2話
香澄に連れられて来た店は、ゆめが住んでいるマンションにほど近い場所にあった。
…つまり、ブレスレットをもらった神社にも近いということだ。
その事実が、ゆめをまますます緊張させる。
お店が近づいてくるにつれて、どうしようもなく逃げ出したい気持ちが強くなってきた。
けれど、手に持った傘を見ると、ここで帰るわけにはいかないと思い直すのだった。
ゆめはもともと人付き合いが苦手で、特に男性は存在自体が恐怖であり苦手だった。
体格が自分よりもはるかに大きく力も強いということが、余計に恐怖心を煽るのだ。
あの日神社で会った時、彼にも同じような感情を抱いていたはずなのに。
彼はゆめよりも背が高かったし、これまで出会った中で体つきだってたくましい部類に入った。
それなのに、恐怖を感じたのは目の前に彼が立った、そのときだけだった。
彼の瞳が温かく笑み、その手でブレスレットをつけてもらった瞬間から、恐怖以外の気持ちがゆめの心に突然芽生えていた。
その正体は、彼女にも分からない。
けれどもう一度彼に会ってみたいというゆめにしては珍しい好奇心は、どうやらこの感情から生まれたものだということには気付いていた。
彼に出会うことで何かが変わる気がした。
怖いような気がするけれど、心のどこかで恐怖が訪れないと確信している自分がいた。
そんな自分を自覚することで、希望の光がまだ自分の中にあるんじゃないかと感じた。
もしかしたら、本当に何かが変わるかもしれない、強くなれるかもしれない…そんな期待を抱くことが出来たのは初めてだった。
香澄は賑やかな表通りから少し細い通りに入っっていった。
少し奥まったところ、和雑貨の店の隣に”青龍”はひっそりと佇んでいた。
ぱっと見ただけではアクセサリーショップというよりも、雑貨でも扱っていそうな佇まいだった。
無国籍な感じではあるが、どこかアーリーアメリカンっぽい雰囲気の店の前には、木でできた古びた荷車が置かれていた。
若い男女がその中に並べられているアクセサリーを物色し、店の前の壁にもたれた女のばかりの
グループは購入した物を互いに見せ合ったりしていた。
「人気、あるんだね…」
驚いたゆめがポツリと呟いた。
まるで自分が褒められたかのように「でしょ?」とうれしそうに肯定する香澄を見て、よっぽど店主の龍さんに惚れ込んでるんだなぁと思った。
「店にある商品のほとんどが龍さんが海外に行って買ってきたもので、超人気の龍さん手作りの
アクセはすぐに売り切れちゃって、なかなかお目にかかれないんだよね~」
そう説明してくれる香澄に続いて、店に入っていった。
「龍さぁ~ん!今日は友達連れてきたよぉ~」
カウンターの前に陣取っている女子高生2人を押しのけるように、香澄はカウンターの奥にいる人物に声をかけた。
押しのけられた二人は「なによっ、あれっ!」と腹を立てつつも、一歩後ろへ下がった。
睨みつける二人を逆に睨み返した後、香澄は龍に媚を含んだ瞳で微笑みかけた。
ゆめは香澄の豹変振りに驚き、押しのけられた二人の視線に怯えた。
店の中にいる女の子達の視線の大半がカウンターに向かって意味深に放たれているところを見ると、龍と言う人物は余程もてるらしい。
気の弱いゆめは嫉妬を多分に含んだ視線に完全に怯んでいた。
「香澄ちゃん、いらっしゃい。ごめんね、二人とも。またアクセサリー見に来て」
香澄と立ち去ろうとする二人に対してのんびりと返された言葉、この声。
ゆめの頬はどんどん熱くなっていった。
「ね、龍さん。この子、私の親友で、ゆめっていうんだ~」
突然香澄によって龍の前にぐいと押し出されたゆめは、彼と目が合った瞬間ぱきり、と固まった。
一瞬驚いて目をまん丸にした龍は、すぐにうれしそうに目を細めて笑った。
「お嬢さん、ゆめちゃんって言うんだね~。龍です。よろしく」
自分に向けられた彼の言葉がうれしくて、ゆめは緊張していたこともすっかり忘れ、差し出された龍の右手を微笑んで握り返した。
「先日は、ありがとうございました。またお会いできて、とてもうれしいです…」
「イエイエ…オレもお嬢さんにまた会えてうれしいよ」
まるでモデルのように精悍な龍が自分に微笑みかけていると言う事実に、ゆめは気恥ずかしさを覚えた。
偶然とはいえ、あんな情けない姿を龍に見られてしまったのだ。
足元に視線を落としたゆめは、汗ばんだ手のひらを意味もなく握ったり開いたりした。
ゆめは、男性が極端に苦手だった。
けれど不思議なことに、どんなにイケメンと言われていようが心優しい人だろうが漏れなく感じていたはずの嫌悪感を、龍に対しては全く感じなかった。
確かに龍が男性と分類される以上少しは疑いめいたものを感じないわけにはいかないが、それでも
自分の心に自然に入り込んでいた龍にの存在に、ゆめは内心かなり驚いていた。
きっとそれは龍から放たれている、優しくて温かなオーラのせいじゃないか、とゆめは分析した。
包み込むような懐の広さを感じさせる彼は、老若男女問わず慕われるに違いない。
「ちょっとちょっと!二人とも私のこと忘れてない?
それにゆめ、龍と付き合が長いのはこの私、なんだからね?」
二人の間に生まれた穏やかな沈黙を破るように、香澄がいつになくキツイ口調で言った。
「あ、ごめん…私…」
香澄の瞳の奥にちらりと嫉妬の炎が見え、ゆめは香澄の龍への気持ちを念押しされたようで戸惑った。
彼女はきっとずっと長い間、この店に通いながら龍への想いを温めてきたのだろう。
ワザと龍を呼び捨てることで2人の仲のよさを見せ付けようとする彼女の態度に、ゆめは自分の心がちくん、と痛んだ。
香澄はこれまで向けたことがないような冷たい視線でゆめを一瞥した。
ゆめの心の痛みがどんどん増していく。
「ね、龍!今どんなの作ってるの?」
媚びるような甘い声で龍に話しかけた香澄は、カウンターを越えて龍の作業場に一歩足を踏み入れた。
「香澄ちゃん、ストップ」
何の感情も込められていない、無機質な龍の声が響いた。
「だめだよ、そこを越えてきちゃ。カウンターの先はオレのプライベートエリアだから」
優しい笑顔だけれど、確固たる意思表示。
だからこそだろうか、龍との間にはっきりとした距離があることを意識させられるものだった。
それは龍の、自分に必要以上に近づいてこようとする人間への、婉曲な拒否に他ならなかった。
香澄は下唇を噛んで俯いた。
「…私、帰るわ」
きっ!とゆめを睨みつけてから、香澄は背筋を伸ばして足早に店を出て行った。
彼女の全身から発せられる拒絶に、ゆめの心は一瞬で冷えた。
「ごっ…ごめんなさい、龍さん…あのっ…私、帰ります」
目にうっすらと涙を浮かべたゆめは、混乱しながらも龍にぺこりと頭を下げた。
何故か分からないけれど、香澄は自分に対して怒りを感じている。
香澄を追いかけて、謝らなければ。
「ちょっと待って」
いつの間にやらカウンターを越えてきた龍に右手首を捕まれ、ゆめは驚いて顔を上げた。
龍はゆめの戸惑いなどに頓着することなく、彼女の腕に絡まっているブレスレットのチャームを愛しそうに指で一つ一つ撫でた。
「あ…の…」
「これ、大切にしてね?」
「…え?」
「コイツはオレの中でも結構特別なんだ。だから…」
これが特別のものだと龍本人から聞かされて、ゆめは慌てた。
そんな大切なもの、自分がもらっていいはずがない。
「ごっ、ごめんなさい!これ、お返しします…」
外そうとブレスレットに手をかけたとき、龍がそっと手を押しとどめた。
「…これは、お嬢のところにあるべきものなんだ。だから受け取っといて?」
「でも…」
「ずっと…いつの時もコイツを付けててくれる?それだけで満足だから。ね?」
柔らかに微笑む龍の瞳はどこまでも深くて、ゆめの心を安心させも不安にもした。
どきどきと心臓が高鳴っていくのを、ゆめは止める事が出来なかった。
ふと思い出して、龍の手に借りっぱなしの傘を手渡し、おずおずと龍と視線を合わせた。
「…はい。忘れてたけど、この傘も…ありがとうございました」
小さいけれどはっきりした声で言ったゆめは、そのまま店を後にした。