深い。そのおかげでこの立場にまで上り詰めることが出来たわけじゃが……そんな儂じゃからの、この場所にも万が一のために結界を張っておるのよ。例え魔物の襲撃があったとしても、耐えられるようなものを、の」
「それはまた……本当に用心深いわね」
或いは、計算高い、と言うべきかも知れないが。
瑠璃が聞いた話によれば、老人がこの街にやってきたのはもう十年も前になるという。
なのに最近になってからそんな結界を張り出したら、怪しんでくださいと言っているようなものである。
それを考えれば、結界はかなり前から……おそらくは、それこそ男がやってきたばかりの頃から仕込んであるはずだ。
十年越しの計画……辛抱強いと言うことも出来るが、それは単にそれだけの時間が必要だったということでもあるのだろう。
どれだけ緻密な計算とし、進めてくる必要があったのか。
瑠璃には想像することも出来なかった。
「いやなに、結界の方は本当に万が一のためのものだったのじゃがな」
「万が一魔物が街に押し寄せてきた時のために色々と準備を重ねてきたのでしょう? ならやっぱり計画通りじゃない」
「最初は偶然押し寄せてくるのを待つしかなかったからの……そもそも予定ではあと五年は必要であった。じゃが子飼いの冒険者が偶然テイムとかいうレアスキルを手に入れたことが、ある意味では全ての始まりであったか。途中虎の子の冒険者が殺されるというアクシデントもあったが、そのおかげでアレを見つけることが出来たのだということ考えれば、悪くはあるまい」
テイムというスキルは、本来別にレアなスキルというわけではない。
ただしそれは取得方法が別段難しくないというだけであって、それもその方法を知っていればの話だ。
それを知っている瑠璃からすれば、知らずに取得出来たというのは、確かにレアと言ってもいいかもしれないと納得できることでもあった。
もっとも瑠璃にとって驚きなのは、そのことよりもその利用法についてなのだが。
よくもそんなことを思いつくという溜息が漏れる程度には、想像の埒外にあるものであった。
まあそれはともかくとして――
「ところで、そのアレとやらを、本当に倒すことは出来るの? 虎の子が殺されてしまったような相手なのでしょう?」
「なに、この街には肉壁が幾らでもいる。確かにやつらは儂の子飼いの中で最も腕利きではあったが、何事もやり方次第ということじゃよ。それに、お主を拾うことも出来たしの。あとは、その武器の解析をさせてくれれば、言うことはなしなんじゃがなあ?」
「生憎と、自分の相棒を預けられる程には、あなたを信用できてはいないの」
「くくく、それは本当に残念じゃな……まあしかしそれは、追々でもよかろう。儂がこの街を救った英雄になれば、この街のトップになれるか……或いは、本国の相応の地位にすら就けるじゃろう。そうなれば、さすがにお主の探し人とやらも見つけることは出来るじゃろうしの」
「……そ。ならその時を楽しみにしておくわ」
そう言って溜息を吐きたくなるのを我慢すると、瑠璃は背を向けた。
もう時間は残されていないようだし、どうやらここら辺が潮時のようである。
「ふむ……? 何処かへ行くのかね?」
「ちょっとその件の相手を見てくるわ。話には聞いているけれど、まだ実際の目で確認したわけではないもの。何か問題がありそうならば、手を加える必要もあるでしょうしね」
「そうか……気をつけよ、というのは大きなお世話かの?」
「そうね……おそらくは必要ないでしょうし。まあ、厚意だけはありがたく受け取っておくわ」
背を向けたまま、瑠璃はそれだけを告げると歩き出す。
背中に刺すような視線を感じたまま、それでも何をするでもなく、扉の向こう側へと歩いていった。
「あのまま行かせてしまっても、よろしかったのですか?」
瑠璃が姿を消し、老人一人となった部屋に、唐突に声が響いた。
だがそれもまた、いつものことだ。
老人は特に驚くでもなく、鼻を鳴らす。
「別に構わんよ」
「もう戻ってこないつもりかもしれませんよ? それに、計画の邪魔をするつもりかもしれません」
「それも含め、構わんと言っておるのじゃよ。そもそも、小娘一人に何が出来るというのか」
「小娘とはおっしゃいますが、アレはただの小娘ではありませんよ?」
「ふん、それも全て承知の上で、じゃ」
そんなことは、誰に言われずとも、誰よりもよく知っていた。
子飼いの冒険者全てを集めさせた老人の目の前で、あの少女はその全てを無傷で圧倒して見せたのだ。
或いは、虎の子であった者達よりも上の可能性すらある。
だが、それを全て知った上で、言っているのだ。
「なら……」
「それでも尚、じゃよ。伊達や酔狂で子飼いを百人も失ったわけではない……小娘ではアレをどうにかすることなどできぬよ」
それは確信であった。
確かに老人は冒険者ではないし、剣を手に魔物と戦うような者ではない。
しかし今まで戦ったことがないかといえば、そんなことはないのだ。
むしろそこら辺の冒険者の何倍もの経験を積んでいると言えるだろう。
そうでなければ、他国の人間でありながら、この街で相応の椅子に座っていることなど出来るわけがない。
そんな老人の勘が告げているのだ。
あの少女は確かに強いが、アレには勝つことは出来まい、と。
「……では逆に、そんなものを相手に、我らは勝てるのでしょうか?」
その言葉は、どんな感情から放たれたものであったのか。
声に震えはなかったが、内心どう思っているのかまでは分からないのだ。
特に顔が見えないとなれば尚更である。
或いは少女を留まらせようとしていたのも、恐怖故と考えれば分かりやすいことだろう。
老人はそれを鼻で笑いはしない。
そんなものは、あって当然だからだ。
老人にも覚えがあるものであり、今でさえ何も感じないということは有り得ない。
だが。
「さっきの話はお主も聞いておったじゃろう? 何事もやり方次第よ。小娘も、自分ではどうしようもないと思ったら戻ってくるじゃろうしの。そもそも他の誰かが対応しようにも、先日の騒ぎでまともな冒険者の数が減っている以上、ギルドは頼りになるまい。……それに、儂らはこの街の英雄になるのじゃからな。その程度のことは、やってやらねばなるまいて」
「……そういうことでしたら。色々と差し出がましいことを言ってしまい、申し訳ありません」
「なに、忠言してくれる者は貴重じゃ。気にしておらんよ」
声が黙ったのを確認すると、老人は窓の外へと視線を向けた。
この街には今、様々な思惑を抱えた者達が蠢いている。
それは以前から……それこそ、この街が出来た当初からそうであったが、今が過渡期だと言えるだろう。
その半数を、老人は既に手中に収めている。
残りの半数は、どうとでもなるだろう。
どうせ残るは日和見主義であったり、金や名誉、女で動かぬ頑固者達だ。
時勢が完全にこちら側に傾けば、やりようは幾らでもある。
市民に関しては、考える必要はなかった。
この街を救った英雄となれば、歓迎しない道理がないのだ。
そうして晴れてこの街のトップになれれば、そこからは自由である。
本国に明け渡すのでもいいし、この国の連中に恩を売るのでもいい。
どの道を辿るにしても、今よりもさらに、金と地位と名誉が手に入るのは間違いがないのだ。
その時のことを想像すれば、自然と顔が緩んでしまうが、こんな時こそ気を引き締めなければならないということを、老人は知っていた。
例えもう手が届くところにそれがあるのだとしても……否、だからこそ、気を引き締めなければならないのだ。
あと一歩というところで転がり落ちていった者達のことを何人も知っているし、時には自らがそれを作り出したりもした。
自分がそうなりかけたこともあるし……今更、そんな目に遭うわけにはいかないのである。
故に一旦そのことを脇に置くと、老人は今考えるべきことを視線の先に探し始めた。
さしあたっては――
「失敗して戻ってくるだろうあの娘を慰める言葉でも、考えておくとしようかの」
その時のことを考えながら、老人は顔に笑みを張り付かせたのであった。
「なんてことを、今頃は言っているのかしらね……」
地を蹴り、高速で流れていく背景の中に老人の顔を思い浮かべながら、瑠璃はそう呟き溜息を吐き出した。
老人達が自分のことをある程度理解している……正確には、そのつもりであることぐらい、瑠璃にも分かってはいるのだ。
だが所詮それは、理解しているつもりでしかない。
老人の方もさすがに全部を見せていると思っているわけではないだろうが……それでも、さすがに一割にも満たない程度だというのは予想外だろう。
「まあこっちからしてみれば、その程度の欺瞞は当然のことなのだけれど」
でなければ、いつまでもあんなところに留まってはいないし、計画とやらに加担するような真似を誰がするかという話である。
勿論拾ってくれた恩はあるが、それはとうに返せているだろう。
だというのに未だ留まっているのは、結局のところいざとなれば計画とやらを自分一人で潰すつもりだからであった。
計画の草案は単純だ。
強力な魔物を、街の方へと引っ張ってくる。
強力な魔物が動けば他の魔物も動くだろうという、安易なものであったらしい。
勿論その時点では机上の空論でしかなかったのだが……偶然にも、本当にそういったことが可能な魔物を発見してしまったらしいのだから恐れ入る。
老人の執念の代物か、或いは神にでも愛されているのか……何にせよ、それによって計画が実現可能なことになったことだけは確かだ。
しかし逆に言うならば、結局のところ計画の実行には、その魔物が必要だということである。
その魔物を倒しさえすれば、それで終わる話なのだ。
当然それは口で言うほど簡単なことではない。
何せ瑠璃は知らないが、老人の虎の子であった冒険者――ランク五の者達が殺されているというのだ。
さらには様々なことを知り、計画に組む込むために、百人近い冒険者も犠牲になったと聞く。
それを一人で何とかしようなどと、むしろ正気の沙汰ではないだろう。
――普通ならば、の話だが。
「……ま、これでも、元トッププレイヤーだもの」
随分とブランクがあるが、腕を錆びらせたつもりはないし、勘は既に大分取り戻せている。
伊達や酔狂で、他の廃人共と鎬を削っていたわけではないのだ。
……そこにはある程度の、義務感があったのだとしても。
「……っ」
僅かに走った胸の痛みに、首を横に振る。
それは今は、関係のない話だ。
ともあれ、どれだけ強力な魔物だといったところで、所詮それはこの世界では、のことでしかない。
レベル三百オーバーの瑠璃にしてみれば――
「……っ!?」
瞬間、足が止まったのは、何かが起こったからではなかった。
スキルによって警告が発されたわけではなく……それは純粋に、経験による勘から生じたものだ。
腕をさすってみれば、いつの間にか鳥肌が立っている。
周囲を軽く見回してみるも、そこには何の姿もなかった。
面倒を嫌って魔物の居ない場所を走ったので当たり前ではあるのだが……。
「……居る、わね、間違いなく。まさか、これが……?」
意識を前方に集中させてみれば、確かにその先に何者かの気配を感じることは出来た。
だがそれは薄く、相当遠くに居るはずだ。
その距離にいながら、こちらに悪寒を覚えさせるような相手が居るなど、考えたくはないが――
「……違うにしろ何にしろ、無視することは出来ない、わよね」
――アクティブスキル、ハンタースキル:鷹の目。
「……っ!?」
スキルの効果によって遥か遠くの光景を目にした瞬間、瑠璃は知らず息を飲んでいた。
嘘、と呟きが口から零れ落ちる。
その狼の如き魔物のことを、瑠璃は知っていた。
白銀の体毛に覆われているそれは、見知ったものである。
だが決して、この場に居ていいものでは……この世界に居ていいものではなかった。
「白銀の王……嘘でしょう?」
それはかつて瑠璃があの世界を去った頃、頂点に位置していた魔物の字である。
当時のエンドコンテンツ。
トッププレイヤー達がパーティーを組むどころか、レイドシステムを利用し総勢二十四人で挑んだところで一蹴させられた、最強の魔物だ。
瑠璃も挑んだことはあるが、当然のように勝てず、結局一度退くまでの間に勝てたという話は聞いたことがなかった。
復帰してから聞いた話では、勝つのにはレベルキャップが開放され、さらに半年ほどの時間が必要だったという話だが……。
「あの頃と比べたら私もレベルが上がってはいるけれど……」
向こうが同じかどうかということは、考える意味がない。
それは間違いがないということを、既に知っているからだ。
勿論厳密にはそれは他の魔物のことではあるが……まさかアレだけは違うということはないだろう。
――どうやらこの世界には、かつてゲームで目にしたことのある魔物が存在しているらしい。
それを瑠璃が理解したのはいつだったか、という感じではあるが、それは事実だ。
所謂ランク五の魔物と呼ばれるものの中にそれらが含まれているのは、確認済みである。
その意味を考えることもまた、無意味だろう。
今重要なのは、それが事実だということと……アレと戦わなければならない、ということである。
だが。
アレにソロで挑んで勝つ?
どう考えても不可能であった。
「……っ」
しかしそれはつまり、瑠璃の思惑が外れたということだ。
一人でどうとでも出来るなどと、自惚れが過ぎた結果だというのか。
結局老人の思考の方が上回り、瑠璃は何も出来ず――
「……いえ、落ち着きなさい、わたし。今ならばまだ、どうとでも出来るわ」
幾ら予想外が過ぎたとはいえ、想像が甘かったのは認めよう。
老人の勝ちで、自分の負けだ。
だからそれは、もうどうでもいい。
だが計画を実現させるわけには、いかなかった。
いや、この様子では、おそらく既に遅いのだろう。
老人が素直に行かせたのは、或いはそのことを知ってもいたからか。
アレが居る場所から考えれば、その周囲には魔物が存在していなければならないはずだ。
しかしアレ以外、周辺に魔物の姿はない。
それはつまり……そういうことである。
こうなると面倒を嫌って魔物の居ない道を進んできたのが仇となるが……それも言っても仕方のないことだろう。
だがまだ、手遅れというわけではないはずだ。
今から急いで街に戻れば、警告する時間ぐらいならばあるだろう。
手遅れなほどに状況が動いているのであれば、さすがに移動の途中で気付くはずだ。
そうでなかったのは、そこまで急激に進んでいるわけではない、ということである。
多少の願望が混ざっているのは否定しないが、まったくの見当違いだということもないだろう。
「何にせよ、とりあえずは戻って……アレのことは気になるけれど、話を伝えることさえ出来れば――」
しかしそうして引き返そうとしたところで、不運にも、瑠璃の視界がそれを捉えてしまった。
自分よりもアレの近くに居る、一人の少女の姿を、だ。
「なっ……!?」
物陰に隠れているようだが、あれでは見つかってしまうのも時間の問題だろう。
だが逃げようとしたところで、そこを捉えられてしまうのがオチである。
そもそも何故そこまで接近できたのかという話だが、運が良かった……或いは、悪かったというところか。
「……っ」
その光景に、瑠璃は唇を噛み締めた。
あれはもうどうしようもないし、自分が出て行ったところで意味はない。
何より自分には、やらなければならないことがあるのだ。
だから。
――不意に頭を過ぎったのは、誰かの顔と言葉。
そういえば、かつてはそういったことが、日常茶飯事であったと、そんなことをふと思い――
「……ごめんなさい」
それを振り払うように、瑠璃は目を逸らし……その場から走り出した。