捨てないで
捨てないで
私が最初に覚えた生徒の名は、「物干し竿」でした。もちろんこれは本名ではなく、ニックネームなのですが。
何故、人でもない、どちらかというとマニアックなあだ名がこの生徒につけられたのか、それは、彼の性格というか性癖からなのでした。
本名は「久男」といい、何かと物を欲しがる性格から、物を欲しがる久男→物欲し久男→物干し竿、となったのです。
彼のこの欲しがる行動は常軌を逸しており、消しゴムやカバンといった学校の用具などは当たり前で、靴下や肌着、はたまた残した給食と、あらゆる物を欲しがったのです。見かねた私は、ある日の放課後、久男くんを職員室に呼び出したのです。
無表情で、彼は姿を現しました。
「いったい、どうしたんだ? どうしても欲しい物があるのなら、人様におねだりするんじゃなくて、親に頼むのが常識だろ」と、叱ったのですが、久男くんはだんまりを決め込んで、一言も、それこそ単語のひとつも、発しませんでした。それどころか、久男くんは明らかな悪意をその目に宿し、キッと私を睨み返していたのです。
私はまだ教育実習生で、しかも一週間前に赴任してきたばかりなので、久男くんに舐められているのだと思い、つい語調を荒げてしまいました。
「先生の話しを聞いているのか!」
それでも久男くんはじっと睨んだまま答えてはくれませんでした。
他の先輩教師たちに相談してみたのですが、「五年生だからね。しかもあの子は母子家庭だから、まあ、ちょっとした反抗期じゃないですか? ほっとけばそのうち治りますよ」と、言うだけで本気で相手をしてくれません。
彼の性格はどうなのか、それを調べるにはクラスメイトに聞くのが一番だと思い、ひとりひとりに久男くんのことについて尋ねました。
「二週間くらい前からかな、今みたいになったの。性格? 昔はよかったんだけど」
「他人の私物を取って、呪いでもかけてるんじゃないの。気持ち悪い」
「久男くん? あまり話したことないからわかんない」
「あいつはあまり遊びまわらないからな~。でも昔は付き合いもよかったんだけどね」
「この間、ヤツとケンカしたよ。先生が来る前日くらいだったかな。ケンカの理由? なんだったかな、ボクが何か言ったはずなんだけど、思い出せないや」
「久男くんのことはよく知らないんだけど、昨日の放課後、腕にいっぱいの花を持って帰るのを見ました」
生徒たちに話を聞いたのはいいのですが、さっぱり的を射ません。
久男くんの性格、例の悪癖、その謎はさらに深まるばかりでした。しばらく観察することにして、自分自身で見極めようと決めました。
久男くんの、物を欲しがる行動は、日を追うごとにひどくなっていきました。
そんなある日、いよいよ事件が起こってしまったのです。
クラスの生徒のひとりが、給食に出てきたキノコを、食べきれないといって捨ててしまったのです。それを見た久男くんが、「捨てるな!」と叫びながらその生徒に殴りかかったのです。
その日の放課後、私は久男くんを呼び出しました。傍観していた私にも責任があると思い、それほど口調は荒くしませんでしたが、久男くんは何も答えてくれません。例のだんまりです。そして、あの眼。
久男くんは私が赴任して来たときよりも少し痩せたのかわかりませんが、そのせいで、私を睨みつける目に陰鬱さというか鋭さが加わり、これはいよいよどうにかしないと、取り返しのつかないことになるぞ、と私は不安になりました。
強く問いただしたり優しく諭したりと、飴と鞭を使い分け、私の身の上話を聞かせて親近感を持たせようとしたり、イロイロ努力をしましたが、どれもうまくいかず、あいかわらず鋭い目を投げつけるだけでした。
これはやっぱり自分が舐められているのだ、と腹が立ってきて、ついに、手を出してしまったのです。
「物干し竿」に暴力をふるって一週間が過ぎた。私は彼のことを無視しつづけました。それは気味悪がった生徒たちも同様で、「物干し竿」は完全にクラスで孤立していました。しかし、私の中では、いつまでもあの出来事がわだかまりとなり、しこりとなって、心に覆いかぶさっていたのです。孤独な「物干し竿」を見ていると憐れに感じ始めました。
よくよく考えてみると私も大人気ない。ゆっくりと時間をかけて打ち解けてくれるよう努力をすればよかったのでしょうけれど、教育実習生という立場が、あせりを生んだのかもしれません。
とにかく謝ろう、それから、再スタートしよう。そう思い、私は久男くんの家へ足を運びました。
三階建てのアパートの二階に久男くんの家はありました。
私はドアの前に立ち、今度は絶対に腹を立ててはならない、と心に誓ってチャイムを鳴らしました。
するとすぐに、奥からバタバタと足音が響いてきました。
勢いよく開けられる扉。中から久男くんが出てきました。
彼は最初、満面の笑みを浮かべていましたが、私の顔を見たとたん、いつものギスギスした目つきに変わりました。その変化に少しは驚きと、やはり私は嫌われているのだ、という確信を得、それでもにこやかに接しました。
中へ這入るとまず、あまりの綺麗さに驚きました。壁や床、台所、どこもかしこも毎日磨いているかのようにきらめいていました。ちらりと見えたお手洗いも、変わらぬ美しさ。本当に人が住んでいるのかと疑わしくなる清潔感。
私は久男くんに促され、リビングに腰をおろしました。そして、テーブルの上にある色とりどりのプリムラの花を眺めながら、切り出したのです。
「この間殴ってしまって悪かった。まずはそのことをどうしても謝りたかったんだ」
「…………」
「本当に綺麗な家だ。お母さんはよっぽど綺麗好きなんだね。偉いお母さんだ。ここまで出来る人はそうそういないぞ」
「…………」
「で、そろそろ聞かせてくれないか? 君の、物を欲しがる理由を」
「……ために……」
「うん?」
「生きるために必要なんだ!」
「それは、どういうこと?」
「…………」
「先生は久男くんの味方だ。決して、裏切ったりしない。君のことをもっと深く理解し、先生と生徒という関係じゃなく、お友達になりたいんだ。だから、な? 正直に話してくれ」
「三週間前」やっと久男くんが口を開いた。「お母さんが出ていったきり帰ってこないんだ! 大人の男がお母さんを連れていったんだ。でも、絶対に帰ってくる。だから、いつ帰ってきてもいいように、毎日、毎日、お母さんの大好きだった花も用意して、部屋を……」
「…………」
「物をなくしたりしたら怒られたんだ。家計がきびしいってたたかれたんだ。そんなお母さんだったけど、世界で一番綺麗な笑顔を、ぼくだけに見せてくれた! ご飯も、勉強道具も、自力で手に入れるしかなかった。お母さんがいつ帰ってきてもいいように、ぼくは、ぼくは……」
●
帰り道、私の足はとてもふらついていた。あまりの衝撃に呆然としていた。
脳髄の中で繰り返される映像。
物をもらったときの久男くんの笑顔。綺麗な家。テーブルの上の花。痩せていた頬。私――いや、大人の男に対する目つき。
通り過ぎる人たちが、大声を上げる私を不思議そうに見つめる。
それでも……。
私は持てるちからのすべてを使って、久男くんを救ってやりたい、ただその一心で、叫び続けた。
了
ある実話をもとにしたお話しです。『せんせい あのね』という本を御存じでしょうか。小学生たちの告白。そこにあるのはほとんどが楽しいものですが、中には、こういう境遇の子もいるのだ、と改めて知らされました。エゴの犠牲者はいつも子供。このままじゃあダメですよね。
次は『穴地獄』か、シチュエーション・サスペンスの『脳壊ルーム』で。
あんりでした。ありがとうございます。




