◆3◆
革の鎧を着ているので解らないけれど、たくましい上腕二頭筋から察するに、羨ましいほどの胸板を持っているのだろう。
そう、マルティナが欲しても手に入らない引き締まった筋肉を、彼は持っている。
「よく大人しくしてたな、もういいぞ?」
しばらく見ていたら、よしよしと頭を撫でられた。
「それとも……何か続きを望んでいるのか?」
いたづらっぽく笑うヴィンセントの顔を見て、自分がどこにいるのかを意識したマルティナは、はっと気付いて離れた。
「あ、あなたが引っ張ったんでしょう!」
威厳を取り戻したマルティナは、急いで鍬を拾って立ち上がる。
「あなた、何者? 言っとくけど、この村を襲ってもたいしたものは手に入らないわよ?」
ヴィンセントは、鍬を構えるマルティナを驚いた顔で見上げたが、面白いものでも見たように口角を上げて目を細めた。
「襲いはしないさ、俺はただの雇われ傭兵だ」
「雇われ傭兵が、何でこんなところにいるのよ?」
「あーそれはだな……実は、逃げてきたんだ」
目を逸らしたヴィンセントは言いにくそうにしていたが、胡散臭そうに睨むマルティナをちらりと見上げると、観念したのかこれまでの経緯を説明し始める。
「西のある領主の元で戦に加わってたんだが、勝利を確信したあの馬鹿領主は俺の提示した金額を支払うのが惜しくなったらしい。んで、戦の混乱に乗じて背後から襲って来た。だから逃げてきたってわけだ」
「それはひどい話ね」
背後から襲うなんて騎士道精神に反する行いだ。
それから、ヴィンセントは追手を撒きながらも命からがらここまで逃げてきたらしい。
「怪我、してるの?」
ところどころにこびりついた血の汚れを見ながら尋ねた。
「俺の血じゃない……」
それを聞いたマルティナの顔に一瞬恐怖の色が浮かぶ。
「そ、それなら良かったわ。この村には医者はいないから……」
それに気付いたのかどうかわからないが、ヴィンセントは今度は自分で立ち上がった。 思ったよりも背の高い彼を見上げる。
男の人ってずるい。どうして誰もが女性よりも背が高くなるのだろうと思った。マルティナも背は高い方だが、彼は村の若者の誰よりも、きっと逞しくて背が高い。
一体、どんな鍛え方をしているのだろうか。傭兵と話す機会など後にも先にもない。あとでこっそり聞いてみようとマルティナは思った。「――で、いくらで雇われてたの?」
「は? ああ……まぁ、その……」
ヴィンセントは言いにくそうに頭をかく。
「何よ、言えないの?」
「金貨五十枚だ」
「……じゃあけっこう強いのよね?」
聞いておいてなんだけど、マルティナは金貨の価値をよく知らなかった。城に居た頃はお金という存在をあまり意識していなかったため、いまいち価値が解らない。
今マルティナがやりとりしている硬貨は銅の物が主だった。
きっと自分の腕に自信があるがゆえの提示金額なのだろう。
「ところで、この村で傭兵は雇わないか?」
「傭兵が必要な村に見える?」
ここは小麦畑と森しかない。医者にかかるには城へ行かなければならないとても辺鄙で平和で――退屈な村なのだから。
北の方の町や村には稀に盗賊が出ると聞くが、マルティナの知る限り、この村にそんなものは今まで現れたことがなかった。
「残念だけど、こんな田舎で傭兵の仕事はないわ。それに金貨一枚も出せないと思う。金貨なんて一度も見たことないもの。でも、領主様のお城に行けばあるかもしれないわね」
東に向かって馬で一日の距離を指さした。
「そうか……」
ヴィンセントはマルティナの示す方向を眺める。つられてマルティナも視線を向けた。
ここから見えるはずもない城に想いを馳せる。
十歳まで育った思い出の城。騎士見習いの男の子達と一緒に剣術や馬術の訓練をした遠い過去――
あの頃はまだ子供だったから、男でも女でも体格の差はあまりなかった。
天性の才能なのかどうかわからないが、マルティナは何でもうまくこなしていた。同年代の男の子たちの中ではいつも一番で、自分は大きくなったら父のように強くなるんだと夢見ていた。
あの頃は楽しかった。何の疑いもなく、自分が強くいられたから。自分が女だからと負い目を感じることもなかったから。
「そういえば名前を聞いていなかった」
急に尋ねられて現実に引き戻される。
「私はマルティナよ」
「マルティナ……かわいい名前だ」
ヴィンセントはにっこりと微笑む。
どこの男も初対面では同じことを言うのね、とマルティナは思った。
けれど、そこで笑顔を作ってお礼を言えるほど大人になりきれていない彼女は、代わりにぷいと顔を背けた。
「で、何で鍬を構えているんだ? いざとなったら身を守る為?」
「そうよ、あたりまえでしょう? あなた不審者だもの!」
そう言うとヴィンセントは急に噴き出して笑い始めた。ずいぶん長く笑い続けるので、鍬を持つ自分が恥ずかしくなってくる。
「な、なによ! 何がおかしいのよ!」
「お、お前……面白い、女だな……」
やっと話せるようになったヴィンセントはとぎれとぎれに言った。
「お、面白いてすって……」
初対面で、美しいとか可憐だと言われることは多々あるが、面白いと言われたのは初めてだ。
「ずいぶん無礼な人なのね!こっちだって、初対面で大笑いされるのは初めてだわ!」
「初対面で抱きついてきたのも、あんたが初めてだよ」
もはやヴィンセントは涙目だ。
顔がかぁっと赤くなるのが感じる。誤解されるようなことを言わないでもらいたい。
「あ、あれは違うわ! あなたが握手を求めてきたのかと思ったの!」
「握手なんて、騎士同士の挨拶じゃないか、城で働いていた経験でもあったのか?」
そう聞かれるとは思わなかった。
「父が……騎士だったのよ。それだけ!」
「騎士の父親がいて、なんだってその娘が村で鍬なんか持ってるんだ?」
「な、なんだっていいでしょ!」
どうしてこんな話をしてしまったのだろうか。誤解を解くために必死すぎて余計なことまで言ってしまった。
村の人もマルティナが城から来たことは知っているが、父親が騎士だった事はおじさんとおばさん以外は知らない。話せば、マルティナが貴族出身だという秘密が知られてしまう。
「とにかく、この村にあなたが満足する仕事はないわ。じゃ、さようなら」
ヴィンセントが飲んで空にしてしまった瓶を拾いバスケットに戻す。一度家に戻ってまた昼食を用意しなければならない。
それに、これ以上ヴィンセントと話していると、余計なことまで言ってしまいかねないと思った。
マルティナは踵を返すと家までの道を走るように帰る。
「待って、マルティナ」
ヴィンセントはあっという間に追いつくと、マルティナと並んで歩く。小走りなマルティナに対し、彼は大股で歩幅を合わせていた。
ここでも男女の体格の差を見せつけられた気がしてうんざりした。
「何なのよ!」
マルティナは振り向かずに叫ぶ。
「仕事を探しているんだ」
「だから無いって言ってるでしょ!」
「傭兵の仕事じゃなくてもいい。畑仕事でも――ほら、助けてくれたお礼もしたいし。何でもするから」
「ほんとに?」
助けたお礼、と聞いてマルティナは立ち止まった。
ジョンおじさんの小麦畑は、この季節の割に種植えが遅れていた。
先月、腰を痛めてしまたおじさんがまだ万全ではないからだったけれど、手伝うと志願した村の若者の好意をマルティナがすべて拒絶していたのが原因だった。
マルティナは唇に人差し指を当てて考え始めた。