遅い自己紹介
「そういえば、自己紹介ってまだしていないですよね?」
少女がそんなことを言ったのは、街を一通りを回り、宿に戻ってきた時のことであった。
「……確かに、そういえばそうだな」
どうしてそのことに気付かなかったのかと思うが、そのタイミングに最も相応しかったであろう、ここに最初にやってきた時からしてあれだったのだ。
そこで外してしまったせいというべきか、或いは未だ自分も混乱から抜け切れていなかったというべきか。
まあ何にせよ、気付く機会は幾らでもあったはずなので、自分の馬鹿さ加減に頭痛がしてくる。
「……いや、気付かなくて悪かった」
「いえ、私はご主人様と呼べばいいだけなので問題はないのですが、ご主人様が私のことを呼ぶ時に問題が起こるかもしれないと思っただけですから。さすがにお前とかおいとかでは気付かないこともありますし……いえ、ご主人様がそう呼びたいのでしたら吝かではありませんが」
「本当に悪かったと思ってるから、ご主人様も止めてくれ」
年頃の少女にご主人様と呼ばれて喜ぶ趣味はないのだ。
……いや、まったく興味がないというわけではないし、そう呼ばれるとちょっとときめいたりもするのだが――頭を過ぎった変な思考を、纏めて丸めて投げ捨てた。
「で、自己紹介か……えー、あー、うん……アレだ」
「どれですか?」
「俺も分からん。まあ……不知火和樹だ。ご主人様以外なら好きに呼んでくれ」
「分かりました。では、マスターと」
「分かった、言い直す。苗字か名前のどっちか好きな方で呼んでくれ」
「そうですか……残念です。旦那様なども候補としてあったのですが」
ちょっと慣れてきたというか、はっちゃけてきてないだろうか。
そう思うも、実際のところこっちの方がやりやすいので黙っておく。
まあ、もしかしたら無理をしている可能性もあるので、しばらく様子見が必要だろうが。
「……それにしても、不知火、ですか」
「ん? なんだ、もしかして知り合いに同じ苗字のやつでもいたか?」
「そうですね……そんなところです」
「まああんまいない苗字だとは思うが、それでも他にいないわけでもないしな」
「ですね。ともあれ、分かりました。それでは、不本意ですが、和樹さんと呼ばせていただきます」
「不本意っていうな。それだとまるで俺の名前を呼びたくないみたいに聞こえるだろうが」
「……?」
「不思議そうな顔で首を傾げないでください。俺の心が折れてしまいます」
「不思議ですね、何故でしょうか」
「お前のせいだよ」
いやこれ無理してるとかないだろうと思ったが、どっちにしろ様子見が必要なことに変わりはない。
ただこれが素なのだとすると少々疲れそうな気がするが……まあ、下手に気を使う必要がないと考えれば、楽ではあると前向きに考えるとしよう。
「和樹さんが何を言っているのかは分かりませんが、とりあえず私も自己紹介をさせていただきますね。相模雪姫です。誠心誠意尽くさせていただきますので、今後ともよろしくお願い致します」
「そういうのはいいから、程々に頼む」
「程々に尽くす……つまり、チラリズムが大事、ということですね?」
「全然違うからな? というか何でそうなった?」
「いえ、私の足の付け根が気になるらしい和樹さんの視線を時折感じるからですが」
「ぐっ……」
しまったばれてたかと思ったが……あれは仕方がない。
目の前でピラピラと、見えそうで見えないそれが跳ね回るのだ。
男なら誰だって見てしまうだろう。
それは和樹も例外ではなかった。
ただそれだけのことなのである。
「まあ和樹さんの性癖は後でじっくりと研究するとしまして、ともかくよろしくお願いしますね」
「それは止めろと言っておくが……まあ、よろしく頼む、雪姫」
「はい」
まあそんなこんなで何とか自己紹介も終わったわけだが――
「ところで、大体のことは既に教えたとは思うが、あと何か気になってることとか知りたいこととかってあるか?」
「そうですね、私も大体知りたいことは聞いたと思うんですが……あ、そういえば、一つだけ。結局言葉の問題ってどうするんですか? 当てがある、みたいなことを言っていましたが」
「ああ、そういえばその話をまだしてなかったか」
少女――雪姫がこの世界で、言葉に不自由しないためにはどうすればいいか。
これは言い換えれば、こう言うことも出来る。
何故和樹は、この世界で言葉に不自由していないのか、と。
「そうですね、正直それも気になっていました。先ほど買い物をしていた時もそうでしたが、明らかに和樹さんは日本語を喋っているのに、相手の人にはちゃんと通じていましたよね?」
「まあそのことには、俺も今日初めて思い至ったんだけどな」
少し考えてみれば、当たり前の話であった。
元の世界でさえ、世界には様々な言語が存在していたのだ。
異世界に来てしまったのなら、言葉が通じるはずもないのである。
だが今日雪姫に会い、雪姫がサティアの喋る言葉を理解できていないのを見るまでは、和樹はそのことを意識したことなどはなかったし、考えたこともなかった。
特に問題なく、それこそそれが当然のように言葉が通じていたからである。
では何故そんなことが起こっているのか。
そのことに、和樹は心当たりがあった。
というか、ほぼ間違いないだろう。
「それが、翻訳ってスキルだ。まあそのまんまだな。サポートスキルの一つで、これを覚えて使えば、言葉の問題は解決するはずだ」
「翻訳スキル、ですか……そういえば、そんなものもありましたね。なるほど、本来の効果の方、ということですか」
「そういうことだ」
効果の方は名前の通りであり、当然のように和樹は現在もそれを使用している。
だがどうしてそれと言葉の問題が直結しなかったのかと言えば、癖というか、習慣のようなものが理由だろう。
そもそも和樹がプレイしていたゲームでは、基本的な動作として、翻訳機能が働いていた。
何処の国の言葉であろうと、それを耳にし目にした時点で、自分が予め登録してあった言語に翻訳されるのである。
だからわざわざスキルとして利用する必要はなく、云わばそれは死にスキルだったのだ。
効果がそれだけしかなかったのならば、の話だが。
話は若干飛ぶが、スキルの中には幾つか本来のそれとは異なる効果が発生するものがある。
特にサポートスキルの中に多いのだが、副次的効果のはずが本来のそれとはまったく異なるものが多く、中にはそちらの方が有用なスキルさえあった。
翻訳は、そんなものの中でも代表的な一つだったのである。
そしてその効果というのは、単純にして明快。
スキルのディアルスキル化……つまりは、スキルの複数同時使用化だ。
それが判明するまで、あのゲームでは、スキルというのは同時に一つしか使えないものである。
それが仕様だと思っていたし、その中で皆が工夫しながらも必死で頑張っていたのだ。
そんな中での、唐突なそれである。
ゲームの遊び方そのものが変わったといっても過言ではなかっただろう。
しかし副次仕様とは、そのスキルを取得してみるまで分からないものだ。
或いはシャレで取ってみたという者が居なければ、今を以って判明していなかったかもしれない。
まあだからこそ彼は、運営の回し者などと呼ばれることもあったわけだが。
閑話休題。
「あれ? でも確かそれを覚えるには、中級者以上になる必要があると聞いた覚えがあるような気がするんですが……?」
「まあ確かにそう言われてるな。言われてるだけだが」
その効果からも分かる通り、翻訳スキルは必須のスキルである。
これは戦闘をメインで行っているプレイヤーだけではなく、生産職の者にとっても同様だ。
使っていなかったのは、初級者を脱していない者達ぐらいだっただろう。
では何故初級者が使っていなかったというと、その理由としては単純なものだ。
誰もそのことを教えず、教えないことが暗黙の了解となっていたからである。
最初から複数を同時に使えていたのでは、一つ一つのスキルを使用するのがおざなりになってしまう。
複数を同時に使うということは、一つのスキルをしっかりと使えてこそ活きるのであり、そのことを自らの身で実感させるために、というわけだ。
まあ勿論それは単なる建前であり、本音としては自分達も苦労したんだからお前達も初級者の間ぐらいは苦労しろ、とかいうものではあったのだが。
要するに、自分達が強いられた苦労を後輩にも味合わせるための、ただの嘘である。
「……翻訳スキルがないから、何とか頑張って色々と工夫したんですが?」
「そうさせるための嘘だからな」
だがそんな必須スキルではあったが、そのことを意識している者はほとんどいなかっただろう。
その理由の一つはスキルの持続時間にあり、翻訳は一度使えば丸一日その効果が持ったのである。
つまりは、朝目覚める、或いはログインと同時に使えばそれで大抵問題ないものであり、ほとんどの者にとってそれは癖というか、習慣のようなものと化していたのだ。
それは和樹にしても例外ではなく、和樹はこの世界で目覚めたと同時に翻訳を使用していた。
この世界が異世界だということも、スキルを使用できるのだということも理解しないうちのことであり、スキルをどうやったら使うことが出来るのを理解する前に使用していたのだから、そのことがどれだけ無意識に刻まれた行為であったのかが分かるというものだろう。
ともあれ。
「ふむふむ……ところで、解決方法は分かったのですが、肝心のスキルを覚える方法はどうするのでしょうか? 翻訳スキルを覚えるためには、確か専用のスキルブックが必要だったはずですが」
「そうだな、それは間違ってない」
あのゲームにおいて、スキルを覚える方法は、大雑把に分けて二通り存在していた。
条件を満たすことで覚える方法と、スキルブックというものを使用することで覚える方法だ。
前者は、例えば素振り百回とかいうものであり、その条件さえ満たせば誰でも覚えることが可能だが、後者は、当然そのスキルブックを手に入れない限り覚えることは出来ない。
ちなみにその入手方法も、また二つだ。
迷宮等に潜り偶然手に入れるか――
「だが、問題ない。俺が作れるからな」
それを作ることの出来る者から、直接的、或いは間接的に手に入れるか、である。
――アクティブスキル、エクストラスキル:ブックメイカー・翻訳。
そう口にした直後、開いた和樹の手の中に、瞬時にして一冊の本が現れた。
それが何であるのか、そして今何が行なわれたのかを理解したのか、それを目の当たりにした雪姫の目が見開かれる。
「スキルブック作成スキル……!? それって確か……エクストラスキル、ですよね?」
エクストラスキル。
それは文字通り、特別なスキルの総称だ。
アタックやサポート、ディエンスにマジックなどとスキルには様々な種類が存在しているが、そのどの枠組みにも属さないスキルであり、率直に言ってしまえば非常に珍しい。
特定のクエストを受けることでしか手に入れることは出来ず、ユニークなものも多かったことから、一つでも所持しているプレイヤーは全体の一パーセントにも満たなかったと言われていたほどだ。
「まあな」
だがそんな雪姫の質問に、和樹は特に気負うでも自慢するでもなく頷いた。
いや、実際のところ、確かにエクストラスキルは珍しいものなのだが、和樹の周りにはそれを持っている者が多数いたのだ。
ゲームの中で幾ら珍しかろうが、自分の知る世界の中でそうではないのであれば、特にそれに対し何か思うことなどあるはずがないのである。
もっともそれはあくまでも、和樹にとっての認識、でしかないのだが。
雪姫にとっては間違いなく、それは希少で貴重なものなのだ。
しかも希少故に、そのスキルの情報が知れ渡っているものも少なくはない。
和樹の使用したブックメイカーとは、その内の一つである。
「そのスキルの所持者は和樹さんだったんですね……」
「別に俺が持ってることも含めて特に隠してたわけじゃないんだが……まあ、初級者だと接点が皆無だし、誰が持ってるのかとかはわざわざ覚えないか」
「そうですね……というか、私が聞いた話ですと、それはそう頻繁に使えるものではない、という話だった気がしますが……?」
「そうだな、その認識で正しい。具体的には、同一のスキルブックならば年単位での時間経過が必要だし、他のスキルブック作成にしても月単位での時間経過が必要だ。とはいえ、そうポンポン使うもんでも、使えるもんでもないしな。問題ないだろ」
スキルブックとは、文字通り本の形をしたアイテムであり、先に述べたように読むだけでスキルを覚えることが出来るという代物だ。
ゲーム内ではそれほど珍しいものではなく、別に和樹にしか作れないというものでもない。
あくまでもそのエクストラスキルを使えるのが和樹しかいなかった、というだけなのだ。
そもそもスキルブックで覚えることの出来るスキルとは、その大半が特定の条件でも覚えることの出来るものである。
確かに翻訳のようにスキルブックでしか覚えることの出来ないものも存在してはいるが、そういったものは希少であり、一部例外を除けばスキルブックを使ってスキルを覚えるのは裏技に近いような扱いだったのだ。
まあもう少し覚えるのが面倒なスキルを覚えることの出来るスキルブックが存在していればまた別の扱いもされていたかもしれないが、生憎とそういうものは流通していなかった。
スキルブックを作れるとは言っても、その大半はどうでもいいようなスキルを覚えるものしか作ることは出来なかったのだ。
ちなみに先の和樹のスキルは、自身の覚えているスキルならばエクストラスキルを除けばどんなものでもスキルブックにしてしまえる、というものであったのだが……条件が厳しかった上に、和樹の周囲に居た仲間というのは基本的にトッププレイヤーと呼ばれるような者達であった。
折角覚えたはいいものの、今まで使う機会などはなく、本来であれば重宝されるはずがほぼ死にスキルとなっていたのである。
今も躊躇なく使用したのは、主にそういった理由からだ。
他のプレイヤーであれば間違いなく驚き逆に戸惑うようなことなのだが、生憎と本人にその自覚はないのであった。
まあ他に気になることがあったから、というのも理由の一つではあったが。
「むしろ問題があるとするなら、これで本当にスキルを覚えられるのか、っていうことだな。一応作れはしたが、アイテム画面が使えなくなってたことから考えると、微妙なところなんだよなぁ」
「確かに、システム系は分かるんですが、何故かアイテム系まで使えなくなっていましたね。……まあ、とりあえず試してみるしかないのではないでしょうか? それを本当に私が使っていいのかとなると、少し恐れ多くはあるのですが」
「いや、何でだよ。というか、そもそもこれは雪姫の為に作ったもんだしな。むしろ使ってもらわないと困る」
「いえ、その……むぅ。……はぁ、分かりました。ありがたく使わせてもらいます」
「そうしてくれ。まあさっきも言った通り、これで覚えられるのかは分からないんだけどな」
「覚えられなかったら、私はかなり困ることになってしまいますけどね。実質私だけではこの世界で生きていくことが出来なくなる、ということですし」
「言葉が分からないってのはかなり厳しいからな……下手すりゃジェスチャーとかも通じるかは分からないし。その時は……まあ、アレだ。頑張って覚えるしかないんじゃないか? 俺が確実に翻訳出来るんだから、覚えるのもそれなりに早いだろうし」
「いえ、あくまでも私一人だったら困る、というだけですし、一生和樹さんの奴隷をやっていればいいだけなので、特に問題はありません」
「問題しかねえだろ」
まあ何にせよそれは、これからどうなるのか次第である。
即座に問題が発生するようなことがあれば、事前に話し合っておくことにも意味はあるだろうが、別にそういうわけでもないのだ。
確かに言葉が通じないのは問題ではあるが、どうせしばらくは和樹が共に行動しなければならなくなるのである。
ならば実際にどうなるのか確認してからでも、遅くはないはずだった。
「ところで私、スキルブックという存在は知っているんですが、使ったことがないので使用方法が分からないのですが……」
雪姫はそう言いながら、受け取ったスキルブックの中身を確認しつつ首を傾げている。
まあ、分からないのも無理ないことだろう。
スキルブックは確かに本の形をしているが、実際に読むことでスキルを覚えるわけではない。
一応そのスキルの概要などが書かれてはいるのだが、フレーバー以上の意味はないのである。
ではどうやってそれでスキルを覚えるのかというと――
「基本的に使い方は魔導書と同じなんだが……そっちも使ったことない感じか?」
「そうですね……スキルブックも魔導書も見たことはあるんですが、使ったことはないです。マジックスキルは使えますが、それを覚えたのは別口ですし」
「そうか。まあ、使い方は簡単だ。それを持ちながら、セットって言葉と、その後にスキル名を唱えるだけでいい。今回なら、翻訳、だな」
「えっと……こう、ですか? ――セット:翻訳」
雪姫が言葉を紡いだ瞬間、その手に持っていたスキルブックが、淡い光を放ち始めた。
独りでにその表紙が開かれると、自動的に次々とそのページが捲くれていく。
「わっ、と……あ、あの、これでいいんですか?」
「ああ、それで問題ない。それでページが全部捲くれ終われば、スキル取得完了だ。ちゃんと効果があれば、だが……まあ、発動したってことは、多分大丈夫だろう」
「ふむふむ……なるほど、確かに簡単でしたね。……ところで、これってどれぐらいで捲くれ終わるんでしょうか?」
「そうだな、その時間はスキルによって変わってくるんだが……翻訳の場合は、一週間だ」
「……はい?」
「百四十四時間だ」
「いえ、意味が分からなかったわけではないので、時間に直さなくても大丈夫です。えっと……冗談、ですよね?」
「冗談ならよかったんだけどな……」
生憎とそれは事実であった。
他のスキルであれば基本的に一瞬で終わるのに、何故か翻訳だけは無駄に時間がかかるのだ。
全ての言語に対応するためのそれだけの時間が必要なんじゃないか、などと言われてもいたが、真実は不明のままである。
ただ、それだけの時間が必要だということだけは、確かなことだ。
「え、つまり、私はそれまでこれをずっと持っていなければならない、ということですか? ……なるほど。つまり私は今和樹さんの奴隷ですが、その間は逆に私が和樹さんに何から何までお世話になればいい、ということですか」
「全然違うな。というか、普通に手を話せるからな?」
「あ、本当です」
雪姫がスキルブックから手を離すと、自然と発光は収まり、ページが捲くられることもなくなった。
そこにあるのはただの、読みかけの本である。
「で、触れればまた再開する」
「なるほど……」
「要するに、合計百四十四時間それに触ってればいい、ってことだな。基本的には皆寝る時に持つようにしてるから、大体一ヶ月程度で覚えることが出来ることになる」
「寝てる時って……邪魔じゃないですか? 今ログアウトとか出来ないんですし」
「いや、実際に試してたやつもいるし、多分いけるんじゃないか?」
「……確かに、ページが捲くれている割に音はしていないようですから、あまり支障はなさそうですが。問題は、寝ている最中に手を離してしまわないか、ということですね」
「そこら辺は、気長にやるしかないだろ。まあ、心配すんな。一応それが終わるまでは、俺が責任を持って手伝ってやるし」
「なるほど……つまり、少なくとも翻訳スキルを覚えるまでは、私は和樹さんの奴隷のまま、と」
「そこは、な……不本意かもしれないが、そうじゃないと色々と不都合が出てくるだろうしなぁ」
奴隷として買ったr……そういうことになった雪姫ではあるが、和樹はそのうち解放するつもりであった。
まあ、当たり前だ。
それほど歳の離れていないような同郷の少女を、無理やり侍らせるような趣味はないのである。
「いえ、そこは別に問題ないと言いますか……要するに私が翻訳スキルを覚えるのに百年ほどかけてしまえば、ほぼ一生和樹さんの奴隷であることと同義になるわけですね?」
「意味の分からんことを企もうとしないで、素直に覚えろ。……まあ、不安なのは分かるし、既に言ったことはであるが、奴隷として買った以上はその分の責任は取る。だから、安心しろ……とまでは言えないが……まあ、少しは頼ってくれ」
「……むぅ。まあ、分かりました。今はそれで我慢して、一先ずよしとしておきます」
何やら微妙な感じではあるが、一応納得はしてくれたらしい。
色々と大変そうではあるが、そこは頑張るしかないのだろう。
「ま、さすがに何もしなくていいとは言えないから、何かしらこっちの手伝いもしてもらうことにはなるだろうけどな」
「奴隷なのですから、それは当然ですが……というか、そもそも何かを求めて私を、というか、奴隷を買ったのではないんですか?」
「いや、確かに奴隷を買おうかと一時考えてたのは事実だが、雪姫を買ったというか、受け取ったというか……まあそんなことになったのは、半ば勢いみたいなもんだしな」
「勢い、ですか……ですが、奴隷を買おうと思っていたということは、何かしらやって欲しいことがあったんですよね?」
「……まあ、一応な。俺も一人で何でも出来るわけじゃない……というか、出来ないことの方が多いから、奴隷を買って手伝ってもらえたらと思ったんだが」
「ふむふむ……では、その役目は私が担いましょうか?」
「……いいのか?」
「今の私は奴隷なんですから、むしろ当然です。まあ、それが私に出来ることならば、ですが……」
「さすがに出来ないことを無理強いしたりはしないさ。意味ないしな」
そもそも手伝ってもらいたかったことというのは、今更言うまでもなく、料理のことである。
料理の出来ない者に料理を強制したところで、どう考えても悲劇しか巻き起こらないだろう。
和樹は自分の舌に合うものが食べたいのであって、トラブルに巻き込まれたいのでも、引き起こしたいわけでもないのだ。
「それで、何を望んでいたんですか?」
「一応料理なんだが……」
「ふむふむ、なるほど……それは性的な意味で、ですよね? 分かりました、頑張ります」
「頑張んな。というか、そのまんまの意味で捉えろ。余計な解釈はいらん」
「え、だって奴隷ですよ? 奴隷相手に求めるものといったら……やっぱり、そういうことなんじゃないんですか?」
「俺達の知ってる奴隷とはちょっと違うって話はしただろうが」
「されましたけど、あれは建前じゃないんですか?」
「また答えにくいことを……そういう人もいないとは言わないが、少なくとも俺にとっては本音だ」
「では、本当にただ料理が出来る人を求めてる、と?」
「そうだ」
「そうですか……がっかりです」
「それはこっちの台詞だ。……で、結局料理は出来るのか?」
「そうですね、人並み程度には出来るとは思いますが……ちょっと媚薬入りの料理は作ったことがないので、上手く出来るのかは自信がないですね」
「何で後半の言葉を付け足した? いらないよな?」
何やら既にお約束と化しつつある斜め上への脱線を繰り広げながらも、とりあえず雪姫には料理をお願いすることとなった。
若干の不安があるのは否定できないが……まあ、そこは信用するしかないだろう。
駄目そうだったらば、その時に次の手段を考えればいい。
「というか、奴隷に作らせなければならないほど、この世界の料理って駄目なんですか?」
「駄目というか、舌に合わない、って感じなんだが……まあ、うん、そうだな。実際に食べてみた方が早いか」
「……いいんですか?」
「半年も食べてたんだ。あと一回ぐらいその回数が増えたところで変わらんだろう。認識の共有ってのは大事だしな」
「そしてそのままお持ち帰り、ということですね?」
「お持ち帰りも何も帰って来るところは同じだろうが。ところで、商館の方でも食事は出てたんだろ? それでどんなものかは分からなかったのか?」
「確かに出たは出たんですが……味のほとんどしない上に具もほとんどないスープに、固いパンだけでしたから。ちょっと判断材料にはならないかと思いまして」
「それは確かにならなそうだな……というか、そんなのしか出なかったのか」
「ものはともかくとして、量は問題ない程度にはありましたから、何とも言えないところですね」
「ふむ……」
和樹はこの世界で半年ほど過ごしているとはいえ、それは冒険者として、だ。
この世界の一般人がどんな生活をしているのかなどは、まるで知らないのである。
だからそれで丁重に扱われているのだと言われてしまえば、そうなのかと頷くしかないのだ。
まあそこで嘘を吐く理由もないので、それで本当に丁重に扱っていたのだろう。
この世界の一般人の生活というものが少し気になってくるような話だが……今は関係のない話である。
「まあ、とりあえずそういうことなら、見た目はそれなりのところに行くとするかね。味をどう感じるかまでは保障出来んが」
「その口直しに私を、ということですね?」
「はいはい、言ってろ」
そんなやり取りをしながら、一先ず食事をするために、外へと出掛けるのであった。