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7話



油断した、と思った。



香織とのことがあって、学校でも快適とは言いがたい毎日の繰り返しで。

それでも放課後のわずかな時間、龍とのんびりとお茶を飲む時間がもたらす効果が、ゆめの心をこれまで以上に安定させていた。



今日も龍の店から家に帰ってきて、誰もいない家で一人分の夕飯を作って。

珍しく鼻歌を歌いながらお風呂に入り、少し長い時間髪を手入れして。

部屋に戻ろうとしたその時。



玄関のほうでわずかに音がしたような気がした。

気のせいかもしれないと思いつつも玄関を覗いたら、そこにはいないはずの義父の姿があった。


驚いて後ろに下がったとき、壁に肩がぶつかった。

その物音でゆめを見つけた男は、にやりと笑った。



ゆめはきびすを返し、部屋に駆け込んであわてて鍵をかけた。

心臓が痛いほど力強く鼓動する。

”…こわい”

ゆめは両腕をこすり、恐怖で冷え切った体を無意識に温めようとした。



部屋のドアがこんこん、とノックされた。

ゆめの体はびくり、と跳ねた。


「ゆめちゃん?ゆめちゃん、ねぇ、ここを開けてよ」



ねっとりとまとわりつくような、義父の声が扉のすぐ向こうから聞こえる。

全身に鳥肌が立った。



再びノックが繰り返される。



「今日はお母さんは帰らないよ。さっき確認したんだ。

 僕も明日まで出張で帰ってこないってことになってるし、前みたいなことにはならないよ?

 さぁ、ここを開けて?大丈夫だから。ね?」



くすくすと笑う義父の声にわれに返り、ゆめはあわてて枕元に置いてあったスニーカーを履いた。

手が震えて、うまく靴紐が結べない。

涙が出ないまましゃくり上げ、不恰好ながら何とか結べた。

ベッドの下に入れておいたボストンバッグを引きずり出し、携帯や定期や財布などをショルダー

バッグに放り込んだ。


ゆめが立ち上がったとき、ドアを叩く義父の力がどんどん増していた。

扉がきしみ、鍵がこすれあう音が聞こえた。


「こんな扉を壊すぐらい、どうってことないんだよ?

 君も乱暴にされるなんて、嫌だろ?

 僕が腹を立ててここを蹴破らないうちに、ここを開けなさい。

 …それとも、そういうゲームを楽しみたいのかな?ゆめちゃんは」



叫びだしそうになる口元を押さえ、ゆめはベランダに飛び出した。

家は3階にあるが、ゆめの部屋のベランダの下には庇があり、伝って端までいけば飛び降りられそうな高さに倉庫の非常階段があった。

そこを降りれば逃げられる。


義父に襲われたあの日以来、ゆめが考えた脱出ルートだ。



わずかな距離とはいえ、3階の高さを歩いていくことが怖くないわけではない。

落ちてしまっては大怪我するだろう。

それでも、このままでは自分の大切な何かが完全に死んでしまう。



ゆめはごくり、とつばを飲み込んだ。



ドアの方を振り返ると叩く音が止んだ代わりに、みしみしと嫌な音がしていた。

ドアの隙間から、ドライバーのようなものが差し込まれているのが見えた。

どうやら蝶番をはずして入ってこようとしているようだ。


ゆめは義父の執拗なやり口にぞっとし、勇気を出して下の屋根に降りた。

バランスをとりながらなんとか建物の前まで進んだ時、「ゆめちゃんっ!」という義父の声が聞こえた。


ベランダを振り返ると、手すりに身を乗り出すようにしてゆめを見る義父が見えた。

その表情は驚きから怒りへと変化した。


「ゆめっ!おっ、お前はっ!!」


特に女性から拒否されることなど、義父の頭にはなかったのだろう。

ましてや、こんな取るに足らない小娘。


真っ赤になって怒鳴る義父を見た瞬間、ゆめは慌てて非常階段に向かってジャンプした。

着地の時にバランスを崩し、右足首に激痛が走った。

一瞬顔をゆがめつつも、ベランダにいるはずの義父の姿が見えないことに再び恐怖したゆめは、

必死になって階段を駆け下りた。



どこに逃げようか、まったく当てがなかった。

でも、このままでは捕まってしまう。

そうなったら、いったいどんな運命が待っているのか…最悪の結末を想像し、ゆめはますますパニックに陥った。



後ろから、誰かの足音が聞こえる。

もしかしたら義父かもしれない。


ゆめは細い路地裏に入り、痛む足を引き摺りながら一気に走り抜けた。



”助けて!助けて!タスケテッ!!”



警察には行けない。

行ってもきっと義父に言いくるめられて、引き渡されるだけだ。

だったら誰が?

誰が私を助けてくれるだろうか?



そして、ふと浮かんだ顔。

きっと今、この世で唯一ゆめが信じられる人物。


極限まで追い詰められていたゆめは、気付かぬうちに足を向けていたようだ。


”りゅう…龍、さんっ!!”



気付けば見慣れた店が見えてきた。

ゆめは必死になってシャッターを叩いた。





はじめは驚いていた龍は、それでもゆめを何も聞かずに受け入れてくれた。

龍はゆめをソファに座らせてから、「お茶、入れてくるから」と言い残して、キッチンに向かった。

緊張が解け、足首に激痛が走った。

ずきずきと脈打つような痛みと共に、先ほどの恐怖もよみがえる。


いやらしい、まとわりついてくるような義父の声。


ソファに座ったまま、ゆめは頭を抱えて自分のひざに頭を埋めた。



”こわいっ!こわいっ!いたいっ!”



何度も何度も頭を振り、声にならない叫び声をあげた。


泣きたいのに、叫ぶばかりで涙も出ない。

そのうち落ち着かない気持ちが波のように押し寄せた。

意味もなく頭をかきむしり、服を握り締めて握りこぶしを胸元にこすりつけた。


「あーっ!あーっ!あーーっ!!」


パニックが最高潮になり、右腕に爪を立てて思いっきり引っかいた。

なじみのある痛みが腕を走る。

それでも何度も何度も引っかいた。



「はーーっ!あーっ!!ぃあぁぁぁぁっ!!」



胸が痛い、胸が痛い、胸が痛い!

自分の荒い息遣いとありえない速さで脈打つ心臓が、余計に体を震えさせた。


もどかしい痛みにわれを忘れそうになった時、温かく包み込むぬくもりを感じた。

背中を何度も撫でる大きくてやさしい手を感じた。

ゆめは警戒心丸出しで、目だけをきょろきょろさせた。




目の前には、龍の真っ白なTシャツがあった。

突然、肩の力が抜けた。


「…ゆめ、ゆめ、大丈夫だよ、もう大丈夫。さぁ、戻って来い、ここに。

 大丈夫、俺がちゃんと守るから、大丈夫、大丈夫だよ…」


やさしく響く低い声が、体にしみこんでくる。

体の力が抜けたことがわかったのか、龍はそっと引っかいていたゆめの手をとり、龍の胸に当てさせた。

それからゆめを横抱きにひざに抱き上げ、ふんわりとゆめを抱きしめ、ゆっくりと背中をさすり続けた。


「大丈夫、大丈夫」と繰り返しながら。




ゆめの瞳には大粒の涙が浮かんだ。

まるで堰が決壊したかのように、次から次へとあふれ落ちる。

それと同時に押し殺したような嗚咽が漏れ、ゆめは肩を震わせた。




ゆめは龍の胸にすがりつき、長い時間涙を流し続けた。

あんなことがあった後だというのに、心の重石のひとつが消えてしまったようだった。


 



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