第四章 ジェルバニス・ラスプーチン
少女は、どこにでもいる孤児であった。
親に捨てられ、孤児院で虐待を受け……他の者と同じように下水道に住み、各家にめぐらされている温水パイプをベッドにして眠り、凍った野菜を食み腐りかけの肉を食らい、大人から逃げる。
どこにでもある光景、ロシアのどこでも見ることが出来る光景。
しかし、彼女が唯一違ったことは、そんな彼女に少年が恋心を抱いたことだろう。
彼女は親を愛していた、自分が良い子になれば、親は自分を許してくれるとずっと信じていた。
そんな彼女を少年は信じた。 彼女の言葉を、彼女が幸せになる未来を。
ずっとずっと信じて……そして裏切られた。
親に会いに行った少女には新しい息子がいた。
少女に気付いた母親は、今の幸せを守るため、彼女を殺そうとした。
そのとき、―――という少女は死んだ。
命はつむぐことは出来たが……
何もかもを失い、彼女は過去を失った。 記憶も何もかも……
少年は彼女の兄になった。
自分の心を殺して。
それが、彼女を守ることが出来なかった自分にできる唯一の贖罪だと信じて。
◆
12月5日 ロシア ゴルディノヤスク
「……」
目を覚ますとそこは教会。
町のはずれにある小さなこの教会は、あちこちが痛み、町の人間は一人として寄り付こうとしない。
本当に忘れられた場所であり、隠れるにはうってつけの場所だった。
天井に飾られた聖書の絵はまるで、祝福するかのように俺の身を囲み、
ゆらゆらと揺れるその蝋燭は淡くさびれた教会を映し出し、幻想的な風景を描き上げている。
きっと、最後の晩餐の日の夜も……こんな夜だったのだろう。
明日。すべてが終わる。
俺は雪月花の遺産を手中に収め、そして、虐げられし者を救う。
一体の人形を犠牲にして……俺は子供たちの未来を紡ぐ。
もしくは敗北し……ロシアの地に永遠に眠り、主の元へ帰るだろう。
ジェルバニスはいつもどおり、半ば形式的となった朝の礼拝を行うため
神の像の前へと歩み祈りを捧げる。
いつもなら何も思わず、数秒頭をたれるだけの行為であったが……その日だけは、神へと質問を投げかけた。
「主よ……お答えください」
……一つだけ心残りがある。
「私の道は……本当にこれで正しいのでしょうか?」
頭に残るのは、一人の少女。俺を兄としたう一人の少女の存在。
俺は本当は……本当は最後まで守りたい人がいる。一生をかけて幸せにしなきゃいけない人がいる。
「アーシャを……私は幸せにできたのでしょうか?」
それは……。
あの時の涙が忘れられないから。
俺に刃を突き立てた彼女の涙が……今も俺の中で渦巻いているから。
愛を知らず。
愛に飢え。
愛に涙したアーシャが、瞼を閉じればそこにいるから。
そうさ……俺が子供たちの為に戦うのは。アーシャを救えなかった自分を戒めるため。
俺が刃をふるう理由は、銀色に染まった時からたった一つ。
アーシャの為……アーシャを守るために、アーシャのような子供を二度と生み出さないため。
俺は神に祈ることをやめて、狼になった。
「主よ……彼女は、幸せだったでしょうか……。人生を取り戻せたのでしょうか」
彼女が記憶を取り戻した時、その悲しみを超えるだけの幸福と愛情を……俺は彼女に与えられたのだろうか。
兄と妹としてではなく……一人の女性として。俺はアナスタシアを愛せただろうか。
それは今の段階では分からないことだと分かっていた。
だけど……唯一つだけ分かることがある。
「主よ……私のようなものでも……たった一つだけの祈りを聞いていただけるでしょうか。狼にも、あなたは慈悲を捧げていただけるでしょうか?もし祈りが届くのならば」
俺は、アーシャを愛している。
分かることはそれだけ。
この気持ち一つ抱いて……俺は一人決戦に挑もう。
アーシャの人生も、アーシャに対する責任も放棄することになるかもしれないが。
神に祈ることを忘れ、銀狼になった神父には……ただ守る者の為に牙をむくことしか許されないのだから。
「アナスタシアに、幸限りなく降り注がんことを……」
ジェルバニスの祈りに呼応するかのように鳴り響く鐘……。
それは澄み切った音でありながらどこか残酷で、町を越え、雪月花の森にまでその音を響かせる。
正しさのみの救い無き闘争。
それがこの物語なのだと誇示するがごとく。
ジェルバニスは呟く。
彼女を失ってから一度も代わることの無かった……己を形成する言葉を。
「求めよ、さらば与えられん。
探せよ、さらば見つからん。
叩けよ、さらば開かれん。
ならば私は求めよう、パンを求める子供に、小石を与えることのない世界を。
ならば私は探そう、心清く幸いな人々が報われる世界を。
ならば私は叩こう。 虐げられし者が、未来を掴むことが出来る狭き門を」
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