あなたにぴったりの靴
女が一人、薄暗くなり始めた道を歩いていた。
彼女は、靴作りを生業としている。
九つの年に、故郷から山を三つ越えた大きな街の工房に弟子入りして、早十年。
それから一度の里帰りもせずに懸命に靴の制作技術を学び、師匠も太鼓判を捺すほどの立派な職人へと成長した彼女は、後継者のいなかった工房を受継ぐ予定であった。
――かつては。
結局、女はとある事情で十年過ごした街を去ることになり、一人徒歩で故郷を目指していた。
「ああ、しまった……」
女はすっかり日の落ちた辺りを見回し、はあとため息をついた。
彼女がいるのは、鬱蒼と木々が生い茂る森の中だ。
本当は、日が落ちる前にこの森を抜けてしまい、その先にある街で一泊するつもりだった。
だがこの日、森の手前の街では大きな祭りがあって、街道に人が溢れていて思ったように進めなかったのだ。
女は仕方なく、背負っていたリュックからランプを取り外すと火をつけた。
これから闇に沈む森の中を、小さなランプの灯り一つで歩き回るのは危険である。
狼や熊など、人間を襲う獣がいないとも限らないのだ。
女は野宿をする場所を決めるため、あるものを探し始めた。
「……あった」
それは、間もなく見つかった。
随分大きな井戸である。
しかし、女は飲み水の確保に便利だからと、井戸の側を野宿の場所に選んだわけではない。
そもそも、彼女が見つけたのは、底に水をたたえていない枯れ井戸だ。
もう何十年も使われた形跡はなく、すっかり苔生して、石造りの壁にはびっしりと植物の蔓が絡まってしまっている。
ランプをかざしてみても底までは灯りが届かず、いったいどれほどの深さがあるのかも分からない。
ただ小石を落としてみれば、時間差でコーンと響いて返ってくる音があり、底にはやはり水がたまっていない――つまりは確かに枯れ井戸であることが分かった。
女はこの場所で夜を明かすことに決め、背負っていたリュックを井戸の側に置くと、周囲の木々の根元に落ちていた枯れ枝を薪に火をつけた。
それから、井戸の縁をコンコンと二度、扉をノックするように叩くと、独り言のように呟いた。
「こんばんは。一晩、お世話になります」
――枯れ井戸の向こうには魔物がいる。
そう彼女に教えてくれたのは、母方の曾祖父であった。
その昔、地上の闇には魔物が跋扈して、人々の生活を脅かしていたのだという。
やがて神通力に優れた一人の青年が立ち上がり、世界中の魔物を排除しつつ、地道に結界を張って回るという途方もないことを成し遂げ、神の使者――神子と呼ばれるようになったとか。
彼が張った強固な結界は、いかに力の強い魔物といえど越えてやってくること不可能。
それができるとしたら、神子をしのぐ力を持つと言われている魔物の長ただ一人。
だが、魔物の長は地上にも人間にもまったく興味がないらしく、逆に配下が起こす面倒事を抑制できると、神子の結界を奨励するほどだったとか。
以降、魔物が人間の前に姿を現すこともなくなり、時代の流れとともに人々は魔物は想像の産物だと思うようになっていったのだという。
――先祖は偉大なる神子に仕えた勇敢な騎士であり、由緒ある家系なのだ
女の曾祖父は、繰り返し幼い彼女にそう話して聞かせた。
しかし、彼女が物心つく頃には百歳を越えていた曾祖父は、父母曰くすっかりボケてしまっていたので、誰も彼の話を本気にはしていなかった。
そもそも、何故由緒正しき勇者の末裔達が、しがない田舎で貧乏暮らしをしているのか。
そんな疑問を打つけられると、曾祖父はいつも決まって
「わしの三代前のクソジジイが大酒飲みで、財産を全部酒に換えてしまったからじゃ!」
と、さも悔しそうに唾を飛ばして喚くのだ。
しかし、彼のひ孫である女にとって、一族の過去の栄光などどうでもよかった。
ただ、曾祖父から聞かされた話で彼女がたったひとつだけ忘れられないことがあった。
それこそが「枯れ井戸の向こうには魔物がいる」という話である。
魔物の支配する世界は、人間の世界の裏側に位置するらしい。
大昔に神子が張った結界で二つの世界は分たれてしまったが、実は矮小な魔物には人間の気しか糧にできない種類のものもいるのだとか。
完全に人間界からの空気の流れまで遮断されてしまうと、そういう類いの魔物はたちまち死滅してしまう。
種の全滅はさすがに黙認できなかったらしい魔物の長は、結界の設置についてはとやかく言わない代わりに、神子に対してある条件を突きつけた。
曰く、各地に通気口を作らせろとのこと。
喜んだり憤ったり嘆いたり笑ったりという感情の起伏によって放出される人間たち気を、双方の間に貫通させた穴を通して魔物の世界へと取り込もうというのだ。
その条件を神子側が呑んで作られたのが、曾祖父曰く枯れ井戸なのだという。
なるほど、だからこんな誰も住まないような森の奥に、ぽつんと不自然に枯れ井戸があったりするのだ。
水が欲しければ、井戸から数歩の所に清らかなせせらぎがあるのだから、それで充分のはず。
曾祖父の話では、動物的感覚が鈍くなった人間には感じることはできないが、井戸の底から滲み出る魔物の気配を恐れて、動物達は通気口代わりの枯れ井戸には近寄らないらしい。
だから、その側で野宿をすれば、夜中でも狼や熊などに襲われる心配がないというのだ。
その際、井戸の向こうに一言挨拶をしておけば、気が向けば魔物が気配を強めて守ってくれると曾祖父は言った。
ただし、もしも名前を聞かれても決して教えてはいけないとも言い聞かされた。
名前を知られると、井戸の中へ引きずり込まれるとも……。
女は、今もまだ曾祖父の話を盲目的に信じているわけではない。
ただ、幼い頃から確かに枯れ井戸は身の回りにたくさんあって、家で飼っていた犬や猫もそこに近づきたがらなかったのをよく覚えている。
魔物が実在するのかどうかなど本当のところは分からないが、暗い森の中で無事朝を迎えられるようにという、おまじないくらいにはなった。
だから、女は井戸の中から返事が返ってくることなど、まったく期待もしていなかった。
ところが――
『ほう。酔狂な人間もいるものだな』
艶やかでいて低い美声が辺りに響いた。
驚いた女は、きょろきょろとあたりを見回す。
だが、たき火で照らし出される周辺に、人間はおろか動物の姿も見えない。
『こちらに声をかけてきたのは、お主が初めてだ』
「――え……?」
どこか面白がっているような声が、またわんわんと石壁に反響しつつ女の耳まで届いた。
それは、確かに傍らの枯れ井戸の中から聞こえてきた。
「あ、あの……」
女は慌ててランプを掴み、井戸の底を覗き込んだ。
だが、やはり深すぎて底まで光が届かず、声の主の姿は確認することができない。
しかし、相手からは女の様子が見えているらしく、低い美声はくつくつと笑って『小娘よ、あまり身を乗り出すと落ちるぞ』と注意した。
『お主、名はなんと申す?』
「……お耳を汚す賎しい名にございますので、控えさせていただきます」
女は咄嗟に曾祖父の言葉を思い出し、自分の名を教えなかった。
しかし、相手はそれに気を悪くした様子はない。
『お主はこちらとの付き合い方をよく心得ているな。面白い』
むしろ褒められて、女はほうっと一つ安堵のため息をついた。
ただし、曾祖父は枯れ井戸の向こうから返事が返って来た時の対処法までは伝授してくれていなかったので、この後どうすればいいのかわからず、ほとほと困った。
ひとまず得体の知れない相手の機嫌を損ねないようにと、堅苦しすぎるほど丁寧な口調で答えたが、どうやらそれは正解だったようだ。
『若い娘がこんな時間に一人でどうした』
高慢な物言いは僅かになりを潜め、代わりにこちらを気遣うような問いが井戸の底から上ってきた。
井戸の底の声の主が本当に魔物なのかどうかなんて分からない。
もしかしたら、底の方に横穴があって地上に繋がっていて、誰かが入り込んでいるだけかもしれない。
だが、すっかり辺りは暗くなり、段々と心細くなってきた女は、話し相手を得た事をどこか嬉しく思っていた。
彼女が正直に、旅の途中で森に差しかかり明るい内に出られなくなってしまったのだと告げると、『ふん、愚かよの』との冷たい言葉とは裏腹の、どこか苦笑するような穏やかな声が返ってきた。
「面目ございません。今宵、この場で夜を明かすことをお許しください」
どうせ見えない底を覗くのをやめ、ランプを傍らに置いて井戸の縁に凭れた女がそう請うと、『よかろう』と鷹揚な返事が帰ってきた。
『これも何かの縁だ。お主の眠りが脅かされぬよう、今宵一晩獣達を遠ざけてやろうではないか』
「ありがとうございます」
『その代わり、眠るまでの間、しばし我の話し相手になれ」
「私でよろしければ――」
そうして、女は井戸の底の声に問われるまま、ぽつりぽつりと自分の身の上を話始めた。
九歳で靴職人に弟子入りした女は、めきめきと腕を上げて師匠に可愛がられた。
師匠には彼女と同い年の一人娘がいたが、靴作りにはまったく興味を持たず、弟子である女が将来工房の後継者となるよう話が進んでいた。
ところがある時、師匠の娘が流れの靴職人と恋に落ち、そのまま結婚した。
とたんに、師匠は娘婿に工房を継がせたくなった。
女は、別に工房経営者になれずとも職人として働かせてもらえればいいと思っていた。
しかし、もともと女癖の悪かった男は、あろうことか工房で彼女に手を出そうとしたのだ。
そして、それを目撃した師匠の娘は、夫ではなく女の頬を打ったのだった。
――この、泥棒猫!
と、お馴染みの台詞を喚き散らしながら。
女と師匠の娘は、姉妹のように育ってきた。
遠く親元を離れた寂しさも、彼女と一緒にいると忘れることができたのに。
ふらりと現れた男のせいで、そんな関係は脆くも崩れ去ってしまった。
『女の友情など儚いものよの』
「そうですね。さすがにショックでした」
さらに女がショックだったのは、師匠もその妻も、誰も自分の言葉を聞いてくれなかったことだ。
浮気しようとしているところを目撃されてしまった男は、自分は誘惑されたのだと言い訳した。
女の反論は聞き入れられず、工房の風紀を乱す者は置いてはおけないと、一方的に解雇を言い渡された。
『お主、よくおめおめと引き下がれたものだ。悔しくないのか』
女がされた仕打ちを聞いて、井戸の底の声は呆れたように、どこか憤慨したようにそう言った。
それに、女は「まあ、悔しくはありましたが」と苦笑した。
傷ついたし、腹も立った。
だがそれよりも、十年もの間実の親のように慕ってきた師匠やその一家に、それ以上幻滅したくなかった。
だから、黙って身を引いた。
それに、悪い事ばかりではなかった。
工房を解雇されることになった女は、これから先の身の振り方に悩んだ。
十年を過ごした大きな街で、別の靴工房に雇ってもらえるよう頼んでみるか。
師匠一家と顔を合わせるのが辛ければ、隣街で職を探すか。
あるいは——この十年間、一度も帰らなかった故郷の村に帰るのか。
女の故郷はこれといった特産もない小さな村で、靴の工房を開いたとしてもほとんど商売にはならないだろう。
それに、一人前になるまで帰ってくるなと言って女を送り出した父に、工房を解雇されたなどと言うと、二度と帰ってくるなと勘当されてしまうかもしれない。
それでも、師匠一家の仕打ちに打ちひしがれていた女は、一年ぶりに実家に宛てて手紙を出した。
これまでも何度も手紙を出したが、返事はいつも母から。
だが今回、異例の早さで返ってきた手紙は、父からだった。
父は、「帰って来い」と書いてきた。
師匠一家の仕打ちに激怒し、手紙には「迎えに行くからから待っていろ。やつらを怒鳴りつけてやる」とまで書かれていた。
女は、厳しい父が自分を想いやってくれていると知って嬉しく、けれど十年間世話になった師匠一家との別れをこれ以上悲しいものにしたくなくて、すぐさまもう一度父に宛てて手紙を出した。
自分できちんと別れを済ませてから帰ります。
できれば途中まで迎えに来てください。
早く、会いたいです
と。
その想いを汲んだ父からも、すぐさま了承の手紙が帰ってきて、父と娘は十年ぶりに途中の街で落ち合うことになった。
その約束の場所というのが、今夜女が野宿することになったこの森を抜けた先であった。
本当なら日が落ちる前に森を脱し、夕刻父と会えるはずだったのだ。
思いのほか手前の街で手間取ってしまい、父を待たせているという焦りで迂闊にも森への突入を強行してしまったというわけだ。
『この森には、熊も狼も出るぞ。我がいる井戸を見つけられなかったら、食い殺されてしまっていたところだ。もっとよく考えて行動せよ』
「ごもっともです。あなた様にお会いできて幸運でした」
井戸の底からのお説教に、女はくすりと笑って答えた。
それに『うむ』と満足げな返事が返ってきて、余計におかしくなった。
十年間の結末は悔しく納得のいくものではなかったが、厳しい父がその間もちゃんと自分を想ってくれていたことを知った。
父と途中で落ち合うようにしたことで、ここまでの道すがら心の整理をつけることができ、これから実の家族のもとで頑張って生きていこうと前向きな気持ちにもなれた。
ちょうど故郷からは目出度い知らせも届いていた。
一つ年下の従妹が男の赤子を生んだらしいのだ。
その出産祝いにと、女は工房を出る最後の夜に小さな小さなベビー靴を一足作った。
師匠も少しは後ろめたい思いがあったのか、別れ際にいくらかお金を持たせてくれたので、家族にはそれで土産を買って帰ろう。
靴作りの技術は全て学んだし、あとは自分でセンスを磨いて作品を売り込むしかない。
前向きに考えれば、それはこの先自分の頑張り次第で可能性は無限にあるということだ。
実家の一角を工房にして靴を作り、それが村の中では売れないのなら、周辺の街まで売りに行こう。
いいものさえ作れば、きっと誰かの目に留まるはず。
お忍びの国王陛下に靴を気に入られ、王室御用達の仲間入り――なんて夢も、見るだけならタダだ。
とにかく、もう師匠の顔を立てて遠慮する必要も、古い考えとやり方に押さえ付けられることもないのだ。
そう考えると、師匠のもとを追い出されたのはかえってよかったのかもしれない。
それを告げると、井戸の底からは『このお人好しめ』と呆れたような声が返ってきたが、女は何故だか労られているように感じて頬を綻ばせた。
『身勝手で浅ましい連中には、いつか必ず天罰が下るだろう。その時、ざまあみろと笑ってやれ』
「ふふ……そうですね」
枯れ井戸の向こうのよく分からない存在が、自分を思いやってくれている。
なんとも不思議で奇妙で、それでいてとても胸が温かくなった。
だが、平穏な時は長くは続かなかった。
――ガサッ、ガサガサ……
辺りが完全に闇に覆われた頃、何かが草を掻き分ける音が聞こえてきた。
ビクリとして、女は周囲を見回した。
狼や熊では、ましてや可愛い野うさぎなどではない。
何故なら、いくつものランプの灯りが木々の向こうでゆらゆらと揺れているのが見えるからだ。
けれど、女と同じように森を通り抜ける旅人というわけでもなさそうな雰囲気。
女はとっさにたき火に土をかけて消したが、すでに遅かったようだ。
ガサガサと何人もが草を掻き分けて、こちらに近づいてくる音が迫ってくる。
女一人で夜の森に分け入ったのを見られたのか、相手はおそらく碌でもない連中だろう。
とたんに身の危険を感じた女は、慌てて荷物を背負おうとした。
しかし私物を詰め込んだリュックは重く、これを背負って逃げてはすぐに追いつかれてしまう。
女はやむなくポケットに財布があるのを確かめてから、従妹の子へのベビー靴と、師匠にもらった小銭の袋だけを引っ掴んで立ち上がった。
そして、井戸の底に向かって早口で言った。
「申し訳ありません。ここを離れねばならなくなりました」
『おい、どうした?』
「少しの間でしたが、お話できて嬉しかったです」
それは社交辞令ではない。
彼との会話で女は気持ちが軽くなり、その思いやりのこもった言葉に癒されたのだ。
女は心からの感謝を告げ、そして今ここで命も資金も奪われるわけにはいかないと思った。
「ありがとうございました。さようなら」
『――おい!?』
女はそれだけ言うと、枯れ井戸から離れて駆け出した。
人の気配がやってくるのとは逆の茂みに飛び込んで、必死に森の中を走った。
闇に包まれた森の中は真っ暗で恐ろしいが、それよりも背後から迫る人の気配の方がよっぽど恐ろしかった。
しかし、相手方の方が一枚上手であったようで、必死の逃走も虚しくすぐに追いつかれてしまった。
「――きゃっ!」
さらには木の根に足を取られ、その場に転んでしまった女の上に、追いついた男がのしかかる。
「――ひっ……」
仲間の男の掲げたランプの灯りで、ギラギラとした視線と刃物の切っ先が闇に浮かび上がった。
案の定、どう見てもならず者という風情の男達が四人。
卑下た笑みを浮かべ、土の地面に倒れ込んだ哀れな女を見下ろしている。
森に潜む獣よりも、枯れ井戸の向こうにいるという魔物よりも、もっとずっと生々しい恐怖を前にし、ついに女は絶望しかけた。
だが――
「げに恐ろしきは獣ではなく人間よ。平気で同族を裏切り、いとも簡単に傷付ける」
男達のさらに後ろから、そんな声が聞こえてきた。
艶やかで低い美声は、幻聴でなければ女が先ほどまで枯れ井戸を介して話し込んでいた相手のそれ。
しかも、石壁に響くようなわんわんとした雑音のない、生の声であった。
「うわっ……!?」
「な、何だ!?」
訝しげに声の主を振り返った男達が、一斉に騒ぎ始めた。
「ぎゃ……!」
「ひいっ!」
そして、ランプの光に浮かび上がった者の姿に悲鳴を上げた。
「神子とのいにしえの盟約により、我は地上のものに手出しはできぬ」
声の主はそんな事を言ったが、姿を現しただけでもう充分だった。
顔だけ見れば、それはそれは美しい青年だ。
白磁の肌と、完璧なバランスで配置された切れ長の目に高い鼻、薄い唇。
ただし、その口が動く度にちらりと見えるのは、獣のように鋭く尖った四本の犬歯。
何よりも、黒いマントに包まれた身体は熊のように巨大で、長いかぎ爪を生やした手がすっと伸びて、男の一人が持っていたランプをぐしゃりと握り潰した。
目の前にそびえ立つ畏怖に、男達は一瞬にして竦みあがり、みるみる顔を青くした。
いかに動物的感覚が鈍くなった人間でも、圧倒的な脅威を前にすれば回避しようと身体が動くらしい。
「ばっ、化け物だぁ――!!」
「うわああっ――!!」
男たちは口々にそう叫ぶと、ランプも刃物も何もかもほっぽり出して、どこかへ逃げて行ってしまった。
我武者らに走って、森の獣に襲われなければいいのだが。
そういう女も、声の主の明らかに人間とは違う姿に腰を抜かしてしまっていた。
「おい、小娘。大事ないか」
鋭い爪を携えた巨大な手が伸びてきて、意外に柔らかく女の腕を掴んで引っ張り上げた。
女はガクガクと震える膝を叱咤してなんとか立ち上がり、おそるおそる目の前の巨体を見上げて口を開いた。
「あ、ありがとうございます……」
「礼には及ばん」
曾祖父の言っていたことは本当だったのだろうか。
枯れ井戸の向こうには、本当に魔物がいたというのだろうか。
しかし、曾祖父の話では、魔物は神子の結界に阻まれて地上には出てこれないはずではなかったか。
それができるとしたら、神子をしのぐ力を持つと言われている魔物の長ただ一人……
「まさか……」
「何がまさかなのだ。それより、荷物を忘れておったぞ」
「あ……」
枯れ井戸の側に残してきたリュックを手渡され、女はその時ようやく自分の両手に何もないことに気づいた。
師匠にもらった小銭の袋と従妹の赤子の靴は、どうやらさきほど木の根に躓いて転んだ時に手放してしまったようだ。
慌ててきょろきょろと辺りを見回す彼女の前に、今度はずいっと小さな袋が差し出された。
小銭の袋も、どうやらこの魔物らしき男が拾ってくれていたようだ。
「か、重ね重ね、ありがとうございます」
「かまわん。そういえば、お主は靴職人だと申しておったな。これも、お主が作ったものか?」
「え?」
男の視線を追って、女は彼の足下に目を向けた。
地面の上では先ほどのならず者達が忘れていったランプが明々と辺りを照らしていて、魔物らしき男の足下もよく見えた。
そこにあったのは……
「そ、その靴は……」
「まるであつらえたように、我の足にぴったりだ」
黒いマントに隠されていたのは、立派な上半身からは想像も付かないような、子鹿のように貧相な獣の足。
その蹄の付いた小さな足先には、女が従妹の子のためにこしらえたベビー靴が装着されていた。
しかも、本人が言う通り、サイズもぴったりだ。
ふわふわのボンボリ飾りで足下だけほのぼのと可愛らしくなって、ますます上半身の厳つさとのギャップが激しい。
女は唖然として、相手の顔を見上げた。
美しい男は足を踏み鳴らし、「履き心地も実によい」とひどく満足げ。
赤子のデリケートな足を包むために、特別柔らかい布と革で縫い上げたのだから当然だ。
さらには……
――プキュ! プキュ、キュ、キュ!
「しかも、何やら愉快な音がするではないか」
「あ、あの……」
乳幼児用靴ではお馴染みの、歩く度に音が鳴る笛入りになっている。
そういうわけで、男が動くと足下からはとんでもなくキュートな音が上がるのだ。
そして、どうやら本人はそれをいたく気に入った様子。
「お主の靴を気に入った。差し支えなければ、これを譲ってくれぬか」
「も、もちろんどうぞ。助けていただきましたし……」
「そうか。できれば換えのものも欲しい。対価を支払うゆえ、他にもいくつか作ってはくれんか?」
「あ、よ、喜んで」
「うむ。我が履けばいい宣伝になるぞ。我の世界で商売させてやろうではないか」
「あの、あなた様は……?」
女の問いかけに、男は「我か?」と言って口端を引き上げた。
「――我は、この地上と対をなす魔物の世界の支配者だ」
超絶美形の魔物は立派な体躯を黒いマントで覆い、足下にはボンボリのついたラブリーな乳幼児靴。
女は自作の靴を国王陛下に献上する前に、なんと魔王陛下に献上することになってしまった。
人生とはまったく、どう転ぶか分からないものである。