因果
とうとう、やってしまった。
十四年と半年間、僕を育ててくれた父さんと母さんの身体を見下ろしながら、僕は何度も短い息を繰り返す。顔や背中を中心に、僕の全身は大量の汗で濡れていた。乾いた息を吐き出す度に、高鳴る心臓がいつ口から飛び出てくるか分からない不安に襲われる。けれど、自分の右手に握られたナイフを見て、僕の中の異常な興奮は若干抑えられ、ほんの少しだけ冷静さが戻ってきた。灰色の刃と、学校の白い夏服にこびりついた大量の赤黒い血痕から、僕は数分前の自分の行いをゆっくりと思い返す。
僕は、父さんと母さんを殺した。
理由は、そうたいしたものではない。テレビのニュースなどでよく見る、かっとなってやった――端的に言ってしまえばそれである。けれど、ほんの一時の感情に任せて殺してしまったと言うよりも、僕の場合は、長年の間に積もった負の感情が一気に爆発した結果起こった、と言った方が正しいのかもしれない。
今日も僕が帰ってくると、父さんと母さんは辻褄を合わせたかのように、すぐに僕の成績や生活について激しく糾弾してきた。
――もうすぐ受験だろう。お前そんな態度で良いと思ってるのか。
――正人、何も私たちは意地悪であなたを責めてるんじゃないの。ただ、正人のことを心配して言っているのよ。
ここまでは、中学三年になってから、ほぼ毎日のように二人に言われた常套句だ。
僕自身は、そんな両親の言葉に対して、少なからず応えられる自負を持っていた。中学一年生の頃から、ほとんど毎日のように勉強を欠かさずに行い、テストでも高水準の成績を修めてきたのだから。ついこの前は、担任の先生から、今の僕の成績なら偏差値の高い高校も狙える、と言われたほどだ。
だから、僕は今を維持し続けることに決めた。さらにその中から将来に向けて、より良い方策を採っていくようにすれば、二人の言葉に秘められた期待に応じられると、そう信じていた。さっき父さんが言い放った、あの言葉を聞くまでは。
――正人。お前何か勘違いしているかもしれないから言っておくが、お前は『できない』子なんだ。ほんのちょっと成績が良いからって、調子に乗るんじゃない。自惚れるな。
その言葉を聞いた時、僕は一瞬、父さんが何を言ったのか理解できなかった。
頭の中で、もう一度今の発言を反芻させる。そして、父さんの言葉の意味をゆっくりと、呑み込んでいく。
僕は、『できない』子だったのか?
嘘だ。嘘だって言えよ。
だって、僕は、父さんと母さんのために、部活動にも入らずに、勉強だけに力を入れてきたのに。
それが、僕の、二人のためになると、信じていたのに。僕の中の希望と自負が、全て絶望と憎しみに染まってゆくのを感じ取る。
お前は『できない』子なんだ。
調子に乗るんじゃない。
自惚れるな。
父さんの棘のある言葉が、僕の頭の中で何度も木霊し、渦を巻く。
今まで僕のことを、そんな風に思っていたのかよ、父さんは。
そして、今の言葉を聞いていた母さんは、父さんの言葉を否定することなく、ただ黙って俯いていた。
母さんまで、父さんの味方をするのかよ。
それじゃあ、僕は。僕は――。
そして、気がつけば、僕は台所に置いてあったナイフで、両親の胸や腹、背中を何度も刺し続け、二人を殺していた。
リビングの床にできた血溜まりの上で、もう動かない二人の亡骸を目にした僕の耳に入ってきたのは、点けっ放しになっていたテレビ番組から流れてくるアイドルの笑い声。それ以外には、僕の荒い息だけだ。
これから、どうしようか。時間とともに冷静になる僕の頭が、自分自身の未来を無情にも問いかけてくる。もう、決まっているようなものだ。僕は、強く瞼を閉じる。そこには、ただ何もない暗闇だけが広がっていた。
このままどこか遠くへ行ってしまおうか。だけど、二人の遺体をどうするか。家の庭にでも埋めてしまうか――悪魔的な反面、ひどく稚拙な考えが僕の脳裏に浮かぶ。そんなことをしたって、僕の罪が消えるわけではない。二人が生きていたことを、僕を生み育ててくれたことを、否定したくない。だったら――僕は、一つの決意を胸に、瞼を開き、ゆっくりと歩を進めた。
数歩歩いて、リビングの隅にある電話の受話器を取った。そして、返り血が付着した手で、ゆっくりとボタンを押す。がくがくと震える指が、何度も違うボタンを選択してしまい、僕はその都度受話器を置いてやり直す。両手の数を超えたか超えなかったか、というところで目的の相手の電話番号を押し切った。そのまま程なくして、電話口から事務的に流れてくる男性の声に、僕は一言だけ告げる。
僕は、父と母を、殺しました。
その瞬間、僕の目から一筋だけ、涙が流れ落ちた。
因果/完