五章
試験前の初夏の頃になると、需要は更に増加していた。
二十人以上の医学部生の荷物が本人、あるいは三島の手によって桃原の自宅に運ばれ、その量は部屋の半分程のスペースを埋めるまでになっていた。だがそれに比例して、桃原の手元には月三万以上の金が入ってくる計算になっていたため、狭さを気にすることは全く無かった。
強いて問題をあげるならば、荷物を取り出したいという連絡の入る回数が多くなったことだ。
例えば一人が一ヶ月に二回だけ連絡してきたとしても、それが十人になると、二十回、二十人だと四十回ものメールや電話が入る計算になってしまう。
大学、コンビニ、アパート、競馬場の四箇所ぐらいしか移動しない桃原だったが、頻繁に入る連絡を、時には面倒くさいと思う事もあった。
けれど基本的には、皆、こちらの都合に合わせてくれるし、そこまでの不満は無かった。それに実入りの良さは何物にも代え難かった。そんな桃原の元に、一際大きな荷物が運ばれてきたのは、試験が終わり、いよいよ長い夏休みに入ろうかという頃だった。
それは、普段から桃原のアパートへ荷物を預けていた医学部生の一人で、三日間だけ新たに預かって欲しい物があるという依頼をしてきたのだ。
桃原の部屋の広さは、すでに日常生活に支障をきたしかねないラインだったが、三日間だけということと、通常よりも高い報酬額を聞いて、引き受けることを了承した。
後日、三島の運転する軽トラによって運ばれてきたその荷物は、今までの数倍の大きさだった。
「おい浩太、ちょっと手伝え。そっち持ってくれよ!」
「なんだこりゃ。こんなデカイのかっ!」
それはまるで、洗濯機でも入っているかのようなサイズのダンボールだった。
二人は挟みあう形で軽トラの荷台からその箱を下ろす。しかし、いかんせん筋肉量が違う二人では荷物がアンバランスに傾いてしまう。
「ちょっと不安定だぞ、浩太。もっと力入れろよっ」
「無茶言うな。これが限界だっ」
「――ちっ。絶対落とすなよっ」
桃原は三島の言葉に相槌を打ちつつ、ゆっくりとアパートの階段を上って、そのダンボールを部屋に運び入れた。
「ふうっ。なんなんだ、この大きさは」
「知るか。俺はただ、マンションの玄関に荷物を置いておくから、指定した時間になったら持って行ってくれって言われただけだ」
これだけのサイズだと、面と向かっては頼みにくかったのだろうかと桃原は推測した。
「どうりで報酬が良かったわけだな……」
「とにかく、今日入れて三日後にまた取りに来るから。ちゃんと管理しておけよ」
「あ、ああ。分かったよ」
三島は凝りを解すように腰を回しながら軽トラに乗り込むと、排気ガスを撒き散らして去っていった。
桃原は一人、ダンボールだらけの部屋に残されると、急に一抹の不安が心をもたげた気がした。
それを体現するかのようなおかしな事に気づいたのは、バイトから帰宅し、寝る前に歯を磨こうとシンクの上に置いてある歯ブラシに手を伸ばしたときだった。
見覚えの無いピンクの歯ブラシが、自分の青い歯ブラシとくっつき合うようにしてコップに立てかけてあったのだ。
「……?」
よく見ると、歯ブラシは開いた花びらのように毛先を広げていた。明らかに使い古されたものだ。それが分かったとき、ぞわりと全身に鳥肌が立った。
「ひいっ! 何だこれ気持ちわりぃっ!」
桃原は窓を開けると、その歯ブラシを反射的にぶん投げた。
――巧のイタズラか? あの野郎!
桃原は息を乱しながら、改めて自分の歯ブラシを手に取った。しかし、毛先どうしが、くっついていた事を思い出すと、とても使う気にはなれず、結局はそれも捨てて、新しい物を買いに行くはめになった。
桃原は翌日、電話で三島を問い詰めた。
『おい、お前ふざけんなよ! なんなんだよ、あの歯ブラシのイタズラ。気持ち悪すぎるわ』
だが三島は怪訝な声を出した。
『歯ブラシ~? 何言ってんだお前?』
桃原は事情を説明したが、三島は心当たりがない様子だった。
『じゃあ、あれいったいなんなんだよ』
『知るかよ。お前、酔って女でも連れ込んだんじゃねーの?』
『そんな相手いねーよ。だいたい昨日は酒なんて飲んでねえ』
仮に居たとしても、あんなふうに歯ブラシを使う女は勘弁して欲しいと桃原は思った。
『それに、なんか、前から違和感あるんだよ……』
桃原は、ぼそりとそう呟いた。
『違和感?』
『説明するのは難しいんだが、置いた物の場所が微妙に違ってるような、なんか変な感じがするっていうか……』
すると三島は、ははあと納得したように相槌を打った。
『そりゃ、お前の部屋に人の荷物が大量にあるからだろ? 他人の物が自分の家にあるって、意外と気を遣うもんさ。複数のレンタルショップでDVD借りたままにしてると、なんか気になるだろ? それと同じだよ』
『うーん……』
『お前の部屋にあるのは、貴重品とは違って重要度の低いものばかりだから、預かる重圧みたいなのが薄かったんだろうが……量が増えれば、必然的に責任感も増すってもんだ』
『そんなもんかね?』
『ああ。自然と金が入ってくるって言ったって、その額に応じた代価が必要なんだよ』
そう言われるとそんな気もしてきた。物の配置が変わってるような気がするのも、一種のストレスによるものだったのかもしれないと、桃原は思うことにした。
『じゃあな、頑張れよ』
そう言って、三島は話に区切りをつけた。電話を切ると、静か過ぎる部屋が唐突に気になってくる。
――やっぱり真後ろに置いてある、でかいダンボールが威圧感あるんだよな。いったい何入ってるんだ?
ダンボールは耳の部分を交差した四つ折りで閉じられ、隙間からは白い梱包材が見えた。
しかしそれ以上調べる気にはなれず、桃原は避けるように背を向けてテレビを点けた。
夜になると、桃原は戸締まりをしてバイトに出掛けた。狭い部屋から離れた開放感からか、気持ちが楽になっていた。近いうちに、預かってる荷物の数を減らそう。やっぱり少し多すぎるんだ。そんなふうに思った。
だが事態を一変させたのは、日付が変わった頃だった。
バイト中に掛かってきた携帯電話の着信に、桃原は心の中で舌打ちをした。
――こんなときに誰だよ……?
幸い客は一人しかおらず、雑誌に夢中のようだったので、桃原はポケットからそれを取り出して相手を確認した。
――巧かよ。
三島からだった。
大方くだらない話だろうと思い、無視していると、しばらくしてコール画面が消えた。しかしまたすぐに掛かってくる。
桃原は痺れを切らし、バックヤードで商品の整理をしていた同僚男性と交代してもらうと、電話に出た。
『浩太かっ!』
開口一番に聴こえてきたのは、三島の慌てた声だった。そのボリュームに、思わず耳を離す。
『なんだよ? うるせーな。今バイト中だよ、電話掛けてくんなっ』
『じゃあ、大丈夫なんだな!? 中には居ないんだな!』
三島の後ろ側から聞こえてくる雑音は、パチンコ屋にでも居るのかというくらい、騒がしかった。
『あ? 何言ってんだ? 中ってなんの事だよ?』
酔ってるのかと呆れて、その電話を切ろうとした桃原だったが、聴こえてきた次の言葉は、衝撃的なものだった。
『お前の部屋っ! 燃えてるんだよっ! 火事っ!』
一時の絶句後、
『…………はああああああっ!?』
桃原の大声がバックヤードから響き渡った――。




