◆1◆
風は秋の香りを運び、過ごしやすい日々が続く。すでにヴィンセントが村に来て二週間ほど経った。
彼のお陰で畑も順調で、ジョンおじさんの腰も快方に向かっている。
髭も剃り髪も若干短くなって小奇麗になった彼は、二十三歳だと言われれば歳相応に見えた。初めて会った時はもう少し年上かと、マルティナは思っていたのだ。
「そういえば、そろそろ狩りの時期ねぇ」
ひらひらと風に舞う葉を見上げながら、リズおばさんが呟く。
おばさんが昼食を持ってきてくれたので、畑仕事をしていたマルティナ達は休憩を取ることにしたのだ。揃って木陰に腰を下ろし、赤く色づく木の葉を眺める。
「そうね、狩りの前に畑がなんとかなって、本当によかったわ」
「なんだマルティナは狩りもするのか?」
男らしいな、と感心するヴィンセントに、マルティナはそんなことしないわよと訂正する。
可能であれば、一度くらいはしてみたい気もするけれど。
「あのね、領主様は秋になると、騎士を引き連れてオネット村近くで狩りをするの。ほら、森があるでしょ? あたしはその間だけお屋敷で働いているのよ」
城から使用人を大勢連れてくる訳にはいかない。そのため、マルティナを含めた年若い娘はお屋敷で掃除や洗濯を手伝い、その分賃金を貰うのだ。
「そうだ、ヴィンセントもちゃんとした仕事先を探しているのなら、領主様に頼めばいいわ。傭兵なんだから、お金にならない畑の手伝いをずっと続けるよりもそっちの方がいいと思うの」
「はは、俺が城に行ったら寂しくなるぞ?」
「な、ならないわよっ!」
「どうだかな」
豪快に笑うヴィンセントにマルティナは落ち葉を投げつけた。それはヴィンセントに届かずにひらひらと舞っただけだった。
それから二、三日して領主と護衛の騎士達が村に到着した。
毎年恒例となっている狩猟と豊穣の女神ダイアナを迎える祭りは、必ず満月の夜に行われる。
領主が酒を振る舞い、村人が畑で採れた作物で料理を振る舞う。そして数日後、女神が帰る日に領主が狩りで得た肉を振る舞うのが慣わしなのだ。
「ねえねえマルティナ!」
アンがマルティナの隣に立ち、ジャガイモを手にとってナイフで皮を剥きはじめる。夜の祭りに備えて、村人達は大人も子供も朝早くから準備をしていた。
「どうしたの、アン?」
「うふふ、ヴィンセントって、男前よね。さっきタマネギの袋を運ぶの手伝ってもらっちゃった! すごく優しくて、それに笑顔がとっても素敵だわ。傭兵なんですって?」
マルティナは、きゃあきゃあと楽しそうに話す新婚のアンを不思議そうに見つめた。
「アン、ジャックはいいの?」
彼女は、それとこれとは別よ、と詫びれもなく言う。
「ヴィンセントはマルティナの好い人なの?」
「ぎゃっ」
手が滑って親指のうす皮が剥けた。出血しなかったのが幸いだ。
「アン! そんなわけないでしょう!」
「なぁんだ、マルティナの好い人じゃないなら村の女の子、遠慮しないわよ?」
遠慮? あれで本当に遠慮しているのだろうか……
ヴィンセントが村に来た頃は皆、傭兵という存在に少なからず不信感をあらわにしていたけれど、いつの間にやら彼の人当たりのよさに警戒心を解いていた。今ではすっかり誰もが声をかけるくらい人気者だ。
視線を巡らせば、ヴィンセントは村の男たちと共に準備を手伝っている。
そしてその姿を盗み見ながら囁き合ったり、彼に手伝ってほしいと上目遣いで話しかける女の子たちは、みんな笑顔で可愛らしい。
「……別に、遠慮しなくていいわよ。でも、きっと領主様と一緒に城に行っちゃうわ」
傭兵だもの、と呟くと、アンはこちらを見ながらつまらないわ、と頬を膨らませた。
「ずっとここに居られても困るわよ。冬になったら用なしじゃない」
マルティナは苦笑いでそう言うと、剥いたジャガイモで一杯になった桶をよいしょと持ち上げた。
よろよろと歩くマルティナを見つめていると、そんな彼女に気付いたヴィンセントが近づいてきた。
重そうに桶を持つマルティナは、今にもひっくり返しそうで危なっかしい。
「マルティナ、持――」
「邪魔よヴィンセント。今、大変なのよ。あたしの前に立たないでちょうだい!」
持とうかと尋ねる前に、マルティナはヴィンセントを威嚇した。
相変わらずの態度に、アンは思わず吹き出す。いくつになってもマルティナは強がりな女の子のままらしい。リリーさんが癇癪を起こすのも頷ける。
「そうね、村の女の子が一人残らず悲しむでしょうね……」
その中にマルティナを含めたアンは、言えば彼女が怒り狂うことを知っていて、聞こえないように小声で呟いた。
マルティナに置いていかれた哀れなヴィンセントは、クスクスと笑うアンに気付くとお手上げだと両手を上げる。
「また怒られた。どうしてマルティナは、いつもいつも男にいい格好をさせてくれないのかな」
「残念ね、マルティナはそう簡単にはなびかないのよ」
そう言うと、ヴィンセントはにやりと笑った。
「ふふ、あの娘って、可愛げがなくてとっても可愛いでしょう? だから、泣かせたら私が許さないわよ?」
「……なるほど、マルティナはいい友達を持ったもんだ。肝に銘じておくよ」
そんな会話など聞こえていないマルティナは、二人が遠くから見守る中、無事にジャガイモを鍋へと投入させていた。
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「すごい祭りだな……」
驚いたようにヴィンセントが呟く。
準備も終わり日が暮れかけた頃、村長が村人を集めて祭りの開催を告げた。
村の中心広場には、大きな焚き火が、狩猟と豊穣の成功を祈る為にと豪快に焚かれていた。その周りでは、村人や騎士の面々が踊ったり歌ったりとそれぞれ盛り上がっている。
女神ダイアナの前では農民も貴族も関係なく無礼講なのだ。
日が落ちてまた昇り始めるまで、この祭りは続く。
「こういうのは初めて?」
マルティナは隣に立ったヴィンセントを見上げた。
炎の明かりはずいぶんと遠い。月明かりだけでは彼の表情はあまり読み取れないけれど、その感嘆の声は本物だった。
「そうだ、マルティナを探してたんだ。こんなに暗いとよく見えないな」
そう言うとヴィンセントはマルティナの手を握る。
「踊りに行こう!」
「わわっ、ちょっと待って」
ぐいと手を引かれて数歩進むが、ヴィンセントの手からなんとか逃れる。
「踊るなら一人で行ってよ! っていうか、さっきまで入れ替わり立ち替わり、女の子に誘われてたじゃない」
それなのに、ヴィンセントは全ての誘いをやんわりと断っていた。せっかく誘ってくれる相手がいるのなだから、なにも暗闇の中を探し回ってまでマルティナを誘わなくてもいいではないかとさえ思う。
「マルティナがいいんだ」
「はあ? あたしは行かないわよ!」
ヴィンセントの誘いに即答すると、マルティナはぷいと視線をそらした。
「踊っていただけませんか、お嬢さん?」
誘い方が悪いと思ったのか、彼は次に片膝をついて手を差し出してきた。
先程、騎士たちが村の少女達を踊りに誘う際、同じ動作をしていたのを見た。彼女たちは喜んで手を取って踊っていたけれど……
「だ、だから行かないってば! あたしは絶対に踊らないわ!」
やれやれ、と立ち上がるとヴィンセントは腰に手を当ててため息を吐いた。
「なんだ、マルティナは踊れないのか」
その言葉にカチンとくる。
「違うわよ! 人前で踊るのが苦手なだけ! べつに、踊れないわけじゃないんだから! そもそも、踊りとか興味ないし! 全然、まったく!」
「その割にはよく見てるじゃないか。俺が誘われて断ってたの、どうして知ってるんだ?」
表情を読み取ろうと、ヴィンセントはマルティナに一歩近づく。
目を細め、意地悪そうな笑みを口元に湛えているのが月明かりで見えた。
……ということは、顔が真っ赤になって焦っているマルティナの表情も、ヴィンセントには見えているということだ。
「た、たまたまよ、たまたま! ちょっと自意識過剰なんじゃないの?」
「マルティナが健気にも見つめてくれていたら、俺だって自意識過剰にもなるよ」
「見つめてなんか――」
ないわ、と続けようとするが、思い返せば確かにヴィンセントを目で追いかけていたかもしれないと気づく。意識すればじわじわと恥ずかしさが込み上げてきた。
「だ、だから、その……」
うまい言い訳が見つからず、マルティナが一歩下がればヴィンセントはそれ以上の間合いを詰めながら大股で近づいてきた。
それを繰り返すうちマルティナの背中に建物の外壁が当たる。右か左に逃げようかと辺りを見回すと、ヴィンセントは逃がすものかと自身の両腕と壁でマルティナの退路を断った。
「ちょっと、なんの真似よ!」
目をそらしたら負ける気がして、マルティナはヴィンセントの顔を見上げた。
どうか、赤い顔と心臓の音に気づかれませんように、と祈りながら。
ヴィンセントはそんなマルティナの心を見透かすように囁く。
「踊れなくたっていいじゃないか。べつに恥ずかしいことじゃない。どうして嘘を吐くんだ?」
そして、片手を差し出しながら笑顔を向けた。
「ほら、手出せよ。俺が教えてやる」
「な、なんですって?」
「だから、俺が教えてやるって――」
嘘を、吐いた……?
誰が? ――あたしが?
マルティナの中で、何かがプツンと切れた。