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隷属の少女

 ――さて、どうしたものか。


 ギルドを後にした和樹は、溜息を吐き出しながら、何となく空を見上げた。

 途方に暮れているというほどではないが、困惑ならば十分過ぎるほどにしている。

 その理由が何であるかは……まあ、言うまでもないだろう。


「あ、あの……」


 そんなことを考えていると、不意に声を掛けられた。

 振り向けば、視線の先には一人の少女が居る。

 それが誰であるのかも……やはり言う必要はないだろう。

 この度目出度く自らの奴隷となった少女のことを眺めながら、和樹は再度溜息を吐き出した。


「あの馬鹿のことを殴るんなら付き合うが、どうする?」

「え? え、っと……」

「ああ、いや、悪い。さすがに唐突過ぎるか……」


 どうやら未だに自分も混乱しているようであると自己分析をしながら、もう一度溜息を吐き出す。

 まったく以って、どうしてこんなことになったのやらという感じであるが、言ったところで仕方のない話でもあった。


 だが同時に、仕方ないで済ませてしまっていい話でもない。

 事実は事実として受け止めた上で、きちんとそれに向き合う必要があるのだ。


 まあ要するに、これから彼女をどう扱うかという、そういう話であるのだが。


「とはいえさて、本当にどうしたものか」


 口の中だけで呟いた言葉は、今の和樹の心境そのものだ。

 どうすればいいのかなど、皆目検討も付かない。

 それは先ほどギルドで色々なことを聞き、話し合ったところで、どうにか出来るものではないのである。


 端的に結論を述べてしまうならば、彼女は和樹と同じ世界の人間だ。

 そして彼女もまた、この世界に来てしまう直前まで和樹と同じゲームをプレイしている。


 まあもっとも、そんなことは彼女の姿を見た時点で分かりきっていたことではあるのだが。

 だがそれを彼女自身の口から聞けたということは意味のあることであるし、彼女がどういった状況でこの世界に来てしまったのかを聞けたこともまた意味のあることだろう。


 それを簡単に説明してしまうと、どうやら彼女は友達と一緒にあのゲームで遊んでいたらしい。

 その途中で突然謎の光に包まれ、気付いたらこの世界にいたとのことである。


 友達とは一緒にこの世界に来てしまったが、今共に居ないのはその後魔物の襲撃に遭い別々の方角に逃げることになってしまったから、ということらしい。

 夢中で逃げていたのだが、途中で親切そうな人に会い……しかし気が付けば、奴隷商会へと連れて行かれてしまった、ということのようだ。

 そうして何も分からないままに時間が過ぎ、この世界の言葉が分からない彼女を買おうとする者が現れる事もなく、やがてギルドに買われる事になった、ということであった。

 厳密にはそこからさらに和樹の元へと流れてくることになったわけだが、そこはいいだろう。


 ちなみに彼女がこの世界にいつやってきてしまったのかについては、本人はよく分からないとのことだが、ほぼ一月前とのことである。

 和樹がこの世界にやってきてしまったのが半年前だということを考えれば、随分と時間の差があるが、まあそんなこともあるだろう。


 ともあれ、そんな話を聞きだしながら、最終的に彼女の主となることに同意したわけではあるが、正直丸め込まれたというか嵌められた感があるのは否めない。

 しかし過程がどうあれ、自分の意思で決定したことであるならば、そこに異を唱えるのは筋違いだ。

 和樹としてはきちんと責任は取るつもりではあるし……だがそれは、全てを上手く出来るというわけではないのである。


 まあ要するにそれは、結局のところ何をしたらいいのか分からない、ということなのであるが。

 正確に言うならば、何からしたらいいのか分からない、というべきかもしれないが……大差はあるまい。


 何せ彼女に伝えなくてはならないこと、教えなくてはならないことは山ほどある。

 現在彼女に教えてあることは、最低限のことのみ――即ち、ここが異世界であることと、自分が彼女の主になるということだけだ。

 その他のことを教え納得させるのはこれからの和樹の仕事である。


 ただ、その二つのことに関して、すんなりと納得してくれたのは正直有り難かったところだ。

 まあ魔物に襲われた上に、奴隷商会で一月もの間過ごしていたのである。

 奴隷商会という字面からすると扱いがアレだったようにも思えるものの、サティアによれば別にそんなことはないらしく、むしろ丁重に扱われていたとのことだが、それでもだからこそやることなどはなかっただろう。

 考える時間だけが無駄にあったということを考えれば、ここが異世界であることなどは今更のことだったのかもしれない。


 もっとも、自身が奴隷であることや和樹が主となったことに関してどう思っているのかについては、よく分からないというのが本音だ。

 困惑はしていても、受け入れ納得しているように見えるが、それが本心からのものなのかどうかは分からない。

 まあそこら辺も含め、今後やらなければならないこと、といったところだろう。

 ともあれ。


「さて、と……」


 今度は明確に、しっかりと声に出して呟いた。

 その声に反応し視線を向けてくる少女に気付かれぬよう、小さく息を吐き出す。

 いつまでもグダグダと考えていたところで、何が解決するわけでもない。

 分からないなら分からないなりに、行動していくしかないのだ。


 というわけで――


「とりあえず宿に行こうと思ってるが、その前に何かしたいこととかあるか?」


 何にせよ、色々な話し合いが必要であることは間違いない。

 少女は知らないことが沢山あり、和樹も少女について知らないことばかりだ。

 一先ずは相互理解が必要ではあるが、それはそこら辺で片手間に行なうようなことではない。

 宿に戻り腰をすえ、じっくりと話し合うのが一番だろう。


 だがそれはある意味で、和樹のみの都合だ。

 勿論彼女にも意味のあることだが、それが今の彼女の一番の望みとは限らない。

 和樹が尋ねたのは、その前に何かやりたいことはないかと、そういうことであった。


 曖昧な言い方にしたのは、何処に行きたいかなどと問われても、そもそも何があるのかすら分かってはいないだろうからだ。

 これならば、答えるのは容易なはずである。


 もっとも、本来ならば和樹が気を利かせるべきなのかもしれないが、彼女が具体的にどんな扱いをされていたのかを知らないのだから仕方がないだろう。

 丁重に扱われていたとは言っても、それが彼女が望んだ通りのものであり、心が休まるものであったのかなどは分からない。

 今何を欲しているのかなどは、口にしてもらえないと分かりようがないのだ。


 まあ何となくならば察しは付くが、これは同時に彼女と円満なコミュニケーションを取るための手段の一つでもある。

 望みを聞き、それを叶えれば……少なくとも、自分は敵ではないのだと伝えることは出来るだろう。


 そんなことを思いながら、和樹は少女の言葉を待つ。

 この状況でまず望むものは何かということを、考えながら。


 例えば、まずは疲れたから休みたいとか、腹が減ったから何か食べたいとか、或いは――


「遠慮する必要はないぞ。本当に、思ったままのことを言ってくれていい」

「あ……えっと、そうですね。では……出来れば、お風呂に入りたい、ですね」


 少女の返答に和樹は頷く。

 まあそうだろうなと、そう思いながら。


 その思考に従うように、少女へと視線を落とし、改めてその姿を眺める。

 最も目に付いたのは、やはりその首に嵌められている首輪であるが……その直後に眉根を寄せてしまったのは、反射的なものであったものの、だからこそ、素直な感想だったとも言えただろう。


 その理由は、先の少女の台詞通りだ。

 端的且つ誤解を恐れずに言うならば、彼女は汚かったのである。

 それも文字通りの意味で、だ。


 匂いこそ漂ってはこないものの、これ三日ぐらい洗ってないんじゃないだろうかなどと思ってしまう程度には服が汚れており、髪の毛などもガビガビだ。

 一応見えている範囲の肌に汚れはないが、おそらくは毎日身体を拭く程度のことしかしなかったのだろう。


 とはいえ彼女は商会で丁重に扱われていたはずである。

 それは嘘だったのかというと、そういうわけではなく――


「風呂、か……」


 和樹が即答しなかったのは、その理由を知っていたからであった。

 風呂に入ることを、即ち、綺麗になることを、今彼女が望んでいる、ということを理解していながらも、だ。

 だから厳密には、即答することは出来なかったと、そういうべきだろうか。


 ふむと視線を僅かに落とすと、和樹は思考を巡らす。

 それは単純に、それをどうしたものかと考えるためのものであったのだが……どうにも少女は少し違う方向に考えたらしい。


「あ、すみません……もしかして、この世界にお風呂って存在していないんでしょうか?」

「ん? ああ、いや、別にそういうわけじゃないんだが……何と言ったもんか」


 結論を先に述べてしまうならば、この世界にもきちんと風呂というものは存在している。

 だが風呂に入ることが習慣として根ざしているかどうかは、また別の話なのだ。


 この世界の文化が中世ヨーロッパのそれに酷似していること、それでも汚物が空を舞うことはない、などということは既に述べた通りだが、実際のところ、衛生環境的な意味ではその頃よりは多少マシ、というところである。

 体臭を隠すための香水は広まっていないが、風呂に毎日入るというような習慣はないし、そもそも各家庭に風呂などは常設されていない。

 当たり前のように宿にも存在はしておらず、その事実を初めて知った時、和樹は常識の違いに愕然としたものだ。


 もっとも、常設されている家庭や宿も存在してはいるわけだが……そういうのは、所謂上流階級の人間の持つ屋敷であったり、高級宿であったりと、普通ではないところである。

 大抵の者は基本身体を拭くだけであり、洗濯も三日に一度もやれば綺麗好きと言われるほどなのだ。

 つまり少女の格好は、これでもこの世界では丁重に扱われている方なのである。


 ちなみに和樹が現在泊まっている宿が高級なそれか否かは、わざわざ言うまでもないだろう。

 当然のように風呂などというものはない。


 もっとも、では和樹は毎日身体を拭くだけで我慢しているのかというと、そういうわけでもない。

 この世界の住人は基本身体を拭くだけで済ませるが、どうしたってそれでは済まないことや、そうでなくともそのうち匂い等が出てしまう。

 そうした時にはどうするのかと言うと、普通に風呂に入るのだ。

 あくまでも毎日風呂に入る文化がないというだけであり、風呂が存在している以上は、当たり前のように風呂に入るという文化そのものは存在しているのである。


 尚、どうやって、という問いには、単純明快な答えがある。

 各家庭に風呂はないが、公営の風呂が存在しているのだ。

 決して安くはないが、高くもない値段を支払うことで、誰でも風呂に入ることが出来るのである。


 つまりこの少女でも入ることが出来るし、その望みを叶える事も出来るのだが……一つだけ問題があった。


「うーむ……一人で大丈夫か?」

「……それはもしかして、私を馬鹿にしているんでしょうか? 一人でお風呂に入れるとは思わない、ということですか?」


 少し険しい表情をしているのは、言葉の通り馬鹿にされたと思ったからだろう。

 だが別に和樹は、そういうつもりで言ったわけではない。


「ああいや、別にそういうわけじゃないんだが……俺以外に言葉通じないだろ? 何かあった時、大丈夫か?」

「うっ、それはそうですが……お風呂に入るだけなんですから、問題なんて……」


 起こらない、とは言わないことに、逆に和樹は若干の安堵を覚えた。

 それは現状をある程度正確に把握できているということと、無駄に意地を張らないということを意味しているからだ。


 そもそもこの世界は、改めて言うまでもないことではあるが、異世界である。

 要するに、文化的な意味でも自分達の知っているそれとはまったく異なるのだ。

 何が正解であるかが分からず、しかも言葉が通じない。

 それで問題が起こらないなど、どうして言えるのか。

 まあ絶対起こるとも言えないわけだが、少なくとも起こる可能性を否定できない程度には存在しているだろう。


「……というか、あなたはお風呂に入ったことがあるんですよね? でしたら、問題が起こるとすればどんなことなのか、分かるのではないでしょうか? それを気をつければ……」

「いや、生憎だけど、風呂にはよく入るが、基本カラスの行水だからな。特に変わった作法ともないように見えたが、分からなかっただけの可能性もあるし、男だからって可能性もある。何しろ周りの人達も大体そんな感じだったからな」


 数日に一度という頻度からも分かる通り、この世界で入浴という行為は、溜まった汚れを落とすという以上の意味合いはないのである。

 和樹達が元居た世界ですらそういった者は珍しくもなかったのだ。

 入浴というものが習慣づいていないこの世界ならば、そうなるのも道理というものだろう。


 もっともそれはあくまでも男にとっての入浴であり、女性にとってどういう扱いになっているのかは、さすがに和樹には分からない。


「……そうですか」

「まあ一緒に入れば、そういった懸念もなくなるわけだが……」

「そ、それはっ……!」

「ま、冗談だ。そもそも施設がないからな。やろうと思っても無理だ」


 生憎とこの世界……少なくともこの街には、混浴というものは存在しないのだ。

 まあ仮に存在していたとしても、色々な意味で結局共に入ることは出来なかっただろうが……何にせよ、さてどうしたものやら、というところである。


「ふーむ……まあ、言葉に関してはどうにか出来る算段は付いてるんだが……」

「……え、本当ですか? でしたら、それを先にしてもらえましたら……別に、何が何でも真っ先にお風呂に入りたい、というわけではないですし」

「いや、算段は付いてても、すぐに実行できるかは別でな。というか、無理だろう。一ヶ月……どれだけ頑張ったところで、一週間は必要だろうな。その間風呂に入らなくても良いって言うんならそれでもいいんだが……」

「そ、それはさすがに……」

「だよなぁ。となると……」


 取れる手段は限られてくる。

 というか、二つに一つだろう。

 問題が起こるかもしれない可能性に目を瞑り、一人で送り出すか――


「……ま、素直に風呂付きの宿を借りるのが現実的かね」


 つまりは高級な宿に泊まるということだ。

 当然それなりの金額が吹っ飛んでいくことになるが、背に腹は変えられまい。

 宿を移動することにもなるが、元より大した荷物などはないため、そちらは問題ないだろう。


「えっと、お風呂ってこの世界では一般的ではないんですよね? では、それが付いている宿というのは、高いのでは……?」

「確かに多少高くはあるが……まあ、問題はない」


 そもそも和樹が泊まっていた宿は、一人用とすら言うのが憚れるようなそれであった。

 どっちにしろ移動の必要があったのである。


 もう一人分の部屋を借りればいい、というのは無理だ。

 部屋的には空いているだろうが、そういう問題ではない。

 あそこを他人に勧めるのは無理、という話でもなく、これは彼女が奴隷であり、和樹がその主であることから発生する問題である。


 端的に言ってしまえば、宿に泊まる場合、奴隷と主人は別々の部屋に泊まってはいけないのだ。

 それには色々な理由があるらしいが……まあ、そう決まっている以上は、どうしようもない。


 もっとも、であるならば、別に高級な宿ではなく、普通の宿で二人部屋を探せばいいだけのことではあるのだが、それも今更の話である。

 それでは風呂の問題が解決しないし……それに、金がかかるというのであれば、それだけ稼げばいいだけなのだ。


 勿論今までと同じことをしていたのでは無理だが、目処は付いている。

 明日サティアと相談することになるが、おそらく問題はないだろう。

 ともあれ。


「とりあえず先に俺が今泊まってる宿に戻って、荷物を回収。それから次の宿に行く、って感じで考えてるが、何か問題はあるか?」

「……いえ、ありません」

「よし。じゃあ、そういうことで、行くか」

「……はい」


 少女が頷くのを確認し、止めていた歩みを再開させる。

 そうして、自身の泊まっている――いや、泊まっていた宿へと、二人で向かうのであった。

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