血染めの少女はただ願う
和樹からその連絡があったのは、そろそろ帰って来る頃合かと、そんなことを思っていた時のことであった。
『つまり、どういうことなんですか?』
『さてな。俺も事情を知りたいぐらいなんだが……まあ、二人から聞いた話を統合して考えれば、やることは一つだ』
『……やはり、遅くなってしまったからと横着して和樹さん一人だけで行かせないで、私も行くべきだったでしょうか?』
『確かにそれなら色々と助かっただろうが……用事があるからってことで、テオ達が先に抜けることを承諾したのは俺だしな』
『それを言うならば、賛同を示した私にも責任はあったと思いますが』
『ま、何にせよ今更言っても仕方のないことだ。それに、そっちに居てくれたからこそやってもらえることもある』
『要するに、私はマルクさん達を連れてそちらに向かえばいいんですよね?』
『そうだ。事が終わる時にランク五が最低でも街に居てくれれば、後はサティアが何とか誤魔化してくれるだろうからな』
『そのことは伝えた方が?』
『いや、後で俺が直接伝える。お前に無駄なヘイトを溜める理由もないしな』
『……分かりました、それでは、後で』
『ああ、後でな』
声が途切れるのと同時、繋がっていた何かが切れる感覚も覚え、雪姫は溜息を吐き出した。
何度経験してもこの感覚は慣れないものであるが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「それで、彼は何だって?」
こちらに向けられている四対の視線に、頷きを返す。
その顔は誰も彼もが真剣であり、だからこそ、今回のことを皆が真剣に考え、聞いてくれているのだということが分かる。
そんな人達を騙すような真似をするのは正直心苦しいのだが……言っても仕方のないことだ。
これは後でデートの一つでもしてもらわなければ割に合いませんね、などという言葉を口の中だけで転がしつつ、小さく息を吐き出す。
そして。
「とりあえず、皆さん出発の準備をお願いします。詳しい話は道中でしますが、今は時間がないのです。なるべく急ぎでお願いします」
ふと見上げた空は黒く、月が出始めていた。
なるほど道理で辛くないはずです、などと今更ながらに納得しながら、リオは重力に従うように視線を戻す。
ほぼ同時に足の裏が地面に着き、だがすぐさま蹴る。
響いた轟音はその場で発生したものであり、同時にそれを殴り飛ばしたものであった。
どんがらがっしゃんと音を立てながら転がっていくそれを横目に、一つ息を吐き出す。
「やれやれ、キリがねえですね。というか、幾らなんでも多すぎじゃねえですか?」
呟く言葉に、応えはない。
肩の方へと視線を向けてみれば、フィーネの様子は何処か元気がなさげだが、それも仕方の無いことだろう。
時間に直せば未だそれほどの時間は経過していないはずだが、何せ内容が濃い。
リオは途中途中で栄養を補給していたが、フィーネはそういうわけにはいかないのだ。
自身の力で逃げているわけではないものの、だからこそ疲れるということもあるはずであった。
とはいえ、かといって休ませるわけにもいかない。
今でさえこの調子なのだ。
足を止めてしまえば、悪化していく一方だろう。
正直に言ってしまえば、リオも疲労はそれなりに溜まっているのだが……言ってる場合でもない。
周囲にはもう人影はないが、先ほどの物音ですぐに集まってくるだろう。
呼吸を整えると、一目散に逃げ出した。
追っ手の数が多すぎる、ということに気付いたのはいつだったか。
或いはそれよりも街が騒がしい、ということに気付いた方が早かった気がするが……どちらにせよ、同じことである。
物陰に身を潜めながら、リオは一つ息を吐き出す。
正直に言ってしまえば、最も厳しいのは精神的な疲労だ。
隠れ住んでいたあの家から逃げ出してから、一つの場所に一分以上居れた例がない。
さすがにそれで精神的なものを回復するのは不可能であった。
それでもギリギリのところで踏み止まれているのは、フィーネが共に居るからだろう。
実際には無理やり連れまわしている、というべきかもしれないが、仔細が異なったところでそれほど影響があるわけでもない。
むしろ影響があるとするならば、フィーネを連れまわっているということそのものの方だが……それに関しても既に言っても意味のないことである。
息を整え終えると、リオはすぐさまその場を後にした。
一つの場所に長時間居て囲まれるよりも、移動と休息を小まめに繰り返していった方がいいと気づいたからだ。
直後、出会い頭に遭遇してしまうが、これはもうどれだけ警戒していたところで仕方のないことである。
相手は何やら驚いている風であったが、構わず殴り飛ばし、走り去った。
「それにしても、本当に多いですね……どんだけいやがんですか?」
何を警戒すればいいのか分からないために多少警戒度を上げてはいるものの、ほぼ出会うもの全てを殴り飛ばしている形である。
溜息の一つや二つ、零れ落ちようというものだ。
別に無差別に襲い掛かっているわけではない。
ちゃんと相手が警戒すべきような相手かは判別しており……今のところそれがほぼ全てなだけだ。
リオも出来れば勘弁して欲しいのだが、リオにはどうすることも出来ないことである。
幸いなのはあの狙撃主からの追撃はなく、またアレと同程度の危険を感じるような相手には今のところ遭遇していないところか。
さすがにアレがこの街で最強などと考えるほど、リオは御目出度い頭をしていない。
少なくとも、アレと同程度の存在は居るだろうと考えるのが自然だ。
ならばこうして逃げ続けていれば、いつかはそんな存在とぶつかってしまう可能性は、決して低くはないのである。
知らず殴り飛ばしていた可能性はゼロではなかったが、あの狙撃主は下手をすればリオ以上の存在だ。
そんなのと同等の存在を、その程度で撃退出来るとは思えなかった。
まあ、考えすぎである可能性もあるし、是非ともそうであって欲しいところであるのだが――
「早々に逃げ出しておいて正解だったってことですかね」
呟き、向かってきていたそれを叩き落す。
視線を斜め前の屋根の上へと向ければ、そこには驚愕の表情を浮かべた男が一人居た。
「っ、今確実にこっち見てなかったじゃねぇか! くそっ、化け■だとかやられた連中が悔し紛れに言ってんのかと思ったら、本物かよ……!?」
即座に向こう側へと消えたが、もしかして今のは狙撃のつもりだったのだろうか。
それにしては随分と拙く、威力も弱いものでしかなかったが――
「まあさすがに早々あのレベルのはいねえですか」
というか、そこら中に溢れてたらとうにやられていただろうが……何にせよ、このまま見逃す理由はない。
或いは、自身をのみ狙うのであれば、放置しておいてもよかったのだが、先ほどの軌道は明らかにそうではなかった。
「フィーネを狙うとか、いい度胸してやがりますね」
既にその姿は見えないが、先ほどから捕捉し続けているため問題はない。
問題があるとするならば、立ちはだかっている壁の方だろうか。
それも撃ち抜いてしまえば問題にはならないのだが――
「……別に暴れたいわけじゃねえですし、これでいいですか」
――アクティブスキル、サポートスキル:ГNГКГGГCГgГoГМГbГg
相変わらず妙な文字が脳裏を過ぎるが、構わずナノマテリアルで弾丸を生成。
このまま放ってもいいが、それだと威力調節が難しいため、いつも通りのものを付加する。
――アクティブスキル、アタックスキル:ГpГЙГЙГCГYГVГЗГbГg
周囲の物の位置関係と、それの現在位置、逃げようとしている先と交わる到達点を算出し、放った。
「あとは確認するまでもねえですね」
視線を切る直前、放たれた弾丸は家と家の間を通過し、抜ける間際角に激突してその進行方向を変えるところであった。
計算通りであるし、ならばその先の結末も同様だ。
数秒後に聞こえた悲鳴には既に興味なく、走り続ける。
「にしても、やっぱりフィーネを連れてきて正解でしたね。これ以上傷つけさせるわけにはいかねえですし」
そう、結局のところは、それだけの話なのだ。
あそこから急いで逃げ出したのは、ほとんどそれだけのためであり、逃げ回っているのは自分のためではなくフィーネが傷つけられないためでしかない。
フィーネはきっと知らないだろうし、想像すらしていないだろう。
その存在が、どれだけ助けになっていたのか。
持ってこられていた食料などは、所詮ついでだ。
フィーネが尋ねてきてくれた、そのことだけが、リオにとって心の支えだったのである。
だが別にそんなことを知る必要はないし、知らせるつもりもない。
リオがただ勝手に、助けようとしているだけだ。
そう、そのはずである。
逃げているのも、問答無用で攻撃をしているのもそのためでしかないし、浅く繰り返される呼吸や激しい鼓動は疲労によるものだ。
それ以外にないし、あっていいはずがない。
周囲を見回したのは、小休止を取るためだ。
「そうです……別に小まめに休憩取るのは、いつものことですし」
人気のない路地裏に身を潜め、リオは一つ大きな息を吐き出した。
身体の内に溜まった熱を全て吐き出したつもりだったが、それはすぐに溜まってしまう。
吹き抜ける風が妙に冷たく、しかしそれは微塵も身体の熱を冷ますことには役立たない。
喉が渇く。
限界という言葉が、頭の隅を過ぎった。
「ああ、そうです……フィーネもいい加減休ませてやらねえとです。ずっと抱えてて、一度も地面に下ろしてなかったですし」
何処か言い訳のように呟きながら、フィーネの身体を下ろし壁に寄りかからせるように座らせるが、そのまま力なくズリ落ちていく。
担がれ続けていただけというには奇妙なほどに疲れている様子だが……その理由について、心当たりはない。
あるはずがない。
抱え続けていた手を伸ばせば、まだ意識は僅かに残っているようであった。
それでもこのままであるならば、それも時間の問題だろう。
それまで逃げ続けていれば、何の問題も――
「……え? 今、何を……?」
違う、そんなことはない。
考えていない。
しかしそんなことを思いながらも、視界の中にはフィーネの姿がある。
もうかなりの時間が経つというのに、未だに血が零れ続けている、二の腕が。
その傷は大したことはないはずであった。
どう考えても、血ぐらいは止まっていなければおかしいはずである。
ではそうなっていないのは何故かを考えれば……そんなのは一つしかない。
治らないのは、故意にそうされているからだ。
誰に?
そんなのは、一人しかいない。
「違う、です……リオは……」
呟きつつも、そこから目を離せないのは、身体がそれを理解しているからだ。
否。
――本当は、とうの昔に気付いていた。
逃げ続けていたのは、その根底にあったのは、別の何かから目を逸らすため。
フィーネの血の匂いを嗅いで、おいしそうなどと思ってしまったことから、逃げたかったのだということに。
だが本当にそこから逃げたかったのであれば、フィーネを連れなければよかったのである。
怪我など掠り傷でしかなかったし、フィーネは逃げられないほど弱いわけでもない。
リオが適当に暴れていれば、何の問題もなく逃げられただろう。
つまり結局のところ現状は、全てリオの望んだ通りなのだ。
違いがあるとするならば、それを心の底から認めていたかどうかなのである。
しかしそれも果たして、どれほどの違いがあるというのか。
何にせよ……あの瞬間、フィーネに手を伸ばしていた時から、きっとこの結末は最初から決まっていた。
「あっ……」
そしてそれを認識してしまえば、リオの肉体はもう抗える段階にない。
どれだけ他のものを取り入れたところで、それは代替にすらならないのだ。
むしろ味を知れば知るほどに、抑えは効かなくなっていく。
或いは最初から知らなければまだどうにかなったかもしれないが……それはとうの昔に手遅れである。
フィーネの身体を掴み、強引に引き寄せた。
眼前にあるのは、剥き出しの首筋。
望んだそれがそこにあることに、口元が自然と緩む。
否、ずっと緩みっぱなしだったそれが、さらに深くなったと言う方が、正確だろう。
意識してしまった以上は、もうどうすることも出来ない。
今度は、多分邪魔も入らないだろう。
いや、ここまで来てしまえば、邪魔が入ったところで何の関係もなかった。
引き延ばされた分反動は大きく、肥大しきった本能に、僅かばかり残された理性は抗うことを許されない。
それは望んでいなくとも、心底望んでいたことでもあるのだ。
天秤が壊れた以上は、葛藤などに意味はなく、頭の片隅でのそれはただの雑音に過ぎない。
望んだままに、本能のままに口を大きく開ける。
嫌だと叫びたかったけれど、それは許されることではなかった。
何よりも意味がなく、心は既にこの後に訪れるであろう幸福に浸っている。
この思考すらも、あと一秒もしないうちに掻き消えるだろう。
後に残されるのは、友人となってくれた少女を殺しその血の味を覚えた、ただの化け物だ。
それでも。
無意味なんて、分かってはいたけれど。
「――誰か、助けろ、です」
誰にも届くことのない願いを呟き――
「ま、見捨てるのも寝覚めが悪いし、頼まれた以上は仕方がないしな。了解だ」
口を閉じる直前、衝撃と共に、その身体が吹き飛ばされた。