◆2◆
翌日、まだ機嫌の直らないマルティナと、今日も晴れたわね、などと呑気にも天気の話題をするおじさんとおばさんの横で、空気が重いと感じているのはヴィンセントだけだった。
負けず嫌いのマルティナが、大量の薪をたった一日ですべて割ってしまったヴィンセントに憤りを感じないわけがない。
「ごちそうさま、いってきます!」
おじさんとおばさんにそう告げてマルティナは仕事へ向かった。まだ食事中だったヴィンセントはパンを頬張りながら急いで後を追う。
「マルティナ、悪かったって」
前を歩くマルティナに声をかけた。
「何が悪いのよ! 頼まれて割ったんでしょう? それも、薪を、すべて!」
マルティナの足が速くなった。最後の台詞を強調して言う辺り、相当怒っているに違いない。
「いや、つい……ほら、マルティナの割った薪は均等に割れてたんだ。俺にもできると思ったけど、やってみたら結構不揃いで……」
ヴィンセントは困り果てて後頭部をかいた。
「ついムキになって、気付いたらすべて割ってたみたいだ。あれは難しいな、マルティナには勝てないよ、ほんと……」
マルティナは振り返らない。けれど少し歩幅が緩んだ。
「……薪割りはあたしが日課にしてる稽古だったのよ。ヴィンセントには必要ないじゃない」
マルティナは小さな声で呟いた。そう言えば、彼女は剣を振れない代わりに斧や鍬で腕を磨いているのだと言っていたことを思い出す。
「じゃあ、代わりに俺が相手しよう。これでも俺は現役の傭兵だから強いぞ」
マルティナの横を並んで歩くと、彼女はちらりと横目で見る。しばしの思案顔のあと――
「とぉりゃー!」
マルティナは拳を振り上げた。
ヴィンセントはそれを手の平で受ける。ちなみに、この前は油断したせいで一発受けていた。
「今夜、帰ったら相手してくれる?」
首を傾げてかわいらしく微笑んではいるが、マルティナは隙あらばまた攻撃してくる構えだ。まったくもって油断ならない。
「よし、今夜だな。約束だ!」
「約束ね!」
機嫌を直したマルティナは、足取りも軽やかに歩き始めた。
「何してるのヴィンセント! 遅いわよ」
「はいはい……」
単純だなと思いつつ、ヴィンセントはそれを声に出すような愚かなことはしなかった。
丘を半分ほど進んだところで屋敷の前に誰かが立っているのが見えた。格好からしてジャスティンだろう。
それに気付いたマルティナは、顔を綻ばせながら大きく手を振った。
「マルティナはジャスティンのことが好きなんだな」
「な、何を言い出すのよ、違うわよ!」
硬直してみるみるうちに顔を赤くしたマルティナの反応を見て、ヴィンセントは、やはりそうなのかと納得した。
「嘘は吐かないんじゃなかったのか?」
「吐いてないわよ、だって過去の話だもの!」
マルティナはそれきり下を向いて黙ってしまった。
少しいじめすぎたかもしれない、と声をかけようとしたところで彼女は顔を上げた。
「……昔の話よ、初恋だったの。いつか父のような立派な騎士になって、ジャスティンに剣の忠誠を誓うんだって思ってたわ。ジャスティンのことはあたしが守るんだって……でも終わった恋よ! もう忘れたわ」
「……それ、恋じゃなくて忠誠心じゃないのか?」
「なに?」
「あ、いや……何でもない」
忘れたと言っているのなら、今さら思い出させなくてもいいのかも知れない。
それとも、少し卑怯だっただろうか――
雲ひとつない空を見上げた。マルティナの瞳と同じ色、美しい青空だ。
「そうだ、もう一つ、マルティナに勝てないことがある」
ヴィンセントは思い出したかのように呟いた。
「あたしに勝てないこと?」
振り返ったマルティナに耳打ちをするように近づくと、ヴィンセントはそっと囁いた。
「口喧嘩も勝てそうにない、さっきは仲直りができて良かった」
「ど、どういう意味よ!」
嬉しそうな顔から一転、怒り出した。ころころと表情が変わって面白い。
こういうところは年頃の普通の娘と変わらなかった。
屋敷の玄関前には約束通りジャスティンが待っていた。
おはよう、と挨拶をするとジャスティンも笑顔で返してくれる。
彼の笑顔は不思議なもので、見ているとこちらもつい微笑んでしまうのだ。
思い返せば、ジャスティンが怒る姿をマルティナは一度も見たことがなかった。優しい領主はいつか他者に付け入られてしまう……
少し心配になったマルティナは、あとでライナスに注意するよう伝えてなければ! とかたく心に決めた。
それにしても、今朝は一段とにこにこしているように見える。
「ティナ、後ろを向いて?」
「どうして?」
疑問に思いながらもマルティナは言うとおりにジャスティンに背中を向ける。
そんなマルティナの後頭部を愛おしそうに、優しい瞳で見つめるジャスティンの目には、またもやヴィンセントは映っていない。
「ったく、朝から勘弁してくれよ……」
周囲が何も見えていない恋人同士のような、そんな甘すぎる雰囲気にのまれて、ヴィンセントは二、三歩ほど後ずさった。
「サラサラで綺麗だね」
ジャスティンは手櫛でそっとマルティナの長い黒髪を梳く。
「ジャスティンの金髪の方が綺麗じゃない。嫌味にしか聞こえないわ!」
「ほら、前を向いたまま。じっとする!」
振り返ろうとするマルティナの肩を両手で掴み、ジャスティンは有無を言わさず前を向かせると、優しい手つきで髪をすくった。
前を向かされているマルティナは、何をされているのかわからない。
「いいよ、こっちを向いて」
言われた通りにすると、ジャスティンは満面の笑顔だ。
「ほら、ティナは髪を結った方がかわいいよ」
そっと頭に手を伸ばせば、リボンのようなものが髪に編み込まれていた。
「い、いらない!」
ジャスティンがくれるものは高価なものの確率が高い。お返しもできないマルティナが簡単に貰っていいものではないのだ。
リボンを解こうとすれば、ジャスティンにそっと手を握られた。
「頼んでおいたものが出来上がったんだけど、長さが足りなかったんだ。中途半端じゃ何にも使えないし、ただ捨てるよりも誰かの髪を飾った方がいいでしょ?」
「捨てるって言うなら……貰うけど」
僕とお揃いだよ、と言うジャスティンはブルーの光沢のあるリボンで金色の髪を緩く結っている。素材がわからないあたりが高級そうに見える。
「でも、あたしジャスティンからは前にもブーツを貰ったわ」
あまり物を貰うのは好きではない。
それに見合うお返しが何もできないからだ。
「気にすることはないよ。あの時は、元はと言えば靴職人がいけないんだからね」
マルティナが現在愛用しているブーツは、靴職人がジャスティンの足のサイズを測り間違えて小さめに作ってしまったものらしい。
偶然にもマルティナにぴったりだったので、内緒だよ、とジャスティンから譲り受けた。
「そうかもしれないけど……」
マルティナはスカートから覗くブーツのつま先をじっと見つめる。欲しかった物が手に入れば嬉しい。だから何かしらのお返しをしたいのに、マルティナはジャスティンの望むものを用意することができない。
傍にいて彼の背中を守ることさえもできない。
ジャスティンは手の甲でそっとマルティナの頬を撫でた。
顔を上げれば、彼はいつものように微笑んでいる。それなのにどこか寂しげに見えるのは気のせいだろうか。
「僕には、これくらいしかできないから……」
「充分だわ。靴職人が靴の製作を失敗したなんて噂が広まったら大変だもの」
最初からマルティナ用だったということにしておけば、靴職人の名誉を守れるのだろう。
秘密は守るわ、と伝えればジャスティンは切なげな笑みを深めた。
次期領主である彼が、使用人のことまでも気にするとは……
やっぱりジャスティンは優しすぎるわ、とマルティナは心の中で呟いた。