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第二章 冬月 桜 7

森の探索を終え、大方の地形を頭に叩き込む頃には既に日が暮れ始め、村の人たちは夕飯の準備を始めているようで、村には窓から出てくる湯気とそれに乗りながら漏れる香ばしい臭いが立ち込めていた。肉を焼くにおいや、味噌汁の臭い、そんな香りの中に、ほんの少しのアルコールの香りが混じり、昔絵本でで見たことのある森の中の大宴会の話を思い出す。

「ボールこっちだ! パス パ~ス!」

外にはまだまだ元気に走り回るほほえましい子供達と

「おっけー!この日本から来た紅き稲妻!長山龍人!敵をかわして!かわして!!」

紅いコートを着たツンツン頭。

「……」


見なかったことにしよう。

そんなことよりも、森の構造を把握できたのだから、ジハードに装備の運搬を頼まなければ。

気持ち良さそうに顔を輝かせている長山に背を向けて、さっさとジハードが泊めてもらっているという家へと向かう。


村の中央部にある他の家よりも少し大きめな日本家屋。もちろん寒地用の工夫はなされてはいるが、どう見ても昭和時代に並んだ日本の住宅を意識して作られている。

玄関の隣にひっそりとたたずむ古き良き時代の呼び鈴を鳴らすと、中から老人が顔を覗かせた。

「おやおや、桜様の護衛の方ですか?いかがなされました?」

「食事時に済まない、ジハードを出してくれ」

「はぁ、ジハード・シュトラインベルン様なら先ほど、中立の森のほうまで行くとか言って先ほど出て行きましたよ?」

「森に?」

「はい」

「入れ違いになったか……。すまない、失礼する」

「中立の森は獣はいませんが夜中は迷いやすく危険ですゆえ、お気をつけて」

「……わかった。ありがとう」

老人に別れを告げて、俺は先ほどカザミネに教わった中立の森へと歩いてゆく。

夕刻に通った道を歩きながら、俺はそのまま中立の森へと入る。

獣も何もいないこの森ならば、ここにいる人間の気配はすぐに分かるはず。

「……いた」

近い……どうやら放浪の森との境の近くにいるらしい。

おおかた、この森の不思議に気付いて調べているのだろう。

そう納得して、俺はその気配を追いかける。


            放浪の森。

気配を追って走っていくと、放浪の森の中に入ってしまった。

トウヒ属の木だけが生えているこの場所は、確かに中立の森とは違い、動物の気配が多く、

ジハードの気配が薄れていってしまう。

「まずいな、また入れ違いになると面倒だ」

そう思い少し速度を上げると、案の定金髪の後姿がちらりと木々の間から覗く。

どうやら立ち止まってくれていたお陰で思ったよりも早く追いつけたようだ。

「ジハード」

「!? あ、不知火さん?なにかご用件でしょうか?」

声をかけると、ジハードは一瞬身構えた後に、慌ててこちらを振り返る。

慌てながらもしっかりとメモ用紙とペンを振り返る瞬間に引き抜いているところを見ると、流石は諜報部といったところか。

「ご用件は何でしょうか?」

「ああ、この森一体に罠を仕掛けるから、今から言うものを倉庫から持ってきて欲しい」

「あ、分かりました」

元気よく返答をするジハードは、俺の頼んだものを走るようにメモ帳に走らせていき、

割と早口で言ったにも関わらず、聞き返すことなく了解しましたと頷いた。

「用件はそれだけだ」

「かしこまりました、恐らく明日の昼ごろには届けられると思いますので、宿泊先に取りに来てください」

「分かった。すまない」

そう一言礼を言い、踵を返すと

「あ、不知火さん、戻るのでしたらこれ、長山さんに渡しておいてくれませんか?」

ジハードは俺を呼び止めて、やたらとでかいアタッシュケースを手渡してくる。

「なんだこれは?」

「さぁ?私には分かりかねますが、秘密兵器だそうです」

……あぁ、ゲームか。ゲーマーだもんな。

「わかった、渡しておく」

「よろしくお願いします」

相変わらず元気よく敬礼をするジハードに軽く嘆息をつき、俺は森に残るジハードに違和感を感じることなくその場を立ち去った。

                     ■



冬月家の玄関を開けると、石田がひょっこりと顔を覗かせた。

「お帰りなさいませ、不知火様。どちらまでお行きになられたのですか?」

「……森の構造を把握してきた。細かい道などはおいおいだが、戦闘をするには問題は無い程度には覚えてきた」

「言いつけてくだされば私が案内をしましたのに」

「気が引けてな」

「ほほ……お気遣い感謝いたします」

胸に手を当てて軽く頭を下げる石田さんの姿は、とても様になっている。

そんな事を思いながら俺は玄関前で軽くコートの雪を払い中へと入ると、暖かい熱が全身を包み込み、俺はコートの術式を解除する。

「して、護衛の方法は組みあがりましたか?」

「あぁ、これから暫くは俺が屋上で見張りを、不振な人物がいたら長山に向かってもらい必要とあらばその場で射殺する。 それまでは長山は冬月の傍で護衛。 長山が戦闘に赴いているときは悪いが石田さんが冬月の身辺を守ってくれ。

細かい逃走経路の確認は出来てはいるが、いざ逃げるとなれば石田さんのほうが効率が良い、それに冬月にとって一番安心できる人間はあんただ。問題が起こったときに石田さんが傍にいれば、冬月のパニックも抑えられ、迅速な逃走が可能と判断した」

「ふむ……それは構いませんが、これでは不知火様はあまり桜様と共に過ごしたくないように聞こえますが?」

「……気に障ったなら謝罪する。しかし、残り一ヶ月の命の人間に、人殺しの存在は負担になる。今は元気に振舞っているが、不安や恐怖は時に病状を悪化させることもあるだろう。護衛する人間が護衛対象を殺すことがあったらことだからな。そのことを見越して、上もコミュニケーション能力に長ける長山を付き添いとして寄越したのだ。

だからこそ俺はあくまで影に徹する。不知火深紅の存在はいないと思ってもらって構わない」

別に冬月が嫌いなわけではない。 むしろ彼女の存在には純粋なる憧れも抱く。

だからこそ、自分の存在を少しばかり後ろめたく思ってしまっている自分がいる。

正義を行いながら、それが正しい行為だと信じていても、やはり他人から見ればそれはただの人殺しだ。

「私には、自分が傷つくのを恐れているようにも見えますが」

「そんなことはない。少女一人に嫌われるのを恐れていたら、今更こんな重荷は投げ捨てている」

正義は決して簡単ではない。むしろ何より難しい。

「ふふ、そうなると自分は傷ついても良いが、桜様を傷つけるのだけは嫌だとなり、不知火様はとてもお優しい方と言う事になりますね?」

「な……」

思いもよらない台詞に少し戸惑う。

生まれてこの方そんな言葉をかけられたことなど無ければ、優しさなんてものに触れ合ったのも親父が死んで以来だ。

「茶化すのは止めてくれ。それよりも明日、雪月花村の森に。浸入感知用の罠を仕掛ける。だから暫くは森に立ち入らないように村人達に説明を頼めるか?」

「ほほう、流石は死帝の名を持つお方、仕事が速いですね。分かりました、明日の正午までには村中に回せるでしょう」

「頼んだ。あぁ、あと少し一人で作業をしたいんだが、前に使ったあの部屋を

借りても良いか?」

「えぇ、ご自由に使っていただいて構いませんよ?」

「そうか、助かった」

護衛方法の説明を終え、俺は石田さんと別れてそのまま自室へと戻り、油性ペンとこのあたりの地図、そして同じ大きさのビニールシートを持って昨日入った密談用の部屋へ入る。

明日、ジハードが頼んでいるものを持ってくるため、今のうちに俺はトラップの配置や見回りをする際のルートを考えなければならない。

「……さて、どこを防ぐべきか」

カザミネと歩いた記憶と、メモに記載した内容を照らし合わせながら、俺は机の上に広げた地図にビニールシートをかぶせ、赤いペンで細かい地形を記入していく。


この森はいわば天然の要塞である。 第二次世界大戦 ヒュルトゲンの森の戦いがそうであったように、この森は戦車や装甲車の進行を、ブリザードは航空機や空からの支援を阻害し、またこれらはブービートラップを隠すのに一役買ってくれる。

戦闘に関しても開けた空き地を確保できているこちらに対して、相手は常に森の中。 あちらの砲撃はこちらへの被害を阻害する盾となり、反面こちらが砲撃をすれば木片は兵士を襲う刃となり、開けた唯一の道は格好の的になる。

相手が兵士を送り込んでくるならば、現在の兵力だけでも十分足止めは可能であり、相手の被害も甚大なものになるだろう。

それに大きな軍隊を動かすことになれば、その分目立つため石田さんの情報網に引っかかることになる……そうなってしまえば、戦争をするまでも無く避難経路を使ってチクシの港から海路を使って冬月を逃がすことができる。

村を一つ攻め落とさなければならないあちらに対して、こちらは冬月一人を村から逃がせば良く、防衛戦になれば俺達の勝利はまず約束される。


だがそれは当然、相手も百も承知であろう。

軍隊を送ればその分こちらに動きを察知される可能性が増えることはわかっているはず。その為、冬月の殺害には少数精鋭の部隊が投入される……。

そうなった場合、天然の要塞は敵の姿を隠す衣となってしまう。

車は使えないとはいえ、少数の部隊であれば森の中を自由な経路でこの村に侵入することができる。

そうなれば極秘任務として作戦は遂行され、石田さんの情報網にかかることも無い。

ボディーガードたちは元軍人だからとはいえ、見た目や言葉のなまりからしてほぼ外国人のみで形成された部隊……雪の中という特殊地形での戦闘にはあちらの方が一枚も二枚も上手。

では、小隊レベルの部隊をとめるためにはどうするか?

一番効率がよい方法はブービートラップである。

敵の機動を阻害しつつ、敵の到来を察知することができる。

勿論、雪場での戦闘、潜入はロシアに住む兵士のほうが長けている……トラップはすぐに発見されてしまうかもしれない……が。

それならばそれで罠の張り方を工夫すれば、敵の侵入経路を絞り込むこともできるはず……。

「となると……放浪の森から……」

もっとも……敵の察知に関しては、トラップだけでは心もとない……何かもう一つ対策を考える必要があるか……。

「……ふむ……」

情報を整理しながら、赤いペンでトラップを仕掛ける場所をマークして行く。

冬月家の城から周囲一キロ。

それが、足止めと敵の察知を一番しやすい範囲であり、その中から、俺や長山が移動するルート、敵を誘導するルートをさらに重ねたビニールシートに今度は黒いペンで書き込んでいく。


「こんなものか」

作業開始から約2時間……カザミネに事細かに森の地理や木々の配置 特徴について教えてもらったため、比較的早く俺は作業を終わらせることができた。恐らくこのルートであれば、敵の誘導と狙撃がいっぺんにできるであろう……あとは少しの準備と、ジハードから送られてくるものを待つだけであり、トラップの配置に関してはこれで問題は無いだろう。


あとは雪月花の森の狙撃ポイントだ。

トラップのみで敵の殲滅は期待できない……。どう頑張ったところで、部隊の半壊が限度だろう。その為、敵の到来を察知した場合は、こちらから打って出る必要がある。

そうなった場合の役割分担は、長山が直接敵部隊と交戦し、俺は遠方からの狙撃で長山を援護する……。これが一番理にかなった戦い方だろう。

「時間は……もう7時か」

東側の森では、カザミネに頼んで狙撃ポイントに適した場所を抑えることができたが

カザミネに案内してもらうことができなかったため、雪月花の森は自分で歩いて探す必要がある。

深夜でもいいが、長山が起きている今のうちに……。

「不知火様?」

「……石田さんか、どうした?」

「もうまもなくお食事の用意ができるのですが、召し上がりますか?」

「わざわざすまない、いただくよ」

「そうでございますか……で、その……」

「ん?」

「よろしかったら、今晩の夕食は是非皆様でと桜様が申されているのですが」

「冬月が?」

「えぇ、できればご一緒していただきたいとの事でございます」

……当然のこと気乗りはしなかったが、それでも依頼主の頼みとあったら断るわけにもいかない……か。

「わかった、今向かう」

「左様ですか……では、先に食堂でお待ちしておりますので」

「わざわざすまない」

「いえ……それではまたのちほど」

「ああ」

石田さんは軽く会釈をしてそう笑顔を作り、扉を閉める。

「下見は今夜で良いか」

俺は一つため息をつき、伸びをする。

大きく肩がなり、同時に腹は空腹を訴える。

なれない雪の森を歩いていたせいか、俺の体は思っていたよりも疲労がたまっていたらしい……休むのも仕事のうちだ。

一人自分にそう言い聞かせて、俺は作った地図を片付けて食堂へと足を運ぶ。


「お、来たな」

「いらっしゃーい!どうかな?他の人の家の食堂ってどうなってるのかわからないんだけど、変じゃないかな?」

食堂へ入ると、そこにはいつでもなんだか楽しそうな二人が待っていた。

「悪いが冬月、普通の家にはこんな大きな食堂はない」

「えー!?じゃあみんなどこでご飯食べてるの?」

……口ぶりからして、皮肉ではないのだろう。

俺はそんな冬月にため息を漏らし、冬月と長山に向かい合うようにして席に着く。

「普通の家は大きくないからリビングで食事をするのが普通かな?俺も深紅も寮生活だったから詳しくは分かんないんだけど」

「そういえば、寮の食堂でよく不知火くんと遊んでたって言ってたけど、寮には食堂があったの?やっぱりこんな感じなの?」

「いや、こんなたいそうな物ではない、軍隊の食堂なんて業務用の机が隊員の人数分押し込まれただけの部屋だ、テーブルの上もあるのはこんなおしゃれなテーブルクロスや花瓶なんて子洒落たものではなく、ストップウオッチだけ」

「ストップウオッチ?」

「懐かしいなぁ……食事は出されてから10分以内に食わなきゃいけないから、みんなストップウオッチで時間を気にしながら食べるんだ……残したら罰則だからな」

「あの習慣だけは未だに慣れん」

「寮って言うよりも監獄だからなぁ」

「……そ、そんなに恐ろしいところなんだ……」

「特に冬が一番恐ろしいぜ」

「あぁ……冬か」

「え?何?冬に何があるの?」

「でるんだよ」

「?」

「キムチ鍋」

「キムチ……なべ? なんでそれが……あっ」

「察したようだな、ぐつぐつに煮えたぎるなべ、しかも辛い唐辛子スープのなべを、十分以内に完食しなければならない恐怖!……噂では、これが原因で救急車で運ばれる軍人がいたとかいないとか……」

「恐怖!」


「おやおや、なにやら随分と楽しそうですねえ皆さん……」

そんな会話をしていると、石田さんが入り口とは対角にある扉を開けて、食堂へと入ってくる。普通の扉よりも少し大きめに作られているその扉は、厨房と直接繋がっているのだろう、石田さんが食堂にやってきたと同時にこの広い食堂いっぱいに食欲をそそる香りが立ち込めていく。

「……あ、もう駄目だおれ、香りだけでよだれとまんねえ」

だらしなくよだれを裾で拭く長山であったが今回ばかりは同意せざるを得ない。

「お待たせいたしました、お料理の用意が整いました」

「今日のメニューは何かしら?石田」

「はい、本日のメニューですが、お食事前の前菜から始まりまして、ウクライナ風ボルシチ、ビーツとポテトのサラダ、スラブ風牛ヒレ肉の鍋焼き……それと、いい梨が入りましたのでババロアをおつくりいたしました」

「問題ないわ」

「はい、それではご用意いたします」

「……」

「……」

「?どうしたの二人とも、もしかして苦手なものでもあったかな?」

冬月は心配そうな表情を浮かべ、首をかしげる。 しかし。

「いや、その……なぁ深紅」

「あぁ、料理の次元が違いすぎた」

「どういうこと?」

「俺達はさ、そんな豪勢なコース料理だとか……食べたこと無いからさ」

「正直、言葉は通じているはずなのに、理解ができなかった」


首をかしげながら俺達の驚いていることが理解できないという表情を冬月はし、

石田さんは淡々と前菜に使われている野菜や味付けの説明をしながら小皿と

フォークとナイフを用意してくれる。

「なんだ?前菜から始まるって、野菜って大皿に盛られてる肉を引き立てる飾りではないのか? 肉の取り合いの後の消化試合のためのもんじゃないの?」

「俺なんて、最近皿に乗った料理さえ見てないというのに」

「そんなに酷いの?軍隊って」

「いや、それはこいつだけだけど」

銀色に輝くナイフとフォーク。

食事の作法は叩き込まれてはいるが……。いかん、いきなりハードルが高すぎる。

「不知火君って一体普段何食べているの?」

ふと、前菜のサラダを綺麗に口に運びながら、冬月はそんなことを聞いてくる。

「え、あぁ、場所によって変わるが……!?」

『美味すぎ!?これ本当に野菜か!?』

それにつられる様に俺と長山もサラダを口に運び、ほぼ同時に飛び上がって驚く。

「お、大げさだなぁ二人とも……本当に毎日どんなもの食べてるの?」

「……あ、あぁ、最近は潜入任務が多かったからな、時間がかからない食事ばかり食べていたな……アメリカの要請で行った仕事でも缶詰やクラッカーだからな」

「おいなんだよそのまだ下があるみたいな言い方は……」

「まぁ、仕事柄アメリカ軍からの仕事なんて殆ど無いからなぁ、仕事のほとんどは戦争の耐えない中東のもんだ」

「……中東、一体何が出るの?」

そう、ごくりと冬月は生唾を飲み込み、俺は空になった前菜の食器を見つめながらナイフとフォークを置き……そして。

「ミスター R」

そう、一呼吸置いてから呟くように伝える。

が。

「ミスター……R」

ナイフを落としたのは長山であったが、意外にも声を上げたのは冬月であった。

「冬月……まさか」

和やかな食事の雰囲気は一転、窒息しそうなほど重苦しい空気が当たりに漂い始める。

頬を伝う一筋の汗と生唾を飲み込む音……どうやら、この場にいる全員が、その都市伝説の主人公じみた名前に聞き覚えがあったようだ。

「聞いたことだけあるよ、アメリカが開発した保存の利く携帯食料。ミスターR 敵から拒否される食べ物 誰もが拒否される食べ物……いくつもの異名をもつ究極の食べ物……MER」

その名前を出した瞬間、張り詰めた緊張の糸が切れたかのような悲鳴が漏れる。

「……俺は、俺は二度と食いたくねぇ!」

深層に押し込まれた記憶のフラッシュバック、その記憶は長山龍人という人間の精神を崩壊させるのは十分な破壊力を持ち、長山は幻覚を見るかのように目を見開きガタガタと震え始める。おそらく彼には、今食したばかりの豪華な食事でさえも全てが名状しがたいおぞましき物へと変貌しているのだろう。その反応だけで、その食べ物がどういう存在であるかを目前の少女へと伝えるには十分であったようで、その白い肌から一つのしずくが零れ落ちる。

「……冬月も知っているとは……だがな、問題はそこではない。MERが渡されるだけなら、アメリカ軍でもよくあるからな、問題は中東だ。 中東の戦地の最前線は、食料の供給が困難で、俺のような傭兵に食料を回す余裕がない。だからな……三食だ」

「さん……しょく?」

静寂。

誰もが、その不快な言葉を一度で理解することは不可能だろう。その為、もう一度俺はゆっくりと現実を突きつける。

「つまり、渡される食料全てが! MERだ!」

「ひいいいいい!?」

二度目は静寂ではなく、悲鳴が轟く。

がたがたと俺と長山はあのときの恐怖の記憶を思い出し、冬月は良く分からないけどガタガタと震えだす。

「じ……地獄だ」

「不知火君、まさか……それしか」

「いや、流石にそんなもの毎食食べていたら気がふれてしまう。 実際、一回幻覚見えた。だから、それからは中東での仕事のときは自給自足が基本だったからな、その地に生息している動物を食べて食いつないでいた」

「……中東の方って、どんな動物がいるの?」

「そうだな、らくだは殆ど家畜化しているからな、野生動物は……」

「おや、動物のお話ですかな?ほほえましいですねぇ」

丁度話が切り替わったところで、石田さんが現れ、今度はボルシチが俺達の目の前に置かれていく……。

野生動物の話で正気を取り戻したのか、冬月と長山は置かれたボルシチを料理として認識したらしく、先ほどまでの名状しがたき存在の幻覚を払拭するかのように、まじまじとその美しい現実を凝視している。


長山が一度落としたナイフはどうするのかと思ったが、石田さんは一度使用した食器は全て回収し、新しい小皿やナイフとフォークを用意してくれた……。

しかしここまで仰々しい食事というものは俺にとってはそれこそ現実と乖離している……果たして、これは本当に食事なのだろうか?いや、頭では理解しているのだがその現実を受け入れられない、何かの儀式だと説明したほうが納得できてしまいそうだ。

「野生動物は?」

ふと冬月が話の続きを切り出したため、俺のくだらない思考はここで中断させる。

「あ、あぁ、一番良く見かけたのはネズミとかだな……穴の中に隠れていてなかなかつかまらなかったが、あとは狼やガゼルもいたな……!??」

『うまっすぎる!?』

「……二人ともそれあと二回やるつもりなの?大丈夫疲れない?」

「……すまない、あまりにも……美味過ぎて」

「おれ、なみだでてぎだ」

「あはは……でもなんだか、私は私でこういった石田の作った美味しく調理された料理ばっかり食べてたから、不知火君が食べてたものにも興味があるなぁ、ねえねえ、ネズミってどんな味なの?美味しいの?」

「ネズミ?……ネズミはなぁ、なんというか……まずくは無いが、量が少なくて不満だな、狼は不味かった……肉は堅いしいいところが一つも無かった。それに比べて草食動物のガゼルは美味かったな」

「おおよそ、超一級品の高級料理を前にする話じゃねーよなこれ」

「ガゼルは美味しいんだ……たとえるならどんな味?」

「んーラムに近いような気が、少しばかり生臭いが、食べられるところも多いからな

携帯している塩をまぶして食べると、口の中で油が広がって……」


その後、食事が終わるまで俺は冬月に自分が今まで食べてきた食事レポートを延々と話し続けた。

いつもうるさい長山は珍しく今回は静かに俺の話を聴いており、結局冬月はうれしそうに長山は苦笑交じりに最後まで俺の話を聞いてくれた。

あまり自分のことを話すのは得意ではないのだが、今回ばかりはなぜか悪い気分はしなかった。


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