◆3◆
時に、ライナスはとてつもなく頑固になる。
「行くって言ったら行く!」
「だめったらだめよ!」
ジャスティンとヴィンセントが出ていってからも、話し合いはずっと平行線のままだった。
「遊びにいくわけじゃないの、危険なのよライナス。心配なの!」
「それくらい、わかってる」
ライナスはうつむき、拳をぎゅっと握った。
「……確かに俺は騎士として未熟だった。油断して切られた。頼りないと思うティナの気持ちはよくわかる」
「ライナスのばか!」
マルティナの言葉にライナスは悔しそうに顔を歪めた。
「すまない……」
「ああもう! 心配っていうのは、そういう意味じゃないの」
「ティナは俺が弱いから心配なんだろう?」
「違うったら!」
マルティナはライナスから顔を背けるようにベッドの端に座った。
しばらく言うかどうかを迷ってから、やっと口を開く。
「……あたしのせいで、誰かが傷つくのが嫌なの。ライナスが切られた時、血が流れて、ぜんぜん止まらなくて、どうしたらいいかわからなくて」
この手が鮮血に染まった。怖かった。ライナスが死んでしまうと思った。
「……もう、二度と同じ思いはしたくないの」
震え出しそうな両手を強く握る。目を瞑ると、意識なく横たわるライナスの姿が鮮明に脳裏に浮かんでくる。
もう、あんな思いはしたくない。大切な人の死を見るのは嫌だ――
「ティナ……」
「ライナスが弱いって言ってるんじゃないのよ。旅は危険だってヴィンセントが言ってた。だから……」
「俺だって心配なんだ。ティナが俺を心配する以上に、俺だってティナのことが心配だ。俺が近くにいなかったせいでティナが傷ついたら、きっと一生後悔する」
振り返ると、ライナスは強い眼差しでマルティナを見つめていた。目の奥には彼のかたい決意が見てとれる。
これ以上の説得は無駄なのだとマルティナは思った。
「俺も一緒にいく。止めないでくれ」
「…………わかったわ」
ライナスは頑固だ。昔からそうだった。
マルティナは小さい頃を思い出してくすりと笑った。ライナスは昔も今も、何も変わっていない。
「あのね、ライナスがあたしの友達でよかった」
「ティナ……俺はティナを友達以上に、大切に思ってる」
ライナスは熱を帯びた瞳で見つめていた。
友達以上、という言葉にマルティナは嬉しさが込み上げてきた。
「あたしもそう思うわ。あたしたち、親友よね!」
「は――?」
ライナスは驚いたように口をぽかんと開けた。
「え、違うの?」
「いや……そうか、親友か…………友達以上だから……親友ということか……」
ライナスはぼうっと一点を見つめながらぶつぶつと呟いている。
「どうしたの、ライナス。さっきからおかしいわ。気分でも悪いの?」
心なしか顔色が悪い気がした。
先程の元気はなく、今にも崩れ落ちそうなほど憔悴しきっているようにみえる。
ただ座って話していただけだというのに。
「ライナス?」
近付いて顔を覗きこむと、ライナスははっと驚いてのけ反った。
「ねえ、本当に大丈夫? きっとまだ血が足りてないのよ。横になった方がいいわ」
「あ、ああ、そうだな。少し休ませてくれ。疲れた……色々と……」
ベッドに横になったライナスを心配そうに見つめながら、マルティナは選択を誤ったのではないかと少しばかり後悔した。
「それにしてもひどいわね……」
ジャスティンが散らかした本と空の瓶を拾いながらマルティナは困ったように微笑む。
彼は一晩ここにいて、ライナスの容態が急変しないかを見守っていたのだ。
ジャスティンだってライナスを親友のように思っているはずだ。それなのにライナスがマルティナと行くと言ったことを止めてくれなかった。
「一番心配してるくせに……」
ジャスティンは村で騎士に指示を出しながらも、気付くと城を眺めていた。意識のないライナスが運ばれてからずっとだった。
魔術で傷は塞がったとはいえ、意識が戻らなければどうなるかわからないと医者が言っていたのだ。
「そういえば、傷どうなってるんだろ」
一度気になると、どうしても確認したくなる。
そっと近づき、マルティナはベッドで眠るライナスの上着をまくった。
白いシャツの下から引き締まったウエストが露になる。
剣で切られたはずの脇腹に傷はなかった。目の前には綺麗で筋肉質な肌しかない。
本当に切られたのかと顔を近づけ目を凝らしてみると、うっすらと横一文字に流れる肌色の線が見えた。数十年前のものだと言っていいほど薄くなった傷跡だ。
そっと線の上を辿っても、目を瞑ればそこに傷があるかどうかわからないほど、肌はなめらかだった。
「これが、水の魔術……癒しの力」
マルティナは自分の手の平を掌を凝視した。
それからライナスの身体をじっと見つめる。
割れた腹筋を目の前に、うらやましい……と、そんな邪念がマルティナの脳裏によぎった。
ちらりとライナスの顔を見る。ぐっすりと眠っているようだ。
「ちょっとだけ……いいわよね?」
少しでいい。少しだけ触りたい――マルティナはそんな誘惑に負け、ライナスの腹筋を撫でた。
この筋肉はどうやって身に付けたのだろうか――
それをライナスに聞けば、自分が負けを認めなければいけない気がして、いまだに聞いたことがなかった。
羨望の眼差しで、ほぅ、とため息をつく。
「いいなぁ……」
もう一度ライナスの顔を覗き込む。眉間に皺を寄せてはいるが、まだ眠っている。
どんな夢を見ているにせよ、千載一遇のチャンスだ。
マルティナはライナスの逞しい二の腕に触れた。ぐいぐいと握ると硬さは申し分なしだった。
「どうやったらあたしもこうなるのかしら……」
マルティナの腕に筋肉はあまり付いていない。ジャスティンの腕もそこまで太くはなかったから、きっとライナスは特別な鍛錬をしているに違いないと思っていた。
ライナスの色々な部分の身体を夢中になって触っていたら、突然彼が身じろぎしたのでマルティナはさっと離れた。
「……なんだ?」
「な、何でもない!」
ライナスは寝返りを打つと、すぐに目を閉じた。
寝ぼけていて良かったと、マルティナは胸をなでおろす。
「……あたしも負けてなんかいられないわ」
ライナスの部屋のドアをそっと閉じると、マルティナはひとり意気込んだ。
――そのやる気は一瞬にして砕かれる。
「ここで何をしている?」
突然声をかけられ、振り返った。
「クライヴ卿――」
ライナスの父、クライヴ卿だった。
彼はオールブライト伯爵に仕える騎士団長で、次期領主であるジャスティンの次に、領内で権力を持つ人物だった。
ライナスと同じこげ茶色の髪に灰色の瞳。けれどその目は冷たく、マルティナのことを、まるで敵でも見るように睨みつけていた。
何も言わないマルティナを見て、クライヴ卿は大きなため息を吐く。
「同じ質問を繰り返すつもりはない。用がないのなら、私の目の前から消えろ」
「し、失礼しました!」
マルティナは頭を下げると回れ右をして逃げるように廊下を歩く。
昔からマルティナはクライヴ卿が苦手だった。
父が死に、クライヴ卿が騎士団長という身分に昇格すると、彼はマルティナを城から追い出した。
恨んではいない、と言えば嘘になる。
「ああ、そうだ――」
マルティナの背中に声がかかる。
「君のせいで私の息子が怪我をしたそうだな。大事な跡取り息子なんだ。これ以上、ライナスを煩わせないでくれ」
マルティナは足を止めたけれど、振り返りはしなかった。
いいようのない感情がマルティナの心を支配する。何も答えられずに黙り込む。
「それとも――」
そんなマルティナを批判的な態度ととったのか、クライヴ卿は低い声で続けた。
「ライナスが勝手にやったことだと、貴殿に責任はないと言うのかね?」
下唇をぐっと噛むと、微かに血の味がする。
「……申し訳ございませんでした」
マルティナは消え入りそうな声で呟いた。
走りたいのを我慢して、冷たい石の廊下を足早に歩いた。