◆2◆
本当のところマルティナは踊りが得意ではない。しかし、言わなかっただけで踊れないわけではないのだ。
それなのにヴィンセントは、よりによって嘘つき呼ばわりした。
「嘘なんか吐いてないわ! 自分の秘密を、よく知りもしない人に言うなって……あなたがあたしに忠告したんでしょう! だから言わなかっただけよ!」
嘘を吐くことは騎士道に反すること。
だから、黙っていただけ。
それなのに――
「あたしは、嘘なんて吐いてない!」
憤りを感じてヴィンセントを睨んでいたら、しばらくの沈黙のあと彼は腕を壁から離した。
「じゃあ踊ろう、証明して」
「え……?」
ふいに両手を握られぐいと引かれた。勢い余ってヴィンセントの胸に飛び込むような体勢になってしまった。
「ちょっと……」
離れようとしたけれど無理矢理手を引かれ、二人は聞こえる音楽に合わせて月明かりの下でくるくると回り始めた。
ヴィンセントのリードはとても上手かった。
彼の足を踏むことなくスムーズに移動できる。まるで城の騎士を相手に踊っていた時のような、完璧なダンス。
マルティナが最後に踊ったのは城に住んでいた時だった。ダンスの心得のある貴族が相手だったので、足を出す位置もターンのタイミングも、誰と踊っても同じだった。
けれど、村人の踊りは城のものとは少し違ってアレンジがされており、タイミングが合わずに足を踏んだり、ぶつかったりを繰り返した。そして幼いマルティナは笑い物にされたのだった。
その時から自分の踊りは下手なんだと思っていた。
「なんだ、完璧じゃないか。きっと問題は男側のエスコートだな」
曲が終わり、息を切らすマルティナにヴィンセントは涼しい顔をして微笑む。体力の差を感じて少し悔しく思いながらも、マルティナは返事ができず、ただ息を整えていた。
ここまで完璧に踊れるとは思っていなかったけれど、そんなことは大した問題ではない。
マルティナはまだ怒りを静めたわけではなかった。
ふーっと長く息を吐くと、同じようにゆっくりと吸う。
顔を上げ、ヴィンセントをきっと睨みつける。
「ん、どうした? 俺に惚れたか?」
そして、思い切り振り上げた平手打ちをお見舞いした。
「ぐあっ!」
パン――と小気味いい音が、乾いた秋の夜空に響く。祭りの盛り上がりが最高潮に達した広場では、誰もその音に気付くことはない。
「い、いきなり何を――」
よろけるヴィンセントのその隙を見逃さず、マルティナは右手で拳を作ると、力の限り彼の鳩尾にめり込ませる。
金貨五十枚の価値があるらしい傭兵は、何も言えずその場に崩れ落ちて蹲った。
「謝罪を要求するわ、ヴィンセント! あたしを、マルティナ=ローレンスを嘘吐き呼ばわりしたことに対してね!」
マルティナはびしっとヴィンセントを指さすと、声高々に宣言した。
名誉を傷つけられたならば、それなりの報復を――これも騎士による鉄の掟である。
「……すまなかった。嘘だと言ったことは撤回する。許してくれるのなら……俺は何でもする……」
しばらくすると、ヴィンセントは声を絞り出して言った。
「まったく、驚いた……いや、まったく……」
ヴィンセントはマルティナの横にどさりと腰掛けると、腹部をさすりながらも、うわ言のように何度も呟いている。
マルティナに屈したことがそんなに悔しかったのだろうか。
「よりによってこの俺が……」
「いい加減にしてよ、女々しいわよ!」
「いや、まいった……そんで色々と納得した。これじゃ誰も手出しできないわけだな」
ヴィンセントはそんなマルティナをちらりと見ながら、素材が良いのに勿体ない、などとわけのわからないことを言っている。
「しかも、マルティナ=ローレンスねぇ……」
つい頭に血が上ったマルティナは、先程フルネームを名乗ってしまっていた。
一生の不覚……
今までは頭に血が上っても、引っ叩くか引っ掻くか、殴るか蹴るだけで済ませていたというのに。
「村の人には絶対言わないでよね!」
ヴィンセントには一度だけ、冗談だとしても脅されているのだ。
わかってるよ、と言いながら彼はくっくっと笑い続けている。本当に口を噤んでいられるのか不安だった。
焚き火はすでに勢いをなくし、軽く燻っている。広場の主役は城から共に来た吟遊詩人に変わっていた。
彼がリュートを爪弾きながら物語を唄い、踊り飽きた人々はそれぞれに腰を落ちつけながら、耳を傾けていた。
女神と人間の恋物語が終わると、今度は王位を簒奪しようとした哀れな王子の物語。
マルティナの耳にも透き通った歌声が風に乗って届いてきている。
彼の歌は昔、マルティナも城で聴いたことがあった。今となっては懐かしい思い出だ。
「……言っておくけど、あたし嘘は吐いていないから。黙ってただけよ。城から来たあたしを貴族の娘じゃなくて使用人の娘なんだって、村の皆が勝手に思いこんでるの。だって、聞かれたことなかったから」
誰にも問われなかったから、黙っていただけ――
自分の名誉の為にそれだけはきちんと伝えておく。
もしも貴族の娘だと問われれば、マルティナはそうだと答えていただろう。騎士団長だった父の、ローレンス卿の娘だと恥じることは決してない。
「わかってるよ。悪かったな」
ヴィンセントは遠くを見つめながら言った。
吟遊詩人の歌に聴き入っているのか、それとも何か別のことを考えているのか、彼の複雑な表情からは何も読み取れない。
「ヴィンセント?」
「――マルティナは城に帰りたいと思ったことはないのか? 自分の生まれ育った思い出の場所だろ?」
「そうね…………ヴィンセントは? 傭兵生活は長いんでしょ。あなたは家に帰りたい?」
「俺は――」
ヴィンセントは空を見上げた。真面目な顔で何かに想いを馳せている。
懐かしい故郷を想っているのだろうか。
「俺の故郷は――って、俺はマルティナに聞いたんだよ!」
ヴィンセントはやっとマルティナを見た。
「あら、惜しかったわ。もう少しでヴィンセントの秘密を知れたのに」
「質問に質問で返すのは良くないぞ!」
少し焦った顔で言うヴィンセントを見ていたらなぜか嬉しくなった。先程まで、彼がどこか遠くにいるように感じていたから。
隣に座っていたのにどうしてだろうか。なんだか不思議な感じだ。
マルティナはふふっと笑いだす。
「その笑顔は……反則だよなぁ」
ヴィンセントは微笑みながらも困ったような顔をする。
「ちょっとどういう意味よ? あたしは反則なんかしないわ、騎士道精神に反するもの!」
「ははっ、論点がずれてるよ」
マルティナが再び文句を言おうと口を開いた時、大きな音と共に花火が上がった。
途端にマルティナの関心はそちらに移る。
夜空に咲く大輪の花は魔術でしか作れない。城に滞在している火の魔術師からの贈り物だろう。
「わ、すごい。ヴィンセントは見たことある? これは魔術師が作った火の魔術なのよ!」
「そうみたいだな」
楽しそうに空を見上げるマルティナの横顔を、ヴィンセントは眩しそうに眺めている。
「あのね、あたしはこの村が好き。平和で時間の流れがのんびりしてて。中には退屈だって言う人もいるけど、あたしは大好きなの」
「俺もだ……。居心地が良すぎて、ずっとここに居たくなりそうだよ」
そうでしょう、と言いながら笑顔を見せるマルティナに、ヴィンセントもつられて笑った。
「あ、ねえ今の見た? 」
花火に視線を戻すと、マルティナは打ちあがる度に形を変える火の魔術を嬉しそうに見上げた。
「よりによって、あのローレンスか?」
ヴィンセントから笑顔は消えていた。
「いや、まさかな……」
小さく囁いたその声は、本人に届くことなく秋の風が連れ去っていった。