第四章 メイハード
雪月花村から車を走らせること2時間。針葉樹の面影さえも残らない人工物のみで構成されたここ、ゴルディノヤスクはロシアの町の中でも、雪月花を除けばもっとも北にあると言われる街であり、村のようなのどかさは存在せず、車や自転車が行き交いビルが並ぶこの町は、思えば久しぶりの発展した町である。
もちろんモスクワとまではいかないが、雪月花村に比べればマーケットもあれば移動手段である列車も存在し、先ほど桜が話したように町の中心部にはセンタービルが建てられている。
「うわー!?すごーい!」
白い息を吐きながら、桜は辺りをぐるぐると見回している。
彼女にしてみれば初めての自由だ。はしゃぐ姿と幸せそうな笑顔を見ると、こちらも連れてきてよかったと改めて実感する。
「不知火さん不知火さん」
と、不意にジハードに肩を叩いてそっと俺に耳打ちをする。
「さぁ、不知火さんここが男の見せ所ですよ。しっかりとエスコートして彼女のハートをキャッチです!」
「……お前らみたいな人種は、女と二人きりの時はいつもそんなことしか考えないのか?」
「いえいえ、そんな見境なしの狼みたいに言わないで下さいよ。八十代過ぎたらアウトですって」
「……本部に頼んでチェンジしてもらうか」
「え!?ちょ……」
「シンくーん!何してんのー!」
「あぁ、今行く」
「ねぇ、チェンジって冗談ですよね?」
「冗談は苦手だ」
「マジでか……ジューダスさんに報告されるのはきついっすよ」
「ん……?」
顔を蒼くするジハードを捨て置き、桜の元へと小走りに駆けていく。
「なに話してたの?」
「ん?ああ、お姫様の暴走に注意しろだそうだ」
「あ!ひっどーい!私そんな子供じゃないですよ―だ!」
「どうだかな」
子供の様に歯をむき出しにして起こる桜に肩をすくませ、第一目的地である中央映画館へと歩を進める。
「あ、ちょっとシンくん!」
と、桜はいきなり俺の手を掴む。 ひんやりとした感触が俺の走り、まるで雪でも握っているかのような感覚が俺の手のひらに広がっていく。
「あったか~い」
「な……なんだこれは?」
「えへへ♪ 手袋忘れちゃった……駄目かな?」
いたずらっぽく舌を出す桜に、もちろんのことこの手を離す気はさらさらないらしい。
「……好きにしろ。確かにこれなら迷子になる心配はないな」
「あぁ!また子ども扱いして!一応同い年なんだよ私たち」
「別に子ども扱いなんてしてない」
「いいやしてる!その態度は絶対してる」
「はいはい……悪かったよ」
まったく……本当に世話の焼けるお姫さまだ。
「ふえ~」
車を止めていた細い道から、大通りへと近づくにつれて、道幅にあわせて人の数、そして車の数が段々と増えていき、大通りに出るときには既に雪月花村とは異次元の世界が広がっていた。
建物は雪月花村のような低い千差万別な建物ではなく、どれもこれも似通った真四角のコンクリートの塊のような建物が整列をするように道路に沿って立ち並び、裏を覗けば、その背の高い建物に隠れるように発展の煽りを受けて廃墟となった建物など衰えてしまった場所の姿がまだ残っている。
こういったところがまだ都市になりきれていない点なのだろうと俺は一人納得し、そんな事気付くよしもない桜の手を引く。
他の町とつながっているこの道路は、しきりに止まることなく車が行き交っている。
日本の東京で見られる通勤ラッシュとまではいかないが、朝と言うことで似たような光景が広がっており、俺達は人の流れに逆らうように手をつないだまま中央道路の歩道を歩く。
流石は大陸の人々と言うだけあってか、行きかう人はみな俺よりも背が高い人間ばかりであり、ただでさえ小柄な桜はすっかりと埋もれてしまっている。
「うわ、すごい人の数……」
桜はまるで、初めて都会に触れたかのように、新鮮な驚嘆の言葉を漏らしてながら、行き交う人の顔や服装をもの珍しそうに見回してはうれしそうに目を輝かせる。
「初めて来たわけじゃないだろ?」
「うん、そうなんだけど、前来た時は石田に肩車してもらってたから」
石田さんなら今の桜でも肩車をしてしまいそうだが……。まぁ常識的に考えて桜がこの町を最後に訪れたのは少なくとも十年は前だろう。
そりゃ十年もすれば町の様相は様変わりするし、子供のころに来たのならほとんど記憶はないか。
辺りを見回す桜の表情は晴れ渡っており、今まで見せた笑顔とは比べ物にならない程明るく、初めて桜の笑顔を見たような気がする。
「桜……もうすぐ映画館につく」
「本当?」
「あぁ、あのでっかい看板が立っている建物見えるか?センタービルの隣に建ってるやつ」
「見える見える。うわ~……やっと見れるんだ、メイハード。今アメリカと日本で大人気の映画なんだよ♪」
「ふ~ん」
桜が力説するのだから、その言葉の通りかなり面白い作品なのだろう……。
考えてみれば、俺は映画というものを見たことがない。
メイハードという映画は聞いたこともない作品であったが、桜の様子を見ていると
こちらも初めての映画と言うことでその映画はアカデミー賞候補作品間違いない感動作品を見に行くような大きな期待を抱いてしまう。
自分でもこんなに浮かれているのはどうかとも思うが、それでも好奇心には勝つことは出来ず、どんな映画なのかを俺は桜に気付かれないように一人想像をし、桜の手を引きながら期待を膨らませていた。
「さすがに、平日と言うだけあって映画館に人はいないな」
映画館は大通りとは違い閑散としており、映画宣伝の看板が、大きく張り出されてあった。
まぁ、題名がすべてロシア語表記だから、よくわからないんだが……。
「ところで桜、お前の言うメイハードってどれだ?」
「えっとね~……右端から三番目」
「三番目ね……ん?」
右から三番目、よく見るとほかの看板よりも一回り大きく張り出された巨大な看板。
なるほど、日本とアメリカで大人気なハリウッド作品と言うのは本当のようだ。
だが問題は……… その映画のタイトルの真上に メイド服を着たおっさんの姿が大きく描かれていることだ。
「桜……本当にあれか?」
「うん、メイドのハードボイルド! 略してメイハード!」
……マジかよ……メイハードってそういう意味だったのか。
これから本当にこれを俺達は見るのか?そして桜はそういう趣味だったのか……。
「ほら、早く入ろ♪ もうすぐ始まっちゃうよ?」
満面の笑みで笑う桜は、俺の戸惑う表情をお構いなしに、俺を引きずって映画館の中へと引きずり込んでいった。
拒否権?そんなものなかったよ。
◆
どうしよう……面白かった。
映画館を抜け、俺は桜とともに人通りが少なくなった中央道路へと出る。
ずっと座っていたせいか、どこか体が固まったような感覚がする。それにしても長い映画だった。
「いや~楽しかったね~♪特にジョナサンが逃げ切ったって安心した敵に言ったあの一言!」
「そいつは良かった、俺もお前と同じこと言おうとしてた所だ……だろ?」
「そうそう!!」
どうやら桜はご満悦のようで、俺も興奮の熱が冷めないまま大通りを一緒に歩く。
映画が終了したお昼には、朝のような騒がしさは鳴りを潜め、道を歩く人の数もまばらであったため手をつなぐ必要はなかったわけだが……桜が離そうとしないのでそのままにしている。
「ねぇねぇシンくん♪次どこ行くの?」
「そうだな、十一時だし、ちょっと早いが昼食にするか?」
「あ、それなら私いいところ知ってるよ?」
「そうなのか?」
「うん♪ ちょうどここからも近いし!味もお父さんと石田のお墨付きなんだから!」
ふむ、石田さんのお墨付きならば、間違いはないだろう。
「わかった、じゃあ昼はそこで食べるとしよう」
「やった♪ じゃあこっちこっち。うわ~十年ぶりか~おじさん私の事覚えてるかな~」
桜に手を引かれ、中央通りから少し外れた場所にあった路地を通り、たどり着いたのは小さなレストラン。看板にはひらがなで~さんぽみち~と書かれており、桜は迷いなくその扉を開ける。
高級そうではない小さなドアは高く静かな音を鳴らして来店を告げて、俺達を中に迎え入れる。
まだ十一時と言うこともあってか、客は数人しかいない。
一見すると古びたカフェといった様子であるが、その代わりに安心感を植え付ける木の色と、気取らない装飾によって、なぜか初めて来た場所なのに心が落ち着いていく。
庶民の憩いの場と言う言葉を形にしたようなところだ。
「いらっしゃい……とこりゃ驚いたな、桜ちゃんかい?」
中から顔を出した鉢巻をした男性は、一目で桜のことが分かったらしく、嬉しそうに桜の元へとやってくる。
「お久しぶりです店長さん。もうここに来るのは十年ぶりですね?」
「ほんとだよ~……いや~あの石田さんに肩車されてたちっちゃな子が、ここまでベッピンさんになっちまうなんてよ~おじさんマジで驚き」
そう笑いながら店長はこちらを一度見やり、にやけながら二三度うなずき。
「そうか~……もう桜ちゃんも彼氏を連れてくる年になったか」
「な!?」
「ふえ!!?」
そんなことをどこかのバカにそっくりな顔で言い放った。
「そそそ!?そんなんじゃないですよ!彼にあったのは一週間前だし!お友達になったばっかだし……そそ、それに、彼は、そのぉ……えっとぉ」
「唯の護衛だ」
「そう!!唯の護衛でお友達!」
「ふ~ん」
髭をさすりながら店長は俺と桜を見比べ。
「やれやれ。大変だねぇ桜ちゃん」
なんて意味の分からない含み笑いを浮かべる。
「っもう!いい加減にしないと帰っちゃうよ!」
流石の桜もそれにはふくれっつらになり、珍しく顔を赤くして怒っている。
「おやおや、それは困るんで、これくらいでやめとくか……お二人さんご案内~」
窓際にある二人用のテーブルに案内された俺達は、丁度お昼時と言うことも相まって真っ先にメニューを開く。
しかし、日本語の名前を付けているからとはいえ、メニューまでもが日本語で書かれているわけでもなかったらしく、俺はメニューの中で理解できそうな言葉を数秒捜した後、桜に助けを求めることにする。
「……すまん桜。メニューが読めない」
「え?シンくんロシア語できなかったっけ?」
桜はキョトンとした顔でそう聞き返してくる。
「話すことは出来るが、読み書きはまだ習得していない」
石田さんは気をつかってか、契約書や書類などは全て英語に直してくれていたことや、雪月花村が日本人街で日本語も使用していたと言うことも相まって今まで、言語の壁を意識することも無かったが、いまさらながら俺はここが異国であることを再確認させられる。
「そっかそっか……じゃあ私のと同じでいいかな?」
「あぁ、そうしてくれると助かる」
「了解~」
そういうと、桜はテーブルの端に置いてあった呼び鈴を鳴らす。
甲高い乾いた音は、ドアのベルとは違い、どこか上品な音を響かせ。
「あいよ~」
それと同時に店長が注文票を片手にやってくる。
「ご注文はお決まりですか?」
「えと、じゃあそうね。石田の好きだったбефстроганов(ビーフストロガノフ)を。あ、彼も同じので」
「ぷ……ククク 彼だって」
「おっさん!!」
からかってくる店長に対し、桜は今度は拳を振り上げる。
普段あまりこういう怒りの感情を表に見せない桜からしてみれば、全身を使って怒りを表現しているのだろうが、残念なことにそれはいじめっ子に対しては最高のレスポンスであり、そのことを知るには桜は友人と接する機会が少なすぎた。
店長は満足げな表情をして悠々と厨房へと姿を消して行き、桜は怒りが伝わったと自慢げな表情でこちらにどんなもんだと胸を張る。
「……」
「な……なにかなその痛い子を見るような目!?」
「いや、お前がそんな怪獣みたいな性格だとは思わなかったからな」
「か……ちょっとシンくん!誰が怪獣だって!」
「お前だよ、おまえ」
「ってい!!」
追求するのも面倒くさく、案外からかってみると面白そうなので
少し店長の真似事をしてみると、不意につま先に激痛が走る。
「っつう!?」
確認せずともそれが桜が足を思いっきり踏んだ事による痛みであることは容易に想像でき。
自分も加減と逃げるタイミングの未熟さを痛感する。
「……ふーんだ」
どうやら機嫌を損ねてしまったらしく、俺はジンジンとする足の痛みに耐えながら今まで見せたことのなかった桜の素顔を見る。
「……なによ」
そこには冬月の城の頭首ではない、ごくごく普通の少女がいた。
少し幼さを残した白い髪の少女は、 普通に笑って普通にむくれて。
その姿からは、余命一ヶ月だとは到底思えない。
「そうだ桜、一つ聞いておきたいことがあったんだが」
話題を変えるために、俺は桜に声をかけてみると、桜もそこまで機嫌を悪くしていたわけでもなかったようで
「なぁに?」
といつものトーンで返事を返してくれる。
「石田さんって雪月花村出身なのか?」
「石田?違うよ石田は村の外から来たの」
「となるとやっぱ専属執事として雇ったのか?」
あまり石田さんとそういう話をする機会が無かったせいか、俺は石田さんのことを知らない。
石田扇弦と名乗っているが、見た目はどこからどう見ても西洋人であり、雪月花村の人間かと思いきや今桜から違うと言われてしまった。
プロの執事だとしても過去の話やや立ち振る舞いを見ても元軍人で大きな部隊に所属していたようにしか思えないし、色々と素性が不明な人である。
そういったことから、色々と謎なことが多い石田さんについて、桜に今日聞こうと思っていたのだ。
「あー、石田はね家の付近で死に掛けたのを拾ったの」
「?」
しかし、俺が期待していたものとはかけ離れた近くのペットとの馴れ初めのような単純なエピソードを桜は語り、俺は一瞬言葉に詰まる。
「桜は、それはどういう?」
「うーん、元軍人って言うのは教えてくれるんだけどどういうどういう経緯でどうして家の近くに倒れていたのかは分からないの。
というか教えてくれないんだけどね、石田は私が4つのときに家の前で倒れてて、お父様が助けてから私専属の執事になったの。ちなみに石田 扇弦って言うのは私が付けた名前だよ」
ああ、なるほどね。
「素性も良く分からない人間に良くあそこまで信頼を寄せてるな」
「まぁね、でもこの11年間ずっと私に尽くしてくれてるし信頼も出来る。石田が話したがらないんだから無理矢理聞きだしても時間の無駄かと思って」
「まぁ、そうなのだが」
器が大きいのかそれとも無用心なだけなのか、俺は桜の言葉に反論できずに一口お冷を飲む。
まぁしかし、まとめると理由は分からないがとりあえず石田さんは拾われた恩義から桜の執事を10年以上続けていると言った所か……。
そう思うと、石田さんが自分の子どものように過保護になって桜の心配をする理由が分かった気がする。
石田さんにとっては桜は恩人であり、イエーガーたちと同じように自分に居場所をくれた人間なのだ。
本当、桜は自分でも意識しない間に色々な人間の心の支えになっているんだな。
「それにしても、雪月花村は素性が分からない人間が多くないか桜? カザミネとかミコトとか」
「雪月花村のモットーは来るもの拒まずだから。人間誰だって言いたくないことの一つや二つはあると思うの。それに元々この村は迫害された人たちの集落だから、過去にどんなことがあってもここを気に入って再出発してくれてるなら雪月花村当主として鼻が高いかな」
「随分と懐が深い村だな。まぁ、そういう所が、気に入っているのだが」
「何か問題が起こったら対処はするよ、お父様に村の経営方法は最初に教わったから。
君達を呼んだのも、手配したのは石田だけど決定したのは私なんだよ」
「なるほどね……本当に当主なんだな」
「むぅ、やっぱりいままで私のことを馬鹿にしてたんだね」
「あぁ、少々侮りが過ぎたようだ……謝罪するよ。認めよう、お前は一流の雪月花村の主だよ」
「ふえ……ど、どうしたのいきなり……ま、まあね!」
分かりやすく桜は頬を赤くして照れ、ブイサインなんかを俺に突き出してくる。
まだあどけなさが残っているが、桜は当主として村の維持発展に加え、父親が残した企業の社長業をも毎日こなしている……しかも、あと一ヶ月の余命と知りながら自らの命が狙われていると言う極限状態の中でだ。
それを可能にしているのは桜が能天気だからとか、現状をきちんと把握していないからとかそんなものではない。
桜は雪月花村の当主として、冬月一心の後継者としてその誇りと使命感で自分を律しているからだ、だから今もこうして笑っていられる。
桜は、本当に強い女性なのだ。
「お待たせしました」
そんなことを思っていると、店長が注文したビーフストロガノフを持ってきた。
ビーフストロガノフと言えば、ロシアを代表する料理の一つだ。
牛肉や玉ねぎ、マッシュルームを若干のスープで煮込み、サワークリームをふんだんに使って作られた、十九世紀にストロガノフ伯爵のフランス人コックにより広められた食べ物だと知識では知っていたが、食べたことはない。
ほんのりと香るバターの香りから、サワークリームの臭いが包み込むように押し寄せて食欲をそそっていく。
「ごゆっくり、お二人さん」
店長は今度は桜をからかう事はせず、俺達に笑顔をサービスすると、さっさと他のお客さんのオーダーを取りに行く。
そこそこ有名なお店なのか、昼が近づくにつれお店にはお客さんが次々に入店してくる。
まだ12時まで時間はあると言うのにたいそうな賑わいだ。
まだ順番待ちになるほどの混雑ではないが、のんびり食べている時間はなさそうである。
「ここのビーフストロガノフね、とってもおいしいんだよ♪」
しかし桜は、喫茶店のお混雑を気にすることも無く、楽しそうに笑いながら両手を合わせる。
「いただきま~す」
桜は一度スープにさじで掬い口に運ぶ、俺も一度口を付けようとサジでビーフストロガノフ救い、口に運ぶが、
ビーフストロガノフを頬張る桜は子供の様でコロコロと表情が変わる、不覚にもその姿をかわいいなんて思ってしまい、気がつけば俺は桜の表情をほうけて見つめていた。。
「……あの、見られると食べにくいんだけど。何か変かな?」
「え?あいや、別に変じゃない。ただ」
「ただ?」
「本当のお前って、やっぱりがさつなんだなと思ってな」
「が!?ちょっとシンくん!?今日なんか酷いよ!?」
「頬にソースついてる」
「ふひゃ!?」
「怪獣みたいに食うからだ」
「むうううう!桜怪獣じゃないもん!」
今だから分かる。
目前にあるのが、今まで見せてきた自分を律して見せる感情ではない、心のそこからあふれ出てくる笑顔やその他のありのままの感情であると。
目前にいるのが、怖いのも悲しいのも全てを力ずくで押さえ込んで、逃げ出したいのも自分の夢も全部押し殺した、 当主としての桜ではない。
今日一日だけ表に出ることを許された、15の少女……冬月桜。
きっと、そんな彼女を見てしまったからだろう。
この少女を死なせたくないと、一瞬本気で思ってしまったのは。
「ごちそうさまでしたー」
「おう、また来てな、桜ちゃん!」
「おじさんも元気でね!」
また来るよとは言わず、桜と俺は午後の予定の消化を開始する。
「さぁて、お腹もいっぱいになったし、どこに行こうか!」
一応回る店やルートなどは確保していたのだが、桜はご機嫌に歩道のど真ん中で両手を広げて一回転を披露し、相談するのは口だけに俺のコートの襟を掴んで引きずっていく。
「桜、俺の聞き違いだったら悪いが、今意見を求めていなかったか?」
「もちろん!行きたいところがあったら言っていいよ!」
「そうか、だったら」
「ああ!シンくん、ぬいぐるみ売ってるよ!」
「聞けよ」
あちこちに引き回されながら、一人町を楽しむ桜にため息を突く。
こっちは桜が楽しめるように、一晩かけて計画を立てていたのだが、そのすべてが水泡に消えた音が頭の中で三回ほどリピートされる。
「あはは、これ面白―い」
しかしまぁ、楽しそうだからいいか。
ただ今桜は尻尾のひもを引くと渋い声でしゃべる蛇人形が気に入った様子で、引っ張りながら笑っている。
【我はバジリスクを従えし蛇の王……貪欲な食欲を食いみたせぇ!】
……この蛇人形、どっかで見たことあるような気がしてならない。
・・・・・・この妙に悪そうな含み笑い・・・・・・はて。
「シンくん!」
「! なんだ、桜?」
「人形買っていい?」
突然桜が身を乗り出し、蛇人形を突き出して紐を引く。
【風情がないのぉ……まったく】
なんかむかつくな、この顔。
「……まぁ、お前が気に入ったならいいぞ」
「本当!やったー」
桜は両手を広げてバンザイをし、とことこと店のおじさんのところへかけていく。
おじさんとどんな交渉をしているのかまでは聞き取れなかったが、顔がみるみる蒼くなっていくところを見ると、この店を売ってくれとか無理難題を吹っかけているのだろう。
やれやれと首を振り、俺は人形の一つを手に取ってみる。
なんでもない熊のぬいぐるみ。 中に綿の詰められた人形……。
人間の暇つぶしに作られ、いらなくなったら捨てられる運命を背負うこの人形は、
それでもずっと笑っている。
もし人形に感情があるならば、それはきっと強制させられた作り笑い。
そんな姿が少し……屋敷の中にいる桜と重なった。
父親に作られた存在で。ねじまき式のブリキの人形のように……一か月後に停止してしまう少女。
俺は今それを守っている。
助けられないのに、救えないのに……。
本当にそれは、正しいことなのか?
「……くだらん」
頭の中のふざけた想像を自ら一蹴し俺は強制的に思考をストップさせるため、店の外へ出る。
時刻はただ今十一時五十分。 ロシアの冷たい空気が平手打ちのように厳しく頬を叩き、そんな風に頭は急激に熱を失っていき、不思議と変な考えもしぼんでくれた。
「まったく、どうかしてる」
今まではくだらないことなど考えずに、自分の道を選択できたのに。
どうにも最近変なことばかり頭をよぎる。
人の命を救い、最も少ない人数を殺して最大の生存者を生み出す。これが正義で、それ以外は悪。
そう、それで今まではよかったはずなのに、それだけが正しかったはずなのに。
今俺は、本当に無駄な一ヶ月を過ごそうとし、それが悪くないと思ってしまっている。
「はぁ」
瞳を閉じて、深くため息を突く。
本当に桜といると調子が狂う。
「ため息なんてついてどうしちゃったのかな?」
「!」
気が付くと、目の前で桜が俺の顔を覗き込んでいた。
「……桜。別に大したことじゃない。それよりも、買い物は済んだのか?」
「うん、このぬいぐるみ会社の経営権はどこに行けば買えるの?って聞いたら駄目だって言われちゃったから、とりあえずこの蛇だけ買って帰って来たよ」
……流石世界三大富豪。 スケールが違った。
「ほら、この尻尾をこ~やって引くと……」
【またせたな!】
「なんとしゃべるのだ!」
「……へぇ」
「あれ?面白くなかった?」
「……別に」
というかさっきから何度も聞いていたのだが。
「もしかして、待たせて怒ってる?」
「怒ってはいない……ただ」
「ただ?」
「いや、やっぱりなんでもない」
ただ、お前を見ているとくだらないことを考えて悩んでいる自分が馬鹿に思えてくる……
と言おうとする口を止めて、俺は町の歩道を先に歩いていく。
「ねー!ただ何~?」
「なんでもない」
「ねーシンくん~」
「……」
「ねーってば~」
隣でうるさい桜を無視しながら通り沿いの道を進むと、駅の隣の大きな広場が見えてくる。
否が応でも中央にそびえたつ巨大な時計台が目に入ってしまうあの広場は、行きに桜が教えてくれた時計台広場のようだ。
時刻はただ今十二時丁度。
「……寒いな」
平日だからか、大通りとは違い広場の付近は静寂に包まれており、その静けさも相まってか一段と寒く感じる。
「誰もいないねぇ?」
桜は不思議そうに首を傾げながら、広場を覆うように植えられている低身長の針葉樹にそって歩き広場の入口へと俺を案内する。
広場の中を軽く外から見回してみると、やはり誰もいない。
日本ならば時計公園という愛称をつけられて子供たちの遊び場になりそうなこの公園には、子供はおろか生き物の気配すらなく……すべてが止まってしまったかのように物音一つしない。
そんな誰もいない場所で、雪化粧をしながらもしっかりと時を伝え続けるその時計は、時刻十二時二分を告げており。
「まぁいっか、この広場で次行く場所決めよっか♪」
「あぁ」
桜の提案に、俺は一度短くうなずき、脚を踏み入れる。
―――鐘はどうした?
桜が言っていた、十二時に町に響き渡る鐘の音。
それが今鳴っていない。
「さ……」
遅い。
すでに桜の足は、町(現実)と広場(異界)との境界を超えていた。




