◆3◆
よく晴れた気持ちのいい朝だった。
マルティナは二階へと続く石の階段を掃除している。村から雇われた農民は屋敷の掃除や給仕などの雑用が主な仕事なのだ。
領主の屋敷は要塞を思わせるような城壁はないものの、しっかりとした石造りの建物だった。籠城には向かないが、こんな田舎で今までにそのような事態に陥ったことはない。
窓から外を見れば、城壁がないおかげで遠くの景色が見渡せた。少し高いところから眺める緑の草原と、小さく見える村。
この階段の中間にある窓はマルティナのお気に入りの場所だった。
「トゥラララ……」
周囲に誰もいないのをいいことに、ついつい鼻歌交じりで階段を掃き掃除する。
ふと話し声が聞こえて外を覗くと、アンとジェシカがおしゃべりをしながら井戸の水を汲み上げているのが見えた。
話の内容はよく聞こえないが、どうやら騎士の中で誰が一番かっこいいか、という話題のようだった。その会話の中からライナス、という単語を聞き取り、マルティナはついつい眉間に皺を寄せる。
「どこがいいのよ……」
独り呟き、箒を握る手に力を込める。
きゃっきゃっと盛り上がる二人は、そのうち城から同行した使用人頭に見咎められて怒られているようだった。
それを見てくすくすと笑っていると、階上から睨むような視線を感じた。怒られる――咄嗟に感じたマルティナは恐る恐る見上げた。
「ライナス……」
そこにいたのは、三年前に見習いから騎士へと昇格した幼馴染のライナスだった。
彼とは父の元でいつも一緒に鍛錬や稽古をした仲だった。マルティナには勝てない、と誰もが尻ごみしていても、ライナスだけは毎回勝負を挑み、そして負け続けた。
八年前のあの日――マルティナが城を去ったあの日、ライナスはまた勝負を挑み、いつものように負けた。
「いつか必ず、俺が勝ってやる! だから城を出ても鍛錬を怠るなよ!」
そんなライナスの言葉にマルティナは救われた。
城を出ても――例え村に住むことになったとしても、友情は変わらないのだと思っていたのだ。彼が騎士へ昇進するまでは。
ライナスのこげ茶色の髪は、騎士になった頃から短く刈り込んでいた。彼が言うには、鎧を着る時に邪魔だからだそうだ。
そんなもの自慢にしか聞こえない。
簡素なシャツとブーツ、腰に剣を差していない姿から、今は休憩中だということがうかがえる。灰色の瞳は不安そうで、何か言いたげだった。
何を言いたいかは、マルティナにはだいたい想像がついた。
しばらく見つめ合い沈黙が流れる。その静寂を破ったのはマルティナのため息だった。
「何か用?」
マルティナは素っ気なく問う。
「マルティナ、話があ――」
「あたしはないけど、何よ?」
「その、謝りたくて……」
三年前の、あの思い出したくもない出来事を?
「何を謝る必要があるの? あたしが負けたこと? それともライナスが勝ったこと?」
マルティナは怒りをにじませつつも静かに問う。
そんなマルティナに睨まれたライナスは目をそらした。図星だったのだろう。
「もしあの時のことを謝りたいなんて言ってるのなら、あたしはライナスを一生許さないわ!」
「そ、そうじゃない。俺は……」
マルティナは過去に二度だけ泣いたことがある。一度目は父が死んだ時、二度目は――ライナスに初めて負けた時……
――三年前。
ライナスが騎士になったと嬉しそうに屋敷から村へと駆けてきた。二人が十五歳の時だった。
「ティナ、もう一度勝負を挑みたい!」
剣を二本持ってきたライナスはそう言ってマルティナに勝負を挑んだ。
「いいわ、あたしの百勝目を、ライナスの騎士昇進祝いにしてあげる」
一度もマルティナに勝ったことがないライナスは狩りに来た折、五年ぶりにマルティナに勝負を挑んだ。現時点でマルティナの九十九勝中だった。
この五年間、騎士見習いとして日々精進し、体格も子供の頃と変わったライナスと、畑仕事や薪割りで身体を鍛えてきたわりに、女性らしい身体つきになってしまったマルティナとの勝敗は決まっていたも同然だった。
そして想像通り、ライナスはいとも簡単に勝利を収めた。
「ティナは女なんだから、いつか負けるって決まってたんだ」
ライナスはいつもの調子でマルティナに軽口を叩いたつもりだった。
けれど、少しばかり緊張していたのも事実。
「勝ったら伝えようと思っていたことがある……マルティナ、俺はお前がずっと好――」
「もう一度勝負よ!」
ライナスの一世一代の告白は、むきになったマルティナの言葉にかき消された。
「な、勝負はもうついただろ! それともまた負けたいのか?」
そして、格好が付かないと焦ったライナスは、二度も言ってはならない単語を口にした。彼がしまったと気付いた時、マルティナの頬はすでに濡れていた。
騎士として鍛錬に明け暮れたライナスは、そんなマルティナをどう扱っていいのかわからず、その場から逃げ去った――
それから三年の月日が経った。
ライナスの前で涙を流してしまったことが悔しくて、友達だと思っていた彼がそんな風に思っていたことに憤りを感じて、マルティナはずっと避け続けていた。
例えライナスとすれ違っても、話しかけられても、マルティナは何も答えなかった。気配を察すれば気付かれる前に逃げたこともある。
この時まではまともな会話さえなかった。
「マルティナ、俺は三年前ひどいことを言ってしまった。ずっと謝りたかったんだ」
「へえ、あたしは憶えてないけど、なんて言ったの?」
目を細めてじっと睨む。嫌味を言えば、ライナスはまた黙った。
マルティナは何も言わないライナスの存在を意識しながらも掃除をし始めた。
しばらくすれば彼は消える。いつものように。
けれど今回は違っていた。ライナスは階段を降りるとマルティナの横へ立つ。
「マルティナ――」
あの時から、ライナスはマルティナを『ティナ』と呼ばなくなった。幼少期のあだ名は父が死んだ今、ライナスの他に、もう一人の幼馴染であるジャスティンしか呼ぶ者はいない。
ティナと呼ばなくなってしまった彼は、きっと自分のことを見下しているのだろうとマルティナは感じていた。まるで村の男友達と同じだ。
彼らはどんどんマルティナを追い抜いていく。ライナスだけは違うと思っていたのに、そうではなかったらしい。
「本当にすまなかった。城を出てからもずっと鍛錬を怠らなかったマルティナに、俺は勝ったことが嬉しくて最低なことを言った。一度しか勝っていないくせに、自分でもおこがましいと思う」
ちらりとライナスを見れば、彼は真面目な顔をしていた。
「本当にすまなかった――」
ライナスはもう一度言うと頭を下げた。
予期せぬ出来事に驚いたマルティナは箒を持ったまま硬直した。
ずっと黙っていると、ライナスもその格好のまま動かない。
もしも誰かが通りかかれば……
例え騎士の娘であったとしても、今やマルティナはただの村娘だ。そんな彼女に、騎士が頭を下げているという不名誉な姿を目撃されてしまう。
そしてタイミングが悪く、石の廊下をカツンカツンと近づいてくる足音が聞こえた。
これでライナスは頭を上げるだろう――この場をどうしていいのかわからなかったマルティナは、少しほっとしながらライナスが動くのを待った。けれど彼は一向に頭を上げようとしなかった。
ライナスは、マルティナの許しを待っているのだ。