迷探偵 嬉野由莉香の推理Ⅴ
運動全般が大得意で、体育の時間になるといつも、契約を得た悪魔の如く生き生きとする古峯昇だが、頭に保健が付け加えられるといまいち興味を持てなくなる。いや、一分の項目には高校生らしい興味を持っているのだが、OHPが写す大腿二頭筋について熱く議論する授業には、価値を見いだせないでいた。
しかも本来なら今日は、楽しい楽しい体育の時間のはずだったのだ。それが、二週間前から告知されていたとはいえ、保健体育に変えられたのだから、テンションは地獄直行である。だから、昇が視聴覚室の長机に頬杖をつきながら、金剛力士像の体と大仏の頭を組み合わせたような保健体育の教師に、心の中で悪態をつくのも許されて然るべきなのだ。何故なら、あの教師が一か月前に高熱を出さなければ、今日は体育だったのだから。
「あぁ…絶対寝る。午後からの授業、絶対寝てしまう。この授業、眠気を誘い過ぎるんだよ」
昇は溜息をつきながら、隣の席で真面目に授業を受けている、寿浩汰にそう宣言した。
その憤りの籠った言葉に、中、高と四連続同じクラスである親友は、肩を竦める。保険体育があるにしろないにしろ、午後の授業を八割方寝て過ごす昇に、そんな宣言をされても、と思っているのだろう。
「大体さぁ、女子は水泳なんて不公平だろ。教室から遠い視聴覚室に行って保健体育を受けるより、水泳の方が良いに決まってるじゃん。水泳の授業は少し早く切り上げられるしさ」
保健体育よりプールが良い、という意見については、浩汰も同じようだ。彼は深く頷いて応える。
「夏は、プールで思いっきり泳ぎたくなるよね。だけど女子が今日水泳なのは、保健体育が無くなったと男子が喜んでいたその日に、女子が保健体育を受けていたからだよ」
保健体育は男女別で行われている。男子の保健体育教師が休みでも、女子は問題なく保健体育を行えるのだ。
だから保健体育が自習になったと男子が喜んだその日、女子は保健体育を受けている。そのことを昇も分かってはいるのだが、先生の都合に振り回された、という気持ちは拭えない。
「保健体育はともかく、水泳が男女合同だったらいいのになぁ。あ、でもその場合、殆どの女子は見学するだろうし、まともに受けさせるには別々にするしかないのか。あぁ…このおかしな暑さの中、プールで泳げるという優越感に浸りたい…」
昇の嘆息が、カーテンを閉め切った視聴覚室の薄暗さに乗る。夏と言う季節は好きなスポーツ少年だが、最近の度を超えた暑さは尋常ではない。こんな異常な暑さの中、プールの丁度良い冷たさに身を包められれば、どれだけ幸せなことか。
考えても仕方がない。昇は自分をそう戒めて、頭を振った。次の時間は待ち焦がれた昼休みだ。幸いにも、隆起した上腕二頭筋を見せつける教師を諭すようにチャイムが鳴って、昇は素早く立ち上がった。
出来るだけ早く教室に戻って、昼休みをより長く享受しよう。
彼は思考をポジティブに切り替えて、歩幅を広げる。
だが教室で待っていたのは、憩いの昼休みではなかった。そこでは、男子より早めに授業の時間を終えた女子の怒号が響き渡っていたのだ。見ると、三人の女子生徒が、一人の女子生徒を壁際に追い詰めて詰問している。その、激しく言葉を飛ばしている三人を見た瞬間昇は、保健体育教師に逞しい上腕二頭筋を見せつけられた時よりも顔を歪ませてしまった。
何事も自分中心でないと気が済まない、大物政治家の娘である間野春香、そしてその取り巻きの嘉納八代と稲田伊耒。この三人組には、ほとほと愛想が尽きているクラスメートも多い。基本的に誰に対してもフレンドリーな昇でさえ、正直この三人組には良い印象を抱いていないのだ。
どうして問い詰めているのかは、分からない。もしかすると三人組は、完全に被害者なのかもしれない。だが、クラスメートの殆どが、問い詰められている女子生徒に憐憫を抱いているのは間違いないだろう。
「じゃあなんで、あたしの財布があんたの机の中に入っていたんだ!」
春香が切れ目を怒らせて、大声を吐き出した。途端にクラスがざわめく。事情を呑みこめなかった者たちが、彼女の大声で詰問の理由を理解したようだ。
もっとも、その理由を鵜呑みにすることは出来ない。問い詰められている女子生徒、白沢梓紗が、そんなことが出来るような人物には思えないからだ。
あの、心配性で気弱で繊細な白沢が三人組の、それもリーダー格である間野春香の財布を盗めるわけがない。クラスメートは全員、そう思っていることだろう。彼女たちに刃向かえばどうなるのか。それは、今日も学校を休んでいる、三人組と仲が良かったはずの女子生徒の件で、思い知らされているのだ。
「何とか言えよっ!何で春香の財布が入っていたんだよ!」
「八代の言う通りだよ。俯いて黙られても、何にも解決しないんですけどー?」
取り巻きの二人が、梓紗を更に追い詰める。気弱な梓紗は、唇を噛みしめて、目尻から涙を零すことしか出来ない。そんな彼女を、三人組は恰好の的とばかりに嬲る。
だが、誰もが動かない。動けない。三人組に、関わり合いになりたくないのだ。口を挟めば、次のターゲットになるかもしれない。その恐怖が、足を床に縛りつける。
ただ一人を除いては。
「どったの、間野さん?財布がどうとか言ってたけど…」
むさ苦しい笑顔を皮膚に張り付けて、昇はごく自然に割って入った。突然のことに、三人組はしばし無言になる。とは言え、口が開けばすぐさま罵声が飛び出るだろう、と思いきや、リーダー格の春香が放った声色は意外にも落ち着いたものだった。
ただ、取り巻きの二人は、昇に明らかに敵意を向けていた。獲物を庇われたことが、よほど気に入らなかったのだろう。
「あ、古峯、聞いてくれ。こいつが、あたしの財布を盗ったんだ」
「え、マジで?というか、何で白沢さんが盗ったって分かったの?」
「四時限目、女子は水泳だっただろ。だから財布を鞄の中に入れておいたんだけど、教室に帰ってきたら無くなってて、それで、なんかそわそわしていたこいつの机を確認したら、財布が出て来たんだ。昨日買ったばかりの高いやつだから、羨ましくなってとったに決まってる」
矢継ぎ早でいまいち要領が掴めなかったが、とりあえず、うんうんと頷いて見せる。姉ほどではないが、誰とでも仲良くしようとする昇は、三人組ともそれなりに会話を交わしている。良い印象を持っていないから話さない、というのは何か違うな、と彼は思っていて、それが役に立ったようだ。
「成るほど成るほど。確かに怪しい。ところで、四時間目の間に盗られたのは間違いないの?」
「ああ。三時間目が終わった後の休み時間には、間違いなくあった」
「ふんふん。んー、でもさ、女子は水泳だったんでしょ?白沢さんも授業に参加してたわけだ。盗むことなんて、無理なんじゃない?」
そう言われて、春香が固まった。どうやら、財布が机の中に入っていたという事実だけで犯人と決めつけていたようだ。
昇はさらに続ける。一つ年上の寡黙な先輩、嬉野由莉香を頭に浮かべながら、梓紗を擁護する。
「それにさ、今日の日直は嘉納さんと浩太。俺は浩太と一緒に教室に帰って来て、その時にはもう教室は開いていたから、嘉納さんが教室の鍵を開けたんでしょ?」
「…うん。鍵を開けたのは私だけど、それが何?」
心底面倒くさそうに八代が答えた。財布が盗まれたことと何の関係があるのか。ぶっきら棒なものいいから、彼女のそんな不快感が伝わってくるようだ。
「ってことは、授業が終わってから、素早く教室に戻って財布を盗むことも不可能だ。嘉納さんが鍵を開けるまで、教室の中には入れないんだから。まぁ、職員室から鍵を借りれば開けられるけど、嘉納さんが鍵を取りに来るまでに返しに行かなきゃいけないことを考えると、時間的にそんな猶予はないんじゃない?」
言い終えると、それまで傍観していた一人の女子生徒が、おずおずと口を開いた。彼女は、水泳の授業が終わってから白沢さんとずっと一緒に居た、と証言する。そして、一人がそう言い終えると、その証言の裏付けをする者が次から次に続く。
「後は、四時間目が始まる前の休み時間くらいだけど…人が居る中で盗んだりは出来ないと思う。教室から人が居なくなるまで待っていたのなら話は別だけど、鍵を掛けるために日直が最後まで残ってるはずだから」
ふと、今日の日直が八代と浩太であることを思い出す。保健体育が行われた多目的教室まではそれなりに遠いということもあり、浩太は最後まで残れなかった。とすると、もう一人の日直である八代が最後まで残るべきなのだが、性格的に、その役割を他人に押し付けてサボっている可能性がある。
そんな懸念が浮かんだのだが、それはすぐさま否定された。
「ま、それに関しては、古峯の言ってることが正しいんだと思うよ。私と春香、それに伊耒が、鍵を掛けるために教室に残っていたから」
「え、残ってたの?」
昇の、呆然とした言葉を聞いた八代は、鼻で笑って悪態をついた。
「何?柄じゃないって言いたいの?…私は水泳を見学するつもりだったから、着替えの時間が必要なかったんだよ。だから今日は真面目に日直の仕事をしたわけ。というかさー、寿に鍵を掛けるって伝えた時、古峯も居たでしょ?」
「そうだっけ…」
浩汰に目線を送ると、素早い頷きが返って来る。
自分より数段しっかりした親友の頷きならば、間違いないだろう。昇は、そう考えて口を閉じた。
「それじゃあ、一体誰が、どうやってあたしの財布を盗んだんだよ…」
春香は歯ぎしりをしながら、梓紗を、遠巻きに見ているクラスメートを鋭く睨む。そこには歴然とした怒りと恨みがあり、所詮は他人事と傍観を決め込んでいた者や、自作自演を疑っていた者の心胆を震え上がらせた。
とはいえ、これで白沢さんへの容疑は薄れるだろう。昇はそう思い、安堵の息をついた。勿論彼は、希望的観測や彼の行動原理の八割を占める直感だけで彼女を擁護したわけではない。これは彼なりに、たった一つなる真実を求めた、推理のようなものの結果なのだ。
この推理譚を、由莉香先輩に聞かせたい。
昇の心は、早くも放課後の多目的室に向けられる。犯人は見つかっていないのに、彼は有頂天になっていた。
ただしその頂は、あまりに低く、そし脆かった。
「そう言えばこいつ、授業の始めらへんから長い間プールに居なかったよね?」
唐突に思い出したような八代の疑問符に、今度は昇が固まる番だった。慌てて、背後で身を丸めている梓紗に、真偽を問う視線を投げかける。
反応は顕著。彼女は、怪しすぎるくらいに黒の瞳を彷徨わせた。
「ち、違います。盗んでなんか、いません。授業を受けていなかったのは、お手洗いに行っていたからで……」
怯えた瞳の焦点が、昇の肩に定まる。直後、がたん、と何かが倒れたような音が、昇の後ろから響いた。何事かと振り返ると、倒れた椅子と、白い紙の様なものを持ち上げようとしている浩太の姿があった。クラスメートの視線を集めた音の発生源は、弱った笑顔を浮かべながら謝る。
「ご、ごめん。立ち上がろうとしたら、椅子を倒してしまって…」
緊迫の雰囲気を切り裂いた、空気の読めない騒音に、三人組が舌打ちする。クラスメートたちも渋い顔をしていて、何をやっているんだと呆れているようだ。しかし親友の昇だけは、空気をぶち壊しにする失敗に強い違和感を覚えていた。
浩汰が椅子を倒すような失敗をするようには思えない、ということもある。だが何より、タイミングの良さだ。浩汰と梓紗は隣の席同士で仲が良い。追い詰められている梓紗を助けるために、わざと椅子を倒したんじゃないか。
昇はそう思えてならなかった。
もっとも、椅子を倒したくらいで、追及の手が休まるわけがない。先ほど疑問符を呈した八代が、今度は自信たっぷりな口ぶりで話し始める。
「まぁ、いつから、どれくらいトイレに行ってたのかなんて知らないけどさ。トイレに行ったふりをして、財布を盗んだんじゃないの?」
「ち、ちが…」
それまで梓紗に向けられていた憐憫の目が、疑惑のそれに変わった。水泳の授業を受けている女子生徒たちは、トイレにしては長かったよね、とか、教室に帰って来た時やけにそわそわしてたよね、と遠巻きで話し、疑惑を確信に近付ける。
梓紗の反応は、確かに怪しい。だがこれではまるで、人身御供だ。昇は、一変したクラスメートたちの態度に唇を歪めながらそう思った。彼らは恐れているのだ。対岸の火事が、自分に飛び火することを恐れているのだ。
そんな、梓紗を犯人と決め付けるクラスメートたちの総意に水を差したのは、意外にも梓紗を問い詰めていた八代だった。それまで梓紗を見下ろしていた彼女の顔が突然傾き、隣で笑っている伊耒を捉える。僅かに躊躇う動きを見せ、そこからは葛藤が滲んでいたが、彼女ははっきりと伊耒に疑問を投げかけた。
「その、疑ってるわけじゃないんだけど…伊耒も、見学席からいなくなったよね?それも、授業中には戻ってこなかったよね…?」
「はぁっ!?何?あんた、私がやったって思ってるの?」
「だから、そう言うわけじゃなくて…」
これは思わぬ光明かもしれない。
昇は、友人の不意打ちに口角泡を飛ばす伊耒を見据え、落ち着いてと手を上下させて言う。
「まぁまぁ、落ち着いて落ち着いて。どこに行っていたのか証明できるのなら、問題ないわけだし」
伊耒は、ふん、と鼻を鳴らし、いちいちしゃしゃり出て来る昇と向き合う。
「……保健室よ。日差しを浴びてたら、少し気分が悪くなったのよ。文句があるなら、保健室の先生に聞いてみればいいじゃない!」
保健室に行かないと確かめようがないが、こうも言い切られてしまっては、この場で追求することは出来ない。むしろ、梓紗と違った堂々とした態度に、疑惑が払拭されていく。
「やっぱり、白沢が盗んだんだな」
暗く低い、ヘビのように纏わり付く声で春香が呟いた。
状況は、犯人が九割方梓紗であることを示している。だが昇は、彼女が犯人だとはどうしても思えなかった。それはもはや、何の根拠もない直感なのだが、思考よりそれに身を任せて生きて来た彼にとって、無視できないものでもあるのだ。
浮かんだのは、由莉香の顔。あの人なら、何とかしてくれるかもしれない。そんな期待が、昇に大声を出させる。
「待ってくれ!ちょっと、調べさせてほしいことがあるんだ!」
先輩に相談するとは言えず、彼はそう言って春香を留めた。
「何だよ、古峯。これ以上何を調べるって言うんだ?」
「その、稲田さんが本当に保健室に行ったのか、とか」
その発言に、伊耒がムッとした表情をして反撃する。
「はっ、柄にもなく探偵気取りかよ。ドラマやゲームじゃねーんだぞ」
「五月蠅い。ちょっと黙ってて」
春香が、伊耒を押しのけて昇に近づく。黙れと言われた伊耒は、悔しそうに口をもごもごとさせたが、結局その悔しさは、彼女の口の中で自己完結せざるを得なかったようだ。
「そこまで言うんだ。それで、絶対に、あたしが納得するような結果がでるんだな?」
絶対に、の部分を強調する。それは、何も分からなければ、お前も許さないという意思表示である。
梓紗が犯人ではない、そう昇を支えるのは直感以外の何ものでもない。しかし彼は、由莉香ならその直感を推理として組み立ててくれる、と信じている。もっとも、直感が外れていればそれまでなのだが、彼は持ち前のポジティブでこう考えるのだ。
まぁ、その時は、その時だ。
「ああ。絶対に、でる。だから、少し待ってくれ」
絶対にでる、と肯定されるとは思ってなかったのだろう。春香は目を見開き、驚いた様子を見せた。だがすぐに腕を組み、底意地の悪い笑みを浮かべる。
「じゃあ、放課後まで。放課後までなら、待つ」
対峙する者は、ことごとく潰す。春香の妥協は、あくまで前振りに過ぎない。明確な敵意は示さない昇を痛めつける理由を得るための、準備に過ぎないのだ。
だが、疑われていると感じている伊耒は、その妥協が嫌だったのだろう。吐き捨てるような口調で、口を挟む。
「探偵気取りに構うなんて、時間の無駄だって」
「いいじゃん。財布はあるんだし。伊耒だって、疑われたままなのは嫌でしょ?」
「それはそうだけど…でも」
空気に、緊張が走る。伊耒のしつこさに、春香の切れ目が釣り上がったのだ。
「あたしがそれで良いって言ってるのよ!恵那のようになりたいわけ?それとも何?保健室に行ったかどうか調べられたら、何か困るの?」
怨色じみた表情とは裏腹に、伊耒は下唇を噛みしめて黙った。反論すれば疑われる、ということのみならず、春香に言い返すことの危うさも感じているのだ。
春香は、友人だろうと自分に逆らうものは許さない。彼女の怒りに初めて踏み込んだ女子生徒は、拝野恵那という取り巻きの一人だった。そして彼女は、それまで自分を散々持ち上げてくれていた恵那に、全く容赦しなかった。彼女によって徹底的に痛めつけられた恵那は今、不登校になってしまっている。
今日も欠席している恵那と、同じ目に遭いたくない。だから伊耒は、煮えたぎる苛立ちを何とか堪えているのだ。
「それじゃあ古峯、まぁ、精々頑張ってくれ」
昇は春香の嫌味に、おう、と明るく答えて時計を見る。
昼休み終了まで残り三十五分。この三十五分と、五時限目終了後の十分の休み時間が、昇に与えられた猶予だ。一分たりとも無駄には出来ない。
早速、由莉香が居ると思われる屋上へと駆けだそうとした昇の肩に、やけに強い力が加わった。
「僕も、手伝うよ」
待っていた、と告げるように昇は笑う。例え春香に睨まれることになろうとも、親友ならば手を貸してくれる、という自信が、信頼があったのだ。
「おぉ!心の友よ~」
どこかのガキ大将風に協力を歓迎すると、浩太は微苦笑で答える。春香に目をつけられたこの状況でさえ、少しも変わらないその暑苦しいテンションに、感心と呆れを覚えているようだ。
そんな二人を、春香は冷めた相貌で眺めていた。彼女には、理由が見いだせない。利益も出ないのに、自分に目を付けられることになるのに、浩太が昇に協力する理由が分からない。それは取り巻きの八代と伊耒も感じていたようで、三人組の下がった眉からは、嘲弄と共に困惑の色も見いだせるのだった。
浩太がクラスメートたちから情報を集めている間、昇は屋上へと続く階段を二段飛ばしで駆け抜けていた。昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴る五分前まで、由莉香は屋上で本を読んでいる。本が嫌いなスポーツ少年にしてみれば、大切な昼休みを読書なんかに使うなんて勿体無い、と思う。とはいえ、笑顔で運動場を走りまわる由莉香を想像すると、五臓六腑が入れ替わったような気持ち悪さを覚えるのだが。
屋上へと続く扉のノブを捻り、開ける。勢いよく開いたその先に、しかし、由莉香は居なかった。また来たのか、と邪険満々の空気で攻撃してくる先輩の姿は、何処にも確認できなかった。
嫌な予感が、背中を伝う。由莉香の聖域は、昼休みは屋上、放課後は多目的教室と決まっている。そう、雨の日はともかく、晴れの日の昼休みの屋上に由莉香が居ないなんてことは、今までなかったのだ。
なに、最近暑くなってきたから多目的教室に居るのだろう、と自分に言い聞かせるも、昇の不安は募るばかり。とりあえず、多目的教室に行くまでにある保健室から寄ろう、という思考は、嫌な予感を現実にさせないための消極的でしかない。
流石の昇も、あてにしていた由莉香が見つからないかもしれない可能性に、ポジティブを保てないようだ。
だからと言って、時間が待ってくれるわけでもない。不安を取り払うような、怒涛の勢いで一階まで駆け下りた昇は、今まで一度もお世話になったことのない保健室の前に立ち、軽く首を捻った後、躊躇いがちに扉をノックした。
「どうぞ」
扉越しに、女性のくぐもった声が聞こえてくる。失礼します、と言いながら扉を開けると、三十半ばくらいの養護教諭が昇を出迎えた。
その養護教諭は、昇を見るなり少し目を細めて警戒を顕わにした。健康しか取り柄がなさそうな男子生徒が保健室に何の用だ、と暗に伝えているのだ。
「すみません、ちょっと聞きたいことがありまして」
歓迎されている雰囲気でない事は感じている。かといって引き下がるわけにはいかない。だから昇は、好感をもたれるように努めて明るく言う。
「聞きたいこと?…何かしら」
「はい。その…四時間目の授業の間に、稲田さん、稲田伊耒さんが保健室に来たのかどうかを聞きたいのですが…」
養護教諭は、しげしげと昇を観察する。そして何を思ったのか、彼女の顔に満面の喜色が湧いた。
「気になるのね?その娘の体調が気になるのね?」
「え、え、え…………はい、そうなんです!稲田さんの体調が、心配で心配で堪らないんです!」
養護教諭が何を求めているか勘付いた昇は、やたらオーバーに返答した。保健室の主の脳内はどうやら、あらゆるものを恋愛の要素として変換するようだ。
「そこまで言われては、仕方ないわね」
そう言って養護教諭は、机の上に置いているノートを手に取り、捲り始めた。そこには、保健室にやって来た生徒の名前とクラス、そして病名や症状などが書き込まれている。どうやら、保健室にやって来た生徒一人一人にそれらを聞いてメモし、資料として役立てているようだ。
「そうね。1-Bの稲田さんなら、四時限目が始まって二十分経ったくらいに来たわ。それで、立ち眩みがするって言ったから、ベッドで横になってもらったわ」
自信満々に言っていただけあって、伊耒が保健室に来たことは事実のようだ。
それでも、昇は食い下がる。自分に考え得る限りの質問を養護教諭にぶつける。
「ベッドで横に。その、稲田さんはどれくらいの間、保健室に居ました?」
「四時限目終了のチャイムが鳴るまでずっと、横になっていたわ」
「あ、そうですか…後一つだけ聞きたいんですが、先生は四時限目の間、保健室からいなくなったりしませんでしたか?」
「ベッドで寝ている生徒が居るのに、養護教諭が居なくなるわけないでしょう。そんなに心配しなくても大丈夫よ。病気のサインを見逃したりはしていないわ」
そうですか、と意気消沈する昇の反応に、養護教諭は困惑する。その困惑が、疑念へと変わらないうちに、昇は慇懃に頭を下げて礼を言う。
「ありがとうございました。失礼します」
「え、ええ。頑張ってね。稲田さん、体調は問題ないと思うけど、何だか元気がなかったから…初めての利用だったし、体調が悪くなったら無理をせずに保健室に来るよう言っておいてくれるかしら」
はい、と適当に返事をして、昇は保健室から出た。
収穫は、殆どないと言っていいだろう。決め手になるような何かがあれば、由莉香が居ないかもしれないという不安を解消できたのだが、物事はそう上手く運ばないようだ。
多目的教室の扉に手を掛けた昇は、願うように一瞬目を閉じた。昇は由莉香の携帯電話番号を知っているから、彼女が多目的教室に居なくとも、電話を掛けるという最後の手段があるにはある。しかし、彼女が電話に出る可能性は限りなく低い。だから昇は、いつもなら弾き飛ばすようにスライドさせる扉を、そっと開けた。
現実は、どうしようもなく無情である。多目的室に、由莉香の姿はなかった。カーテンの隙間からもれた陽光が、侘しく輝いている。
「マジかよ…」
悪い予感の的中に、額を手で覆って独りごちた。
落 ち込んでいる場合ではないことは、分かっている。時間は感情なく進み、黙々と昼休みを終了させようとしているのだ。しかし、昇が春香に啖呵を切れたのは、由莉香という存在があったからなのだ。
だが、その頼りにしていた存在は、どこにも居ない。
「そうか。由莉香先輩は、いなくなってしまったのか。夜空できらきら光るシミみたいなのになっちゃったか…」
軽く諦観の入った現実逃避をしてから、小さく長く息を吸い、気分を入れ替える。
見つからないものは、仕方がない。
この切り替えの早さこそ、昇が昇たる所以だ。
浩太の集めている情報も気になるし、スマートフォンは鞄の中にあるし、とりあえず教室に戻ろう。そう考え、教室に戻ると、そこには顔を曇らせた親友の姿があった。どうやら彼も、有益な情報を手に入れることは出来なかったようだ。
「どうだった?」
表情からその結果を勘付いていたが、一応昇はそう問う。すると浩太は、暗鬱とした感情の表出を裏切ること無く、力なく首を横に振った。
「うん、芳しくない。白沢さんが無実だと証明するような情報はなかったよ。いや、むしろ…」
「むしろだけに、針のむしろ……イェイ、チェケラ」
テヘッ、と効果音でも飛び出てきそうなポーズをとる。更なる追い打ちの知らせに、脳内から理性が撤退したようだ。
「…むしろ、状況は一層悪くなったよ」
昇のポーズと言動にノーコメントノーリアクションを貫いた親友は、集めて来た情報を淡々と述べる。
「まず、男子の中で、間野さんの財布を盗むことが出来る人物が居るかどうかを探ったんだけどさ」
「ああ…そっか、男子の可能性も考えなくちゃいけないな。でも、その口ぶりだと」
「駄目だった。トイレに行くために視聴覚室から出た生徒はいるけど、五分くらいで戻って来ている。視聴覚室のある校舎と、教室がある校舎は結構離れているから、五分じゃあ何も出来ないよ」
身体能力の高さが自慢の昇でも、五分では行って帰ってくるぐらいが関の山だろう。そして、その昇を超える身体能力の持ち主はクラスには居ない。だから、男子生徒の犯行の可能性は、考慮しなくても良いだろう。
「男子には無理か。で、状況が一層悪くなった情報ってのは…?」
鞄から携帯電話を取り出しながら、親友の顔を曇らせる根源を問う。
「そもそも犯人が、どうやって教室に入ったのか、疑問に思わない?」
「え?そりゃあ、職員室から鍵を拝借した…あ」
そこまで言って、昇は口を閉じた。いくら授業中とはいえ、職員室に教師が居ないはずがないのだ。一人、二人は授業の割り当てのない教師がいるのだから。つまり、犯人が職員室から鍵を借りたならば、職員室に居る教師がそれを見ているはずなのだ。
「それで、職員室に聞きに行ったんだけど」
何と手際が良く有能な相棒だろう。たった二十分程度の時間で、そこまで調べていたとは。由莉香を見つけられなかった自分との落差に、昇は少し落ち込みながら続きを聞く。
「四時限目職員室に居たのは世界史の先生だけだったらしい。で、その先生によると、鍵を取りに来た生徒は一人も居なかったって。ただ、授業開始から大体十五分くらい経った頃、図書館に資料を取りに行ったそうなんだ。鍵も掛けずに…」
「え、それ、マジなのか?」
浩太は、肩を竦めながら頷いた。
「すぐ戻るつもりだったんだってさ。でも、図書館の館長さんに呼びとめられて、ついつい話し込んじゃったそうなんだ。戻って来た時には十五分程度経っていたらしいよ」
なんて無責任な。開いた口がふさがらないとはまさにこのことだ。いくら授業中とはいえ、職員室を無人に、それも鍵を開けっぱなしにしていて良いはずがない。
もっとも、今必要なのはその教師を糾弾することではない。職員室が無人であった十五分。その十五分について、考えなければならない。
「つまりその無人の十五分の間なら、先生に見られること無く、鍵を取りに、そして返しに行けるわけだ…でもさ、これって偶然だろ。世界史の先生が今日、職員室の鍵を開けっぱなしのまま出て行くなんて、分かるはずないんだから。例えば白沢さんが、水泳の授業の度にいなくなっているなら話は別だけど」
低い確率であっても、何度も繰り返せば現実的に起こり得る事象になる。もし梓紗が、水泳の授業の度に職員室を見張っていたのなら、今日の偶然が必然と成りえる。
もっとも、水泳の授業の度にいなくなるなんて、それ自体が非常に怪しい。例え財布を盗めても、嫌疑を掛けられることは目に見えている。
「そんな話は聞かなかったから、水泳の授業の度に居なくなったりはしていないと思う。でも、鍵の開いた職員室に十五分間誰もいなかった、という事実は変えようがない。だから、困っているんだ」
浩太の視線がスッと動き、梓紗を捉える。机に座っている彼女は一目で分かるほど青ざめていて、見ているだけで心が痛む。
「白沢さんがお手洗いに行ったのは、授業開始から五分後。それから三十分間、白沢さんはプールに帰ってこなかった」
梓紗は、お手洗いに行っていた、と言っているが幾ら何でも三十分は掛かりすぎたろう。そこが犯人ではないかと疑われている最大の要因なのだが、それを分かっていてなお彼女は、固くなにお手洗いと言い続けている。
「…着替えとか、プールから教室のある校舎までの往復とか考えると、余裕はないけど出来なくもない時間だな。職員室に誰もいなかった時間帯と被っているし」
「肝心なのは、その被っているってこと。つまり、可能なんだ。鍵を開けたまま先生が出て行く、という僥倖に頼り切った、普通なら殆ど考えなくても良いような可能性だけど、それでも可能ということに変わりはない」
「ふんふん。これが、悪魔の証明ってやつか!」
「いや、それは意味が違うんじゃないかな…」
恰好の良さ気な言葉で纏めようとした昇に突っ込みを入れた浩太は、はぁ、と息を吐いた。その吐息には、焦りの様なものが感じられる。仲の良い梓紗が疑われているのだから、気が気でないのだろう。
「後、稲田さんだけど、彼女は白沢さんがプールから居なくなってから十分後、つまり授業開始から十五分後に、保健室に行ったみたいだね」
「保健室の先生は、授業開始から二十分くらいに稲田さんが来たって言ってたな。プールから校舎への移動の時間を考えると、まぁ、それくらいか」
二人して、唸る。どうにも、手詰まりだ。その打開のために昇は、由莉香に電話を掛けてみたのだが、やはり繋がらない。充電が切れているのか、電源を入れていないのか、それとも無視しているのか。携帯電話を小さな長方形型の個体くらいにしか思っていない由莉香なら、そのどれもが有り得るだろう。
十回ほどリダイヤルした後、ついに昇は諦めた。相談したいことがある、と言った旨のメールに儚い希望を託したが、スマートフォンはうんともすんとも言わない。
そうこうしている間に昼休みは、残り十分を切ってしまった。いまや、二人の間には諦念の空気が漂っていた。
いたの、だが。
神は死んでなかった!
と、ニーチェに訴えたい幸運が舞い降りた。と言ってもそれは、信仰の勝利などではなく、彼が最後に送った一通のメールがもたらしたものなのだが、昇にすればどっちでも良いことだった。
つまり、由莉香から電話が掛かって来たのである。
感無量で震える手で、通話ボタンを押す。しかし数秒後、スマートフォンを通して聞こえて来たのは、亡者のような声。
「…な゛んの、よ゛うな゛の」
「え?あ?ゆ、由莉香先輩ですか?」
昇は思わず、ディスプレイに表示されている通話相手の名前を見てしまう。だがそこには間違いなく、嬉野由莉香の名前が表示されている。
由莉香と言えば少し冷ややかな、それでいて凜とした心地良い声の持ち主、というわけではないのだか、流石にこのゴブリンも慄く酷い声ではない。怒りと不快感が混じっているとはいえ、彼女の声がデスヴォイスな理由は他にあるのだろう。
「そうだげれど…」
由莉香は二、三度咳をし、少しだけマシになった声で返事をした。ここまでくれば、いくら鈍い昇でも分かる。
「もしかして、風邪ですか?」
「ええ。学校もやずんでいる。だがら、用があるのなら、ざっざど済ませて欲しい」
「す、すみません」
由莉香には見えないだろうに何度も頭を下げて、謝る。それから昇は、今日教室で起こった事件を、調べたことを全て話した。
話し終えた昇は、さて、どんな答えが返って来るだろうかと胸を躍らせる。しかし、由莉香の一言は、あまりに予想外だった。
「警察に調べでもらえば?」
警察。何だか現実味のない、ピンとこない言葉だ。そもそも、高校の一クラスで起こった盗難未遂事件に、警察が動くのだろうか。
それに昇は、この事件は自分の手で解かなければならない様な、そんな気がしていた。出来るだけ大事にするべきではない、という直感が下ったのだ。
束の間の逡巡に拒否の色を見たのか、由莉香は濁った声を響かせた。
「聞くがぎりだと、犯人は白沢さんってことになるのかな」
「うーん。俺にはそう思えないんですよ。偶然と幸運が重ならないと、実行はまず不可能でしょうし」
「完全に有り得ないことを取り除けば、残ったものがいかに有り得そうにないことでも、真実に違いない。そんな言葉もあるよ。まぁでも、残ったものがまだあるとすれば、話は別だけれど」
「残ったもの…?」
由莉香は答えなかった。代わりに、やけに艶めかしい、何かを舌で転がすような音が聞こえてくる。
喉飴でも舐めているのだろうか、と昇が疑問に思った頃に、由莉香は再び言葉を発した。
「例えば、鍵を使わずに扉を開ける方法があるのなら、話しは変わってくるでしょう?」
「鍵を使わずに扉を開ける?そんな方法があるんですか?」
どんな魔法だよ、と心中で呟く。そんな方法があるのなら、そもそも鍵なんて必要なくなってしまう。昇は、訝しみながら由莉香の返答を待った。
「あ、まずい」
ところが聞こえて来たのは、言動のわりに焦ってもいなさそうな、落ち着いた声色。
「時間がないから、もう一つ。ある一人の人間が、同時刻に二か所に存在し得る方法がある」
「はい?何ですかそれ!?奇術?ドッペルゲンガー?いや、そんなことより、鍵を使わずに扉を開ける方法を教え」
そこまで言って、昇の唇の動きが急に止まった。通話が切れていることに気が付いたのだ。
いくら由莉香でも、わざと切ったりはしないだろう。恐らく充電が切れたのだ。
「鍵を使わずに扉を開けられる?同時刻に二か所に存在できる?い、意味が分からない」
由莉香に聞けば、全てが解決すると期待していたのだが、昇の悩みはますます深まってしまった。
折しも、昼休み終了のチャイムが鳴り、教材を持った教諭が教室の中に入って来た。
ふと昇の頭に、閃光が駆け抜ける。それはとても単純で、どうしてこんなことも思いつけなかったんだと自分を責めたくなるような閃きだったが、確かな光明でもあった。
その閃きと由莉香の助言をもとに、もう一度この財布盗難未遂事件について考える。当然彼の脳内に、授業の文字は蚤の足先ほどもないのだった。
「で、どうだったんだ?」
放課後になって直ぐ、春香は昇に近づいてそう問うた。逃がす気はないという残酷な宣告だ。彼女の唇の両端が見せるえげつない曲がり方に、どれだけの人間が傷つけられて来たのだろうか。想像するだけで身震いがする。
ただし昇は、獲物になるつもりは毛頭ない。二人の激突の始まりを察した、八代と伊耒、浩太と梓紗、そして数名のクラスメートが二人の周りに集まりその成り行きを見守る中、昇はいつも通りのむさ苦しい笑顔を浮かべて口を開けた。
「ああ、いろいろ面白いことが分かった。ただ、それを披露する前に聞きたいことがある」
「…手短にな」
不快を隠さない春香は傲慢に、周りの人間は必要な時以外口を開くんじゃないぞ、と付け加えて昇の質問を待った。
「間野さんの財布って、新品なんだよね?」
「昨日買ったばかりだけど、それが?」
「いや、白沢さんは、間宮さんの財布が新品だと知っていたのかな、と思って」
昨日買ったばかりの高いやつだから、羨ましくなってとったに決まってるよ、と春香は言っていた。それが、被害者側の思い込みなのか、それとも梓紗に知る機会があったためにそう発言したのか、まずそれを知りたかった。
そしてもう一つ。むしろこちらの方が重要と言える、あることのために、彼はそう質問をしたのだ。
「三時限目後の休み時間に八代と伊耒に財布を見せたからな。その時にチラッと見たんじゃないのか?」
「あ、嘉納さんと稲田さんには見せてたんだ。じゃあ、他には?誰かに渡したりして、その時に白沢さんが見た可能性は?」
「あのな」
そこで言葉を切った春香の双眸には、何の感情も無かった。どうしようもなくつまらないものを見ている、そんな侮蔑を昇に向ける。
「いい加減にしろよ。そんな下らないことを聞いてどうするんだ。引き延ばしてんのか?結局何も見つからなかったから、どうにか誤魔化そうとしてんのか?」
昇は真っ直ぐ、ひたすら真っ直ぐ春香を見つめ返す。己と浩太の、何より梓紗の勝利を確信した真摯な眼差しが、春香の侮蔑を貫いた。
「…分かったよ。誰かに渡したことはないから、白沢が見ているとすればやっぱり、八代と伊耒に見せた時かな」
満足のいく答えを得た昇は、ありがとう、と礼を述べた。それから大きく一つ咳払いをして、周囲の注目を集める。
いよいよ、推理が披露されるのだ。
「えー、今回教室で起こった財布窃盗…盗難?ま、いっか。財布窃盗未遂事件ですけど、先に言っておくと、犯人は白沢さんではありません」
昇は、周囲の反応を存分に確かめる。彼としては、海が割れんばかりの拍手と急かすような眼差しを期待していたのだが、返って来たのはくしゃみと欠伸だけだった。
少しがっかりしながら、続ける。
「それではまず、事件が起きたと思われる、四時限目の状況について説明します。えっと……浩太、頼む」
「えっ?僕!?」
打ち合わせもなく急にそんなことを言われ、浩太は自分を指差して愕然とした。四時限目の状況を説明するのは別に良いが、それなら事前に言ってほしかった、という文句が全身から滲み出ている。
「いやー、俺が説明するよりか、浩太が説明した方が分かりやすい気がして…」
「いつも通りの無茶ぶりだね」
やれやれ、と頭を抱えながらも昇の無茶ぶりに付き合うのが、浩太の良いところだ。昇の隣に進み出た彼は、昼休みを使った調べた四時限目の状況について話し始める。
頷く者、眉を顰める者、頬を掻く者。四時限目の状況を説明し終えた後の反応は区々(まちまち)だ。だが少なくとも、梓紗が犯人ではないということに肯定的な雰囲気ではない。
それまで黙って話を聞いていた春香が、口内の赤を覗かせた。彼女は、攻撃的な声色で話し始める。
「言いたいことは分かる。白沢が財布を盗むには、とんでもない僥倖が必要だってことは分かるよ。けどそれは、やってないことの証明にはならない。あたしの財布が新しいということを知って、盗みに行ったらたまたま職員室に先生が居なかった。充分に考えられることだろ?第一、白沢以外の誰に犯行が出来るんだ?空白の十五分はともかく、四時限目に鍵を取りに来た生徒は居なかったと、先生が言ったんじゃないのか?」
「ああ。でもそれは、問題じゃない」
浩太に説明を任せていた昇が、苛立つこと請け合いなドヤ顔をして答えた。
「何故なら、真犯人は鍵を使わずに教室を開けることが出来たんです。つまり、職員室に行く必要が無かったんですよ!」
衝撃の事実に感嘆の声が上がる。と、想像を膨らませた昇だが、周囲の反応は胡乱な人間に対する冷ややかなそれだった。
「は?鍵を使わずに教室を開けた?真犯人様は扉の前で、開けゴマ、とでも言ったのか?」
春香も煽る様にそう言う。
昇は口を尖らせ、髪の毛を掻く。これが、天才は死後に評価されるってやつか、と自分を慰め、再び口を開けた。
「犯人が扉を開けるために使った方法は、開けゴマ、と同じくらい簡単です。手に、力を籠めたんです」
「…何だと?」
春香の瞼が下がる。彼女は、昇が何を言わんとしているのか察したようだ。
「つまり、教室の扉に鍵なんて掛かっていなかったんです。鍵の掛かっていない扉なんて、小学生でも開けられます」
周囲の視線が、一斉にとある女子生徒へ向けられる。嘉納八代。鍵を閉めたと言っていた日直は、向けられた視線にたじろぎ、一歩後ずさって吠えた。
「ふ、ふざけんなよ古峯!何か証拠はあるのかよ!?」
「いや」
呆気なく、首を横に振る。残念ながら、八代が鍵を掛けなかったという証拠は何一つない。だから昇この推理は、あくまで仮定の話に過ぎない。
それみろ、と言いたげに八代は勝ち誇った顔をする。しかし昇は笑顔を崩さず、教室の扉を見ながら言った。
「証拠はありません。しかし、嘉納さんが水泳を休んだ理由は、このためだったんじゃないでしょうか。鍵を掛ける役目になれるのは勿論のこと、水泳の授業を終えた後、着替えることなく直ぐに鍵を取りに行けます」
「なっ…!」
八代は短く声を上げ、歯噛みした。昇の言葉に反論が出来たかったからではなく、言えなかったからだ。
春香が、彼女を制したのだ。
「男子は保健体育で、少し遠い校舎から帰らなければなりませんでした。対して水泳は、授業が早めに切り上げられます。まず間違いなく、浩太より先に鍵を取りに行けるでしょう。しかも、男子の授業が保健体育になった、ということは二週間前から言われていました。だから、計画的に実行できるわけです」
「…そうだな。確かに、鍵を開けっぱなしにしておけば、職員室に行く必要はないかもしれない。でも、八代はずっとプールの見学席に居た」
それは、反論というよりも事実を平坦に述べる春香の声だった。顎に手を当て、真剣に考え込む彼女からは、いつの間にか暴君の様な禍々しさが薄れている。財布が盗まれた怒りも、歯向かってきた昇を潰すことへの喜悦も消えてはいない。たがそれ以上に、昇の推理の続きが聞きたくなっていたのだ。
そこには春香自身も気付いていない、楽しい、という感情がある。今まで立ち向かう者が存在しなかった彼女は、きっと飽いていたのだろう。己の、いや己の親が持つ、絶対、に。
「間野さんの言う通り、嘉納さんはずっと見学席に居ました。だから、嘉納さんは共犯者ですが、財布を盗んだ犯人ではありません。犯人は」
そこでタメをつくり、名探偵気取りは犯人にビシッと指を突き付けた。
「稲田さん、あなたです!」
「……はぁ?」
指を突き付けられた伊耒は、数度瞬きをし、意味不明と言いたげな疑問符を零した。この反応は、彼女だけのものではない。周囲の人間も、不思議そうに首を捻っている。彼女が保健室で休んでいたことは、浩太の口から説明されているからだ。
「…おまえは何を言っているんだ?伊耒がプールから保健室に向かったのは、授業開始から10分。保健室に着いたのは授業開始から15分なんだろ?教室に行くような暇があったとは思えないんだが…」
呆れよりも失望を含ませて、春香が眉を寄せる。彼女に、伊耒にかかった嫌疑を払拭しようという気はない。誰もが思っていることを、代弁しただけだ。
昇はその失望に、余裕綽々に首肯して見せた。
「その通り。間違いなく稲田伊耒さんは、保健室で休んでいました。しかし同時に稲田さんは、教室にも居たんです」
自信満々な様相に、誰もが言葉を発せない。何を馬鹿な、とか、頭は大丈夫か、という罵倒をむしろ待っているように見える。そのウザさに突撃したい好事家なんているわけがなく、教室は一瞬の静寂に包まれた。
誰からも何も言われなかったので、昇が残念そうに話し始める。
「つまりこういうことです。保健室に居た稲田伊耒さんは、本物ではなかったんです。稲田伊耒の名前を語る、他の誰かだったんです」
「他の誰か?そんなことが、可能なのか?」
「ああ、間野さん。可能だ。学年、氏名、症状、それらは全て、保健室にやって来た生徒の自己申告です。勿論、保健室の利用が二回目、三回目ともなれば確実にばれるでしょう。しかし、今まで稲田さんが、そして稲田さんの名を語る偽物が保健室を利用したことが無ければ、偽物が稲田伊耒として認識されてもおかしくないでしょう」
伊耒が初めて保健室を利用した事実の裏はとれている。養護教諭の言葉だ。彼女は、保健室から出て行こうとする昇に、伊耒が保健室を初めて利用したと話していた。
「稲田さん、一緒に、保健室に来てもらえるかな?」
よう要求した昇は、意気揚々としている。五時限目の休み時間に、養護教諭からそれとなく聞いた稲田伊耒の体格や特徴は、眼前の稲田伊耒とは符合しなかった。つまり彼は、四時限目保健室に居た稲田伊耒は偽物だと、ほぼ確信しているのだ。
「……」
伊耒はしばらく、仏頂面で直立していた。しかし、急に大きく鼻息をついたかと思うと、お手上げと言った様子で両手を上げた。
「参った。古峯の言う通りよ。私は保健室に行ってない」
「伊耒…」
酷く、酷く冷たい声色の春香が、ゆっくりと伊耒に近づいて行く。彼女の暴虐が許されるのは親の威光だが、人を竦め上がらせる残虐な雰囲気は彼女自身のものだ。
生唾を呑むことも許されそうにない張りつめた空気の中、伊耒が小さく声を出す。
「待って、待ってよ春香。私は確かに、保健室には行っていない。でも、教室にも行っていないの」
「何を今さら」
「そう思うのなら、恵那に聞いてみてよ。あいつに、保健室に行くよう頼んだから。私はスマフォが使える場所で、授業をさぼりたかっただけだし」
「恵那に…?」
昇は、聞き慣れない名前が、不登校のクラスメートだと気づくまでに数十秒かかった。どうやら伊耒は、彼女に保健室に行くよう頼んだらしい。恵那が伊耒の頼みを受け入れた理由は分からないが、学校を欠席している彼女なら、授業中ということを問題とせずに保健室へ行けるだろう。
「大体、鍵を開けていたのは八代って話だけど、私はその八代に疑われたんだよ!?まぁ、それも、あえてそうしたと言われたらそれまでだけどさ…」
実際、昇と浩太は、そう考えている。伊耒が保健室に行ったことは、少し調べればすぐに分かることだ。犯人を梓紗と決め付ける春香には誰も逆らわない。古峯も結局諦める。そう確信しつつも、鬱陶しいを常備している名探偵気取りのために予防線を張ったのだろう、と。
「そもそも、古峯の言っていることは仮定ばっかりじゃん。白沢は盗んでない、という証明もされてないし。証拠もなしに人を疑うなんて、どうかしてるんじゃない?」
ポツリと浩太が、どの口が言うんだ、と呟いた。温厚な彼にしては珍しい、棘のある声色だ。
「証拠、か…」
一方昇は、その単語が出ないように、と願っていた。証拠がない、からではない。証拠はあるのだ。いや、あるはずなのだ。しかしその証拠を叩きつけるためには、由莉香の言葉通りにしなければならない。
だから、自白してくれることを望んでいたのだが。
「証拠は…ある」
微かに、伊耒が息を呑んだような気がした。しかしそれは、錯覚とも思える刹那のこと。彼女は自身の無罪を主張するかの如く、背を張り顎を引いて堂々を示した。
昇は視線を下に落とし、大きな吐息を吐く。若干の迷いが彼の口を一度塞いだが、意を決し、梓紗に問いかける。
「白沢さん、正直に言ってくれ。白沢さんは、机に入っていた間野さんの財布を少しでも触った?」
梓紗は、ふるふる、と小さく首を横に振る。
「う、ううん。触って、ない。間野さんの財布が机の中にあるなんて、知らなかったから…」
「そっか。ありがとう」
梓紗に礼を言って、一息ついた。ふと気付けば、クラスメートたちは昇の一挙一動を見守っている。昇を馬鹿にしている様子は一切なく、むしろ期待に満ちた目線を送っているのだ。
「間野さんの財布は、昨日買ったばかりの新品です。そして間野さんはその財布を、誰かに渡したりはしなかった、と言っています。また、白沢さんの机の中から財布を見つけたのは間野さんです。だとすれば、間野さんの財布に付着していて良い指紋は限られます」
購入者である春香自身。そして販売先、製造元の人間など、付着していて良い指紋はそれなりに多い。しかし、このクラスの生徒の指紋が見つかるのは、非常におかしいことである。犯人を除けば、梓紗くらいしか触れる機会がなかったのだから。
「成程…指紋か」
春香は鞄の中から新品の財布を取り出し、角度を変えながら眺める。
「しかし指紋を調べるためには、警察を呼ばなければなりません。伊耒さん、それでも良いの?」
容疑者は、僅かに睫毛を震わせて軽く目を伏せた。その仕草に、昇は勝利の光を見たのだが。
「…どうぞ」
伊耒は春香の財布を手で指して、そう言った。
「…え?」
まさかの展開に、昇の脳漿が沸騰する。指紋は、彼の切り札だったのだ。ところがその切り札が、呆気なく空を切る。茫然自失になり、言葉を失うのも無理はなかった。
そんな締まらない名探偵気取りに助け船を出したのは、彼の親友だった。浩太が、憮然とした面持ちで伊耒に告げる。
「あんまり警察を甘く見ない方が良いよ。手袋痕ってものがあってね。指紋をつけないように手袋をしていても、犯人は特定出来るんだ。嘘だと思うのなら、調べてみれば良いよ」
浩太は自信満々に言ったが、これは彼のハッタリだった。手袋痕で犯人が必ず特定できるわけではない。そもそも手袋痕がどのような手掛かりを残すのか、そしてそれが証拠となり得るのか、浩太自身もそれほど把握していないのだ。
しかし、このハッタリの効果は絶大だった。調べてみれば良い、と浩太は言ったが調べられるはずもない。そんなことをすれば、自らが犯人だと言っているようなものだ。
浩太のハッタリを受けた伊耒は、しばらく俯いていた。しかし、いきなり体を大きく震わせたかと思うと、唇に三日月を浮かべて笑い始めた。
「何が可笑しい?」
春香の威圧的な問いかけを聞いた伊耒は、唇を三日月のまま、陽気に喋り始める。
「いや、まさか、あの成績の悪い古峯に追い詰められるとは思わなくてさ。思わず笑っちゃったよ。あーあ、本と予想外だよ、あんたは」
「それは、犯人は自分だと認めるってことでいいんだよな」
「ああ、そうだよ?春香の財布を盗んだ犯人は、私。協力者は八代と、一応恵那かな。ま、計画したのは私だけどね」
髪を弄りながら、あっけらかんと言う。話し方も、表情も笑っているのに、唯一笑っていない眼がとても不気味だ。何だか彼女の魂が目に移り、抜け殻となった肉体はマリオネットのように操られているようにも思える。
「でもさ、みんな心のどこかでスッとしたんじゃない?誰もが嫌な奴と思いながら、誰もが手だし出来なかった、あの春香の財布が盗まれそうになったってことにさ!?」
「…」
春香が、伊耒の胸倉を掴みかかる。そして振り上げた拳は、下ろされなかった。彼女は胸倉を掴んだまま、ただじっと犯人を見つめる。何の興味も湧いていない、透明な瞳で直視する。
打ち捨てられた廃棄物でも見ているような双眸に苛立った伊耒が、声を荒げた。
「すかしてんじゃねぇよ!!全部あんたのせいだ!政治家の娘だか何だか知らないけど、私たちにしてきたことを、覚えてんのか!?」
今日の春香の態度を見れば分かるが、彼女にとって伊耒や八代は、友達ではなく下僕の様なものだ。その立場で甘い蜜を吸ってきたとはいえ、下僕に接するような態度が今日までに鬱積し、爆発したのだろう。
けれど春香は、気兼ねする様子を見せない。淡々と、告げる。
「その反抗が、財布を盗む、か。その程度のことしか出来ないなんて、案外つまらない奴だ。事件を解決した古峯の方が、100倍は面白い。どうせやるなら、もっと大きなことをして欲しかったな」
「なんだと…!」
パン、と小気味良い音が響き、二人の口論が止まる。昇が手と手を勢いよく合わせたのだ。
「喧嘩するのは勝手だけど、その前に、白沢さんに謝ってくれないかな?」
やはり昇は暑苦しい笑顔だが、そこには有無を言わせぬ響きがある。今回最大の犠牲者は、春香ではなく梓紗なのだ。その梓紗に謝罪がないなど、許されることではない。
「…ごめん」
最初に謝ったのは、春香と伊耒の口論を怯えながら見ていた八代だった。春香の虎の威を失った彼女は、もはや強く出られる立場ではない。その表情は半笑いで、しかしどこか縋るようでもある。慈悲を求める敗者の姿はきっと、こんなものかもしれない。
「いえ、もう大丈夫ですから」
梓紗が、優しげに微笑む。だから昇はビックリしてしまった。俺だったらビンタ一発はお見舞いするのに、と思わずにはいられない。もっとも、被害者の梓紗がそれで良いと言っているのだから、口出しするわけにはいかない。きっと、これで良いのだろう、と思うしかないのだ。
「あー、ごめんね、白沢さん」
次に謝った伊耒は軽い調子。悪い、などと微塵も思っていないことが有り有りと分かる。心から謝らないにしろ、せめて態度だけでも真面目にしよう、という努力すら見えない。
「はい。気にしないで下さい…古峯君と、寿君も、ね」
だが梓紗は、それでも許した。あまつさえ、昇や浩太の怒りを宥める。
そう言った気性に付け込まれたことを、彼女は理解しているのだろうか。浩太はやり切れない思いを、力の籠った拳にそっと隠した。
最後に残ったのは春香だが、彼女が放った声は謝罪ではなく、不満気な主張だ。
「あたしにも謝れって?あたしは騙された側だ。確かに白沢を疑いはしたが、仕方がないことだろ」
「でも、間野さんの性格が良ければ、こんな事件は起らなかったわけだし」
「……ふん。笑顔の古峯に言われると、一段と腹が立つ」
チッ、と舌打ちをした春香だが、言葉や態度ほど頭に来ているわけではなさそうだ。むしろ昇を見て、意味あり気に片微笑んだ。
悪口を言われれば烈火の如く怒るはずの春香が、何故かそうしない。その不気味さに、周囲が騒然とする。しかし春香が次にとった行動は、更に周りを驚かせるものだった。
「悪かった。悪かったよ、白沢」
あの暴君が、頭を下げて謝ったのだ。その真因が、罪悪感ではないことは明白だろう。彼女が本当に腰を曲げた相手は、梓紗ではない。
暑苦しくてむさ苦しい昇なのだ。
その昇が、ご満悦の様子でうんうんと頷き言った。
「よしっ、とりあえずこれにて一件落着…と言いたいとこなんだけど、どうしても一つだけ疑問したいことがある。稲田さん、どうして財布を盗む実行犯を拝野さんにしなかったの?実行犯が拝野さんだったら、稲田さんが保健室に行ったような偽装をする必要はなかったんじゃない?それに、拝野さんはいつも欠席しているから、犯人と疑われる可能性も低かっただろうし」
その質問に、伊耒はせせら笑って応えた。けれどその笑いには、悲しげな色が仄かに宿っていた。
「あんたみたいな能天気には、一生分からないよ」
由莉香の脳内アラートが、けたたましく鳴り響いた。ノックもなく部屋に入って来た母親は何か信じられないものを見たという顔であり、先程鳴ったチャイムを加味して考えると、凶報は免れないように思えた。
「ゆ、ゆ、ゅりか。お、おとも、おとも、だちが!」
母親は頬を痙攣させ、途切れ途切れにそう言う。お友達の顔など全く浮かんでこない由莉香だが、厚かましくもそう名乗る人物には二名ほど心当たりがあった。多目的教室を騒音で満たす、はた迷惑な兄弟の姿が脳裏を過る。
古峯兄妹という煩わしい楔は病気の時すらも抜かれないのか、と嘆く娘に母親は気付かない。娘に友達が居ないことを心配していた母親にしてみれば、狂喜すべき吉報なのだ。そんな母親の喜びように、由莉香も水を差せない。
こうして由莉香の部屋に通された昇の第一声は、羨望に満ちていた。
「ビックリしましたよ!由莉香先輩のお母さん、かなり綺麗な外人さんじゃないですか」そう言った後、昇は由莉香を見つめ「でも由莉香先輩は、お母さんに全然似てないですね」
「…悪かったね。受け継いだのが、髪の色だけで」
由莉香は自分の容姿が優れているとは思っていないし、あまり感心もない。しかし、こうも悪意なくはっきり言われると、流石に癪に障る。彼女の冷淡な口ぶりは、人間として当然のことだろう。
「いやいや、誤解しないで下さい。由莉香先輩は美人ではないですけど、よく見ると可愛いって感じですから、自信を持って下さい!」
「君は……私の寿命を削りに来たのかな?」
心労と熱のコンボで酩酊感すら覚えた由莉香が、錠剤タイプの薬を口に含む。それでも亡者の呻きの様な声が治っていることを考えると、電話を掛けた頃よりかは体調が良くなっていそうだ。
「ふっふっふっ。そんなことを言っても良いんですかね?俺のこの両手は今、病人へのお見舞いの必須アイテム、フルーツの盛り合わせを握っているんですよ。代金の八割は姉貴が出しましたけど」
「そんな高そうなものをわざわざ……それにしても、いつもより五割増しで鬱陶しいことを鑑みるに、事件は無事解決したみたいだね」
フルーツの入ったバスケットからリンゴを取り出した昇は、自分の額を軽く小突いて見せた。
「ええ、まぁ。まだちょっとした疑問は残っていますけど、概ね解決しましたよ。いやほんと、ムカムカゲキリンボルケーノな事件でしたよ」
リンゴの皮をナイフで綺麗に剥きながら、事件の顛末を鼻高々に話す。由莉香の驚きは、事件の内容よりリンゴの皮を器用に剥いていることへ向けられているのだが。
「成程。じゃあ、稲田さんが白沢さんの机に財布を入れたのは、プールからいなくなったからなんだね」
「らしいですよ。稲田さんが見学席に居る間に、プールに帰って来なかったから狙われたようです。後、性格ですかね。そもそも、怒った間野さんに逆らう人間なんて殆どいませんから、罪をなすりつける相手のアリバイとか証拠とか、あんまり気にしなかったらしいです」
「それが予想以上の効果を生んだ。白沢さんは長時間プールからいなくなっていて、しかもアリバイがない。その上、偶然職員室に出来た空白の十五分。運は彼女たちに味方していたのにね。ところで、白沢さんは授業を抜け出して何をしていたの?」
リンゴの皮を剥いでいた昇の手が、止まった。伝えて良いのかどうか、迷っているのだ。それを察した由莉香は、それほど興味はないから言わなくて良いよ、と口にする。
「白沢さんも可愛そうですけど、拝野さんも同じくらい可愛そうですよ。彼女は稲田さんから、春香との仲を取り持ってあげる、と言われて保健室で稲田さんになりすましたそうです。財布を盗む計画については知らされないまま。間野さんとの仲が修復しない限り学校に戻って来れない拝野さんにとって、稲田さんの言葉は蜘蛛の糸も同然だったでしょうね」
シュルシュルと、途切れない赤の線が皿の上に落ちる。ある程度剥き終えた昇は、一端顎に手を置いて由莉香に問うた。
「すりおろしが良いですか?それとも皮をウザキの形にカットした方がいいですか?」
「そもそも、リンゴが食べたいなんて一言も言ってないのだけれど」
「えー、じゃあパイナップルが良いんですか?それともバナナ?この、欲しがりやさんめっ!」
いつの間にか由莉香の手に古語辞書があった。次ふざければ命はない。古語辞書を握る手からは、そんな殺気が溢れている。
「でも、せっかく剥いたんだから食べて下さいよぉ~」
爪楊枝の刺さった瑞々しいリンゴが、食べて欲しいと訴えかけるように輝いている。未練がましく語尾を伸ばす昇はムカつくことこの上ないが、このリンゴに罪はない。由莉香はゆっくりと爪楊枝を摘まんで、リンゴを口の中に入れた。
「…ん。おいしい。それにしても、君がリンゴの皮を剥けるなんて驚いたよ」
「果物を剥けるだけじゃないですよ。こう見えても、いろいろ、本当にいろいろあって料理は得意になりましたから。繊切り、笹掻き、小口切り、桂剥き、何でもござれです。ちなみに、由莉香先輩はリンゴの皮を剥けたりします?」
由莉香は、ふっ、と微笑み黄昏を顔に刻んだ。
「私がリンゴ剥くと、不思議なことに赤い部分がなくならないの。剥いた傍から赤く染まって、気が付くとリンゴだけではなくて、床までも真っ赤になっている」
「何という流血沙汰っ…!軽くホラーじゃないですか」
「私はあの時初めて、事実は小説よりも奇なりと言うことわざの必要性を実感したよ」
回顧に浸る遠い目が、無言のうちに惨状を物語っていた。しんと静まった室内の空気に耐えきれなくなった昇が、そろそろ夕食前の時間帯ということもあり、お暇すべく立ち上がる。
「それじゃ、そろそろ帰ります」
「うん。ばいばい」
引き留める気は全くないようだ。フルーツありがとう、と形式的な礼を付け加えた由莉香は、昇が来るまで読んでいた本を手に取った。それを邪魔したいわけではない。だが一つ聞きそびれていたことを思い出した昇が、本を読み始めた由莉香に語りかける。
あんたみたいな能天気には、一生分からないよ。伊耒がどうしてそう言葉にしたのか、昇には分からなかったのだ。だから彼は、伊耒がそう言った理由を由莉香に問うた。
由莉香は本のページを捲る。そして彼女は、抑揚のない声を大気に乗せた。
「拝野さんを実行犯にすれば、事件の解決は確かに困難になる。でも、本当に拝野さんは計画の通り実行犯になってくれるのかな?」
「それは…なってくれるんじゃないですか?」
「そうかな?絶対に裏切られないと言い切れる?自分と同じ目にあわせてやる。或いは、この計画を暴露して間野さんとの仲を取り戻そう。そう考えた拝野さんが、間野さんに密告する可能性は充分にあるんじゃないかな。勿論私は、彼女たちを知っているわけではないから、断言することは出来ないけれど。でもそうだね、私が稲田さんの立場だったら、彼女と同じように自分の手で実行していたかな。他人を信じきるなんて、私には出来ないから」
「まぁ、それは分かりますよ。でも俺だって、他人を完全に信じ切っているわけじゃないです。能天気なんて言われる筋合いは」
時々由莉香は、凄惨に唇を曲げることがある。もっともそれは、彼女に接したことのない人間には気付けない小さな変化だ。だが昇の眼はその時の彼女を、とても不吉な存在として映す。そして、近寄ることの出来ない暗闇の中で笑うその不吉な存在が、自分を小馬鹿にしているような錯覚すらも覚えるのだ。
「じゃあ君は、少しでも白沢さんを疑ったのかな?」
「えっ?」
全く予想していなかった質問に、反射的な疑問符が出た。昇が梓紗を無実だと思ったのは、彼女の性格と自身の勘によるものだ。そして彼女を無実だと信じた昇は、それ以降一度も彼女を疑っていない。
しかし、それが何だと言うのだろう。犯人が伊耒であることはもう分かっている。今更何を言っているんだ、と昇は思いつつも、疼く嫌な予感が消えない。
「おかしいとは思わなかった?君は白沢さん本人からプールから居なくなった理由を聞いているのだろうけど、それにしても、あまりにタイミングが良すぎないかな?君の聞いた答えは、本当に今日でなければならなかったことなの?そして30分も掛かることなの?」
「いや…いやいやいやいや。何、言ってるんですか?白沢さんがわざと疑われるように仕向けたと、由莉香先輩はそう言っているんですか?そんなの何のメリットもないじゃないですか」
「これはあくまで、仮定の話だよ。白沢さんは、この事件が今日起こることを知っていた。ただこの事件を自分が告発したところで、ほら話と一蹴されることは目に見えている。それに、嘉納さんや稲田さんに目を付けられてしまう。だから彼女はわざとプールから長時間居なくなり、稲田さんが自分の机に財布を入れるよう誘導した。こうして自分が疑われる状況を作り上げた彼女は、気弱と認識されている自分の性格を利用し、間野さんに対抗出来そうなお人よしの君と、君の友人を探偵役として引き摺りこんだ。彼女の目的は事件の解決と、そうなることで起こる三人組の仲違い。そして今彼女は、犠牲者を演じながら心の中でほくそ笑んでいる。全てが上手くいった、と」
荒唐無稽の戯言。一笑に付すべき与太話。無理やりなこじつけ。乾いた唇でそう茶化そうとしたのだが、昇の口から言葉は出てこなかった。
「私はこんな風に、全ての人間をとりあえず疑って生きている。きっと、稲田さんも似たようなものだと思う。勿論君も人を疑いはするのだろうけど、その濃度は私より遥かに薄い。それが私のような人間には、能天気に映るのかな」
「…はは、疑って生きているって、何かちょっと厨二的な感じになりましたね」
昇は辛うじてそう言い、由莉香の部屋と廊下を隔てる扉のドアノブを捻る。その彼の背中に、由莉香はもう一言かけた。
「でも今回の事件は、そんな君だから解決したのだと思うよ。私だったら、白沢さんを助けたりはしない。面倒事に関わるなんて、嫌だから」
「そうなんですかね。そうだと……良いんですが」
昇は振り返らずにそう言い、礼を言って由莉香の部屋から出て行った。
翌日。
教室には、楽しそうに会話をしている浩太と梓紗の姿があった。いつもの昇なら、その光景に頬を緩ませて会話に入るだろう。だが、昨日の由莉香の言葉が彼に一抹の不安を抱かせ、大人しく自分の席に座る。
梓紗がプールから居なくなった理由は、恋文の推敲のためだった。心配性で繊細な彼女は、恋文を渡そうと思っていた四時限目一杯まで推敲に励みたかったと言う。だからいけないと思いつつも、四時限目の大半をトイレに閉じこもってその時間に充ててしまったらしい。
また、このことを誰にも話さなかった理由として、恋文を渡した相手に迷惑を掛けたくなかった、アリバイ作りと思われる可能性もあった、と挙げている。
何とも白沢さんらしい理由だ。昨日この話を聞いた時、昇はそう納得した。疑いなど、ミリっぽっちも浮かばなかった。
だが、今は。
昇は頭を振り、頬を軽く叩く。授業が始まる前の教室はいつもと変わらず、昨日起こった事件はこんな平常によって記憶の片隅に追いやられていくのだろう。ただ、三人組はいつも通りというわけにはいかない。春香は一人でスマフォを眺めているし、八代と伊耒は所在なげに欠伸を噛み殺していた。
うだうだと考えるのは、どうにも性に合わない。昇は席から立ち上がり、梓紗と、そして彼女から恋文を貰った浩太の会話に交ざった。
由莉香の言っている事は分からないわけではない。能天気といわれても、仕方ないのかもしれない。だが昇には、梓紗と浩太がとても幸せそうに見える。この笑顔が、偽物ではないと信じられる。
なら、それでいいんじゃないかな。
難しい思考を捨てて、昇はただそう思う。そして彼は二人の幸せを願い、いつもどおりのむさ苦しい笑顔を見せつけて祝福するのだった。
いろいろ省いてこの文字数です。そして推理は穴だらけです。どうしようもない、しょうもなさです。
この小説を見て頂いた方に感謝です。