幕間 薄闇の中の一雫
薄暗い部屋であった。
夜の帳が下りつつある中、魔石灯も点けずにいれば当たり前のことではあるが、そこをそう感じるのはそれだけが理由ではないだろう。
異様なほどに重苦しい空気と、その中で唯一爛々と輝いているもの。
何よりもそれが、この場を暗いと思う理由であり……一目でそれを瞳だと認識できるものが、果してどれだけいるだろうか。
そんなことを考えながら、瑠璃は溜息を吐き出した。
「それで、結局どういうことなのかしら?」
「どういったも何も、今言った通りじゃよ。餌場は壊滅。次の廃棄場予定地は未定。まったくギルドの連中も、余計なことをしてくれたもんじゃ」
声は重く、まるで全身を撫でられるかのような不快感を瑠璃に与えてきたが、それに少女は顔色一つ変えることはない。
元々感情があまり顔に出る方ではない、というのもあるが、どちらかと言えば単純に慣れたと、そういうことだろう。
勿論まったく嬉しくはなかったが。
「壊滅することはないと、わたしはそう聞いていた気がするのだけれど?」
しかもその話をされたのは、つい先日のことだ。
それから一週間も経たないうちに翻されることになるとは、一体どういうことなのか。
まあ、嬉しいか嬉しくないかで言えば嬉しくはあるのだが、そういう問題ではないだろう。
「かか、何でもかんでも上手くいく人生など有り得ぬよ。そもそも、そんな人生を送ったところで面白くなどはなかろう?」
「さあ、どうかしらね? 日々平穏であることを願っている私としては、そちらの方が遥かに嬉しいのだけれど」
「平穏を望む、か……随分と嘯いたものじゃの?」
「だって本当のことだもの」
「ふむ、ならば何故それほどの力を身につけたのじゃ? 平穏を望むのであらば不要であろうに」
何故と言われても、そんなことはこちらが聞きたいことであった。
だがそれを目の前の相手に伝えたところで意味はない……どころか、余計状況が悪化するだけだろう。
ならばさてどうしたものかと考え――
「平穏を望むからこそ、力が必要なのでしょう? 望んでいるだけで平穏がやってくるのであれば、誰も苦労はしないわ」
意外にも簡単に言葉が出てきたのは、ここ最近実感し続けていることだからか。
力がなかったら自分はどうやっていただろうかとふと考え、しかしすぐに小さく息を吐き出す。
或いは今よりもマシであった可能性もあるが、考えたところで詮無きことである。
だがともあれ、その答えは、目の前のそれにとって満足いくものであったらしい。
「なるほどのぅ……確かに、その通りじゃな。どれだけの夢を抱えていようとも、それを実現するための力がなければ、何の意味もありはしない」
感じ入るように頷くそれの姿を眺めながら、瑠璃はさらにもう一度小さく息を吐く。
何やら余計なことを言ってしまったような気もするが……まあ、どうしようもないことである。
「さて、それでは夢を実現させるための話の方に戻ろうかの」
「あら、ようやく言い訳を聞かせてくれるのかしら?」
「ふむ……確かに、これは言い訳と言われても仕方のないことじゃな。何せ本当に、あそこは本来壊滅などするはずではなかったのじゃが……これは鈴が鳴らなかったのか、それとも壊れたのか……どっちじゃと思う?」
「おそらくですが、そのどちらでもないのではないかと」
それが問いを発した直後、その場に瑠璃のものではない、まったく別の誰かの声が響いた。
しかし目の前のそれは勿論のこと、瑠璃の方も驚いてはいない。
目の前のそれはそのことを知った上で声をかけていたのだし、瑠璃の方も既に慣れたものだ。
その姿が見えないことも含めて、である。
「どっちでもないということは、予想外のことが起こった、ということかしら?」
「その可能性が高いかと思われます。他の街からランク五の四人がこちらに向かっているのは把握していましたが、彼ら程度でどうにか出来るようなものでもありませんでしたし」
「ふむ……ということは、それらと一緒にあそこに向かったというやつらがそれということかの。ま、いいじゃろう。今後あそこが使えなくなったのは痛いが、ならば別の方法を使えばいいことじゃしの」
「わたしとしてはよくないのだけれど? 初仕事だと張り切っていたのに、仕事場がなくなってしまったのではどうしようもないわ」
「なに、慌てるでない。お主の次の仕事は、きちんと考えてある」
「ならいいのだけれど」
実際には良いことなど一つもないが、ここでそれの機嫌を損ねる方が厄介だ。
少なくとも今は、そう言って頷いておくしかなかった。
「でもそうなると、わたしも実験とやらの手伝いをすることにでもなるのかしら?」
「いや、そっちは不要じゃよ。というよりも、ある意味でそれは既にしてもらっておるしの。次お主にしてもらうことは、別のことじゃ」
「別、ねえ……ということは、その予想外とやらをどうにかさせようということかしら?」
「ふむ……さすが鋭いの」
「別に普通でしょう? というよりも、これ見よがしにその話をされていたのだから、そこに思い至るのは当然でしょうに。褒められても、逆に侮辱にしか聞こえないわ」
「かか、それはすまなんだ。そんなつもりはなかったのじゃがな」
「まあ、別にどうでもいいのだけれど」
「一つ訂正いたしますと、どうにかさせるつもりは、今のところありません。監視と、そういうことになるでしょう」
「今のところ、ね……」
「或いはこちらにも益をもたらす人物かも知れんからの。そこを判断せず、一度不利益を被ったからといって排除しようとする者など、愚物以下に過ぎぬよ」
「と言われても、わたしはそんなこと判断出来ないわよ?」
「無論、そこら辺は儂らがするとも。お主は一先ず監視するだけでいいのじゃよ……得意なのじゃろう?」
「それが本職なのだから、まあ、構わないのだけれど……」
本当にそれだけでいいのかと、疑惑の目を向けるも、それ――老人の形をしたそれからは、何の反応もない。
ただ、その姿に似つかわしくない眼光に、貫かれるだけだ。
肩に背負っているそれを担ぎ直しながら、瑠璃は息を吐き出した。
「とりあえず、了解したわ。それで、それはいつからやればいいのかしら?」
「今から、と言いたいところじゃが、さすがにそこまで無理は言わぬよ」
「当たり前よ」
「それに、彼らは二週間ほど後で移動することが確定していますから、本格的に観察をしていただくのは、それからでも問題はないかと」
「移動って……別の街に移動するということ?」
「いえ。どうやらあの場所に家を建て、そこに住むようです」
「そう……」
果たして家というものは二週間で建つようなものだったかしら、という疑問を瑠璃は覚えたが、それを口にすることはなかった。
当たり前のような口調で言っているのだから、きっとそれがこの世界の常識なのだろうと、そう思ったからである。
わざわざ相手に餌を与える必要はないと口を噤み、代わりとばかりに頷く。
「まあ、分かったわ。それに、あくまでも本格的なのはそれから、ということでしょう? 明日からそれまでは、簡易的に探る段階、ということかしら?」
「そういうことになりますね。後で資料の方はお渡しします」
「今じゃないの?」
「申し訳ありません。何分急なことでしたので、未だ揃いきっておらず」
「そ……ま、間に合いさえするのならば、どうでもいいけれど」
そう言うと、瑠璃は背を向けた。
用件は終わったと判断し、これ以上の長居は無用と判断したのだ。
「なんじゃ、もう言ってしまうのか? 世間話の一つや二つしていっても、罰は当たらんと思うんじゃがの」
「冗談でしょう? 生憎とわたしは、老人とそんな話をして楽しめるほど、枯れてはいないわ」
「かかか、相変わらず、恩人に向かって、随分な口の利き方じゃのぅ?」
「あら、畏まった方がいいのならばそうするのだけれど……あなたは恩人というだけでそんなことを強要するほど、器の小さい人間だったのかしら?」
「おうおう、随分強気に出るもんじゃの……じゃが、確かにその通りじゃな。まあそもそもの話、儂も小娘相手に世間話をしているほど、暇ではないのじゃが」
「ならば最初から言わなければいいじゃないの」
「社交辞令というやつじゃよ」
色々と面倒くさいものだと、そう思い溜息を吐きながら、瑠璃は歩き出す。
今度は止められることもなく、二対の視線を背中に感じながら、瑠璃はそのままその部屋を後にしたのであった。
「ふむ……どう思うかの?」
「それは何に対してでしょうか? 彼女でしょうか、或いは……」
「無論、全てに対して、じゃよ。進行状況の確認という意味でもあるがの」
瑠璃が去った後も、残った二人は会話を続けていた。
というよりも、ここからが本番といったところだろうか。
あの少女に聞かせられない話などは、幾らでもあるのだ。
「一先ず進行状況に関しましては、順調と言ってしまってよいかと思います」
「ふむ……予想外に、かの?」
「はい、予想外に、です。あの場所がなくなってしまったのは痛いですが……ここまで来れたことを考えますに、既にそれほど問題ないかとも思います」
「なるほど……どうやら儂も色々と頑張った甲斐があった、ということなのようじゃの」
返答はすぐにはなかった。
何かを考えるような間が空き、絞り出されるように言葉が放たれる。
「……その通りです。個人的には、もう少し私を信じ、任せてくだされた方がよかったのですが」
「かか、お主のことは勿論信じておるがの。時には儂自らが動いた方が、色々と都合のいい時もあるということじゃよ」
そこでわざとらしく溜息が吐き出される声が響くも、老人に堪えた様子はない。
そのことは、声の主も理解しているのだろう。
続く声に、落胆の響きはなかった。
「しかし順調である以上、彼女を使う意味は薄いのではないでしょうか?」
「ふむ……不満かの?」
「不満というよりは、不安でしょうか? 彼女は正直、不確定要素です」
「そうじゃな。じゃが、だからこそ使う意味がある。普通にやっていたところで、儂の夢が叶うことはないじゃろうからの」
「敢えて、ということですか」
「それに不確定要素というのならば、餌場を壊滅させたやつらこそ不確定要素じゃろう? 不確定要素に不確定要素をぶつけるのは、少なくとも儂の中では理に適っておる」
「そう上手くいくでしょうか? 確かに彼女の武器は強力でしたが……」
「何ならお主の気のすむまで試しても構わんぞ? 次の廃棄場が見つかるまでの短い間ぐらいならば、何とか誤魔化せるじゃろうしの」
「……考えておきます」
それでその話題は終わりとなった。
いつまでも続けるような話ではないし、このまま順調に進んでいけば、計画の最終段階に辿り着くのに、そう時間は必要としないだろう。
時間はなく、だがやるべきことは幾らでもあった。
「ところで、今日お持ちしました新聞に書かれていた内容に関してなのですが――」
「さて、今頃また別の悪巧みでもしているのかしらね……」
そんな言葉を呟きながら、ふと瑠璃は溜息を吐き出した。
まるで他人事のように言ってはいるが、実際には当事者の一人なのだ。
気が乗らないからといって、知らんぷりをするわけにもいくまい。
まあだからといって何が出来るわけでもなければ、何をするわけでもないのだが。
あの部屋を後にした瑠璃は、そのまま自身の部屋へと戻っていた。
もういい時間帯であるし、特に何かする気にもなれなかったからだ。
もっとも――
「それで一人でこんなことしてるなんてことが知られたら、またあの娘に怒られそうね」
その場面を想像し、くすりと笑みが漏れる。
同時に感じた寂寥は無視し、そうしている間も手が止まることはない。
それと共に発される音は、金属質なものだ。
というよりは、金属そのものが立てる音であり、床にばら撒かれているそれらは金属の光沢を放っている。
「ついでに、理解できません、とかも言われるかしらね。まあ、それもまた、いつものことなのだけれど」
今は聞くことの出来ない声を思い起こしながら、手元のそれを組み立てていく。
特別意識する必要はない。
既に身体に馴染んだ行動なのだ。
やったことはないが、おそらくは目を瞑ってすら可能だろう。
勿論、スキルの補助があっての話では、あるのだが。
「いつかはスキルを使わずにやってみたいものだけれど……果たして可能なのかしら? 現実のそれと比べてみた結果、微妙に構造が異なっていたようなのだけれど……まあ、おそらくはわざとでしょうけれど」
多分余計なクレームをつけられるのを避けるためだったのだろうと、そんなことを思いながらも続ければ、やがて手の中には元通りとなったそれが残された。
――銃。
もう少し具体的に言うならば、スナイパーライフルの一種だ。
瑠璃の相棒であり、愛銃でもある。
「余剰パーツはなし、ステータスも異常なし、実射は……さすがに止めておいた方がよさそうね。近所迷惑だもの」
実際にはそれ以前の問題ではあるが、何にせよ迷惑であることに違いはない。
スコープから遠くだけを覗き、想像の中だけで引き金を引く。
狙うは――
「……っ」
想像の世界から戻ってきた瑠璃は、そこで一つ、深く長い息を吐き出した。
それから、自嘲するように呟く。
「まったく、想像する程度でこの有様なんて、ね。もうそんな甘えたことを言っていられる状況ではないというのに、わたしは何をしているのかしら」
そうしながら、僅かに震えている腕を抑えるかのように、グリップを強く握り締める。
こんな有様でしかなかったが……それでも、止めるということだけは有り得なかった。
いや、或いは許されないと、そう言うべきか。
誰が、というわけではない。
自分が自分を、許さないのだ。
それ以外に選択肢がなかったのだとしても、それが自ら選んだ道である以上、それを違えることは自分自身が許すことはないのである。
何があろうとも、望んだ願いを叶えるまでは、少女が止まることはない。
例え彼女がそれを望まなかったとしても、だ。
絶対に探し出してみせるし、困っているというのならば、何があっても助けてみせる。
もっとも今はその手掛かりすらも見つけることが出来ずにいるのだが――
「あなたは今頃、何処で何をしているのかしらね……雪姫」
そして。
「あなたが今のわたしを見たら、何て言うのかしら――ねえ、和樹」