◆2◆
一緒に住んでいるジョンおじさんとリズおばさんは、マルティナの血縁者ではない。
母親はマルティナを産んだあと、それが原因ですぐに亡くなった。
オールブライト家に仕える騎士団長という身分だった父・ローレンス卿は、子供は皆平等という考えの持ち主で、娘であったマルティナにも剣術や馬術などを教えながら、騎士見習いの男の子達と同じように育てた。
そしてマルティナが十歳の時、戦に赴いた父は敵との一騎打ちに敗れ死んだ。
新たな騎士団長に就任したクライヴ卿は女の騎士など品位を落とす、と後ろ盾のないマルティナを城から追い出したのだ。
天涯孤独となった彼女を引き取ってくれたのがジョンおじさんとリズおばさん。昔、父に助けられた恩があるという、たったそれだけの理由で。
ジョンおじさんもリズおばさんも、マルティナのやることに一切反対をせず、のびのびと育ててくれた。
剣術と馬術の経験があるマルティナは、村の男の子よりも活発で喧嘩も強かったし、鍬を持てば畑仕事も手伝い、斧を持てば薪割りもする。
男の子と一緒になって遊ぶこともあれば、女友達をいじめた男の子を追いかけ回して逆に泣かせてしまうこともあった。
その度にジョンおじさんに叱られたけれど、わがままに育たなかったのは二人からの愛情と父の騎士たる教えを忠実に守っていたからだろう。
お陰で、しとやかな乙女というよりは、行動力のありすぎる元気な女性に育ってしまった。
年頃になるにつれて美しく成長していくマルティナを放っておく男はいない。彼らは何かにつけて話し掛けたり、手伝おうかと声をかけ始めたのだ。
そのたびに必要ないと一蹴するマルティナは、思春期を過ぎて友達から女性として見始めていた彼らの気持ちにはまったく気づいていなかった。
少し前までは、一緒に遊んだり喧嘩をした男友達が、気づいたらマルティナを女性扱いし、男だからと自分が優位に立とうとする。マルティナのことを、まるで弱い者を扱うように接してくる。
彼女はそれが腹立たしいとさえ感じていた。
子供のころは喧嘩も駆けっこも木登りも、男の子に負けず一番だったのに、いつの頃からか立場が逆転してしまっていたのも、要因のひとつ。
その頃から男の子たちはマルティナを相手にしなくなった。男の子同士で集まり、マルティナが近づくと女は仲間に入れない、と言った。
そして現在、彼らは難儀しているマルティナを見つけては、手を貸すと申し出てくるのだった――
「私が女だからって、一人で何もできないと思わないでよね!」
村から少し離れた、誰もいない丘の上で思い切り叫ぶ。色々と思い出していたら腹が立ってきたのだ。
ほんの四、五年前まで、アンの赤い髪をからかっていたジャックが、先月彼女に求婚した。嫌だ嫌だと逃げ回り、その都度マルティナに助けを求めに来たアンがそれを承諾した。
結婚した二人はとても幸せそうだった。
アンに理由を聞いたら、彼女は「そういうものよ」と笑っていたけれど。
「あんなに嫌がってたのに、意味わかんない……」
考えあぐねていると、不意に視界の端に黒いものが見えた気がして、森に視線を移す。
村と隣接した森から何者かが現れ、フラフラと二、三歩進むとその場に倒れた。
「やだ、大変……!」
マルティナは駆け寄ろうとして足を止める。
現れた者は、その格好からして村人ではない。
「きっと傭兵……よね? どうしてこんな田舎の村に?」
戦に敗れてここまで逃れてきた雇われ兵か、それとも村を襲いに来た山賊の類だろうか。
一人ならばいいが集団だと、彼らは村を襲い金品と女子供を強奪して、畑に火をかけることもあると聞いた。
村の人に知らせるべきか……しかし、もし襲ってきたとしても、相手が一人なら自分で何とかできる。
「そうよ、この機会にあたしが女だからって見下している人たちをぎゃふんと言わせてやるわ!」
マルティナは勇み足で丘を下って森へと向かった。
ある程度近づいてからは忍び足で近づき、うつ伏せに倒れたままぴくりとも動かない男の様子をうかがう。
汚れた亜麻色の髪に色褪せたマント、腰には剣。
革でできた鎧のようなものを着こんでいる。その風貌から山賊ではなさそうだった。
どこかの領主に雇われた傭兵が逃げてきたのだろうか。
「死んでるのかしら?」
さっきからぴくりとも動かない。
だからといって触るのも怖い気がして、マルティナは鍬の柄でこつんと頭を突いてみる。
「うっ……」
かすかなうめき声が漏れる。まだ生きているようだ。
「み、水を…………」
「水が欲しいの?」
マルティナは持っていたバスケットの中から水の入った瓶を取り出した。しかし、どこの誰かも解らない男を助け起こすことに気が引けて、迷った挙句、男の頭に水をだばだばとかけてみた。
「おいっ!」
男は急に飛び起きる。
「きゃっ」
瀕死の男が急に動いたことに驚いたマルティナは、持っていた水を手放してしまった。
それに気づいた男は地面に落ちる直前で瓶を掴む。
行き倒れていた割には反射神経が速いことに驚いた。
「あ、危ねぇ……こら、もったいないことをするな!」
彼はマルティナを一喝してからぐびぐびと飲み始めた。
「も、もったいないって……」
水を恵んだ相手に怒鳴られるなんて腹が立つ、と内心思っていると、足元に置いたバスケットを目ざとく見つけた男は、マルティナが止める間もなく中のパンを取り、頬張った。「ちょっと!」
それはジョンおじさんと一緒に食べるための昼食だったのに……
「うまいな……」
もごもご言いながら二つめのパンに手を付け、水で押し流す。すごい速さで口に入れるのを、マルティナはただ唖然と見ているしかできなかった。
相当、お腹が空いていたのだろうか。昼食を奪い返すことを諦め、マルティナは男を観察する。
顔も服も泥で汚れ、破れた袖口はそのままになっている。革の鎧もずいぶん使い込まれていて、彼のために作られたのだろう、身体にぴったりと馴染んでいた。自分用の鎧ならば、山賊ではなくやはり傭兵なのかもしれない。
それから、確認したくはないが、こびりついた茶色の染みは血だろうか……
髪もぼさぼさで髭も生え放題。菫色の瞳だけが、内に秘めている強さを物語っていた。
きっと強い傭兵なのだろう。
水の瓶が空になっていたので、しかたなくバスケットに入れた赤ワインを差し出す。男はそれも水のように飲みながら、初めてマルティナの存在に気付いたかのように凝視する。
けれど手にはパンとワイン。そして口を動かすことは止めないらしい。
「ふう、死ぬかと思った……」
男は最後のパンのかけらをワインで流し込んだあと、そう言った。
「それ、あたしとジョンおじさんの昼食だったのよ」
ものの数分で、二人分の食事が消えてなくなってしまった。
ワインは自分から渡したのだが、ちょと文句を言ってみたら、彼は助かった、と豪快に笑う。本当に死にそうだったのかどうか疑問だ。
「俺は、ヴィンセントだ」
彼はそう言って右手を差し出してきた。騎士流の握手を知っていることに驚きつつ、マルティナも右手を出す。
指先が触れた瞬間、バチッと痛みが走った。
「きゃっ」
今のは何?
それに気を取られていたらぐいと引っ張られた。
「きゃあ!」
その瞬間に気づく。彼は握手を求めたのではなく引っ張り起こして欲しかったのだ。
ヴィンセントもまさかマルティナが倒れてくるとは思わなかったのだろう、咄嗟に抱きかかえるように庇いながら後ろへ倒れた。
お陰で衝撃のほとんどは彼の背中に吸収されたのだが、頭を起こしたら髪の毛が革の鎧のどこかにひっかかってしまった。
「痛っ……やだ、もう!」
恥ずかしいのと誰かに見られたくないのとで焦ったマルティナは、髪の毛を引きちぎって離れようとした。
「ちょっとまって――」
それに気付いたヴィンセントは髪を掴むマルティナの手を握って止めさせる。それからマルティナの髪を丁寧な手つきでほどき始めた。
特に痛みもなく、しばらくじっとしていたら、取れたと言われた。顔をあげるとヴィンセントと間近で目が合う。
菫色の瞳を、髪と同じ色のまつ毛が覆っている。引きこまれそうなほど綺麗な色――
近くで見たら思ったよりも若いのかもしれないと思った。