1話
早朝の学校は人影もなく、日頃の喧騒など嘘のように静まり返っている。
朝日が輝く屋外から昇降口に入ると、夕方とは違い、まるで学校の内部が芽吹く直前の種のように
わくわくしているような気がする。
生徒にとってはかったるい授業を受けねばならない獄門だというのに、生徒を受け入れる学校にとって
は若い活気を取り込めることがうれしくて仕方がないのかもしれない。
ここ、県立瀬田高校2年3組の生徒である七瀬ゆめは、どうでもいいような空想に浸っていた。
本当はこんなことを考えている場合ではないのは、彼女が一番よく分かっていた。
この先の自分の暮らしについて、きちんと考えていかねば…まだ高校2年生の、成人にはまだ3年も
残されている彼女が思い悩むにはいささか早すぎるこの問題は、実際、切実に彼女の心に
のしかかっていた。
ふぅ…重い心とは裏腹な、軽いため息を一つついて、日常演じている”自分”を呼び出した。
そろそろ教室にも生徒が溢れてくる時間だ。
感情を隠さなければ。
誰にも今時分が置かれている状況を悟られないようにしなければ。
油断などしていられない。
ゆめは心の中でそう自分を叱責した。
たとえ、こんな生活に疲れきっていたとしても。
無意識に左手で右手首を握り締めたゆめは、ふとそこに視線を落した。
見慣れた時計と一緒に手首に絡み付いているのは、先週金曜日に見知らぬ男からもらった
ブレスレット。
男はこれを作ったのだと言っていた。
朝日にかざしてみると、ブルーの光がきらきらと零れ落ちた。
”まるであの人と出会ったあの時に降ってた雨の色みたいだ”
ゆめはそう思った。
寒色系だというのにどこか温かい光にふっと心が軽くなって、知らず笑みが浮かぶ。
”それにしても不思議なチャーム…”
ゆめはそこにつけられた小さなシルバーチャームやトンボ玉を眺めた。
不思議なデザインだった。
3つの小さなトンボ玉と2つのシルバーチャームはそれぞれ独特の雰囲気があって、どれをとっても
惹き付けられる。
けれど、その中で特に魅かれたのが2つのシルバーチャーム。
一つは、乙女を抱きしめたドラゴン。
ごつごつしたうろこに優しい瞳を持つドラゴンは、大切そうに美しい少女を胸に抱いているように
みえた。
愛しげに歪められた瞳が、抱きしめている乙女を深く愛していると語っているようで。
そして乙女もまた、ドラゴンに全てを捧げているのだと、ゆめは解釈していた。
このチャームを見ているだけで、ゆめの心にはほこほこと温かな気持ちがが湧きあがってくるよう
だった。
そしてもう一つは、卵のような形をしたものだった。
そこには『un reve』と書かれている。
ゆめにはこの言葉がどこの国の言葉で、一体何を意味しているかわからなかった。
きっとこのドラゴンにとって必要な、大切な言葉に違いない。
なんとなくそんな気がした。
ゆめがブレスレットをうっとりと眺めていると、ぽんぽんと肩を叩かれた。
驚いて見上げると、同じクラスの永野香澄が「おはよう!」とお日様に負けないほどの笑みを
浮かべていた。
細身でスタイリッシュな彼女は、今のゆめには一番心許せる友達だった。
彼女のイメージからは程遠いのだが、小さい頃からパティシエになることを将来の目標と決めている
そうで、彼女からはいつも甘いバニラの香りがした。
きっと昨日もお菓子作りに励んでいたに違いない。
彼女は、男女の別なく人気のある、いつも人に囲まれているようなタイプの子だった。
クラスの大半の生徒と仲良く話をする彼女なのに、何故かいつも選んで、香澄意外と挨拶すらろくに
しないゆめと一緒にいるのだった。
ゆめは不思議に思いつつも、香澄がいることで孤独を感じることがなくなって安堵していた。
彼女が話しかけてくれるようになって、心なしかクラスでの風当たりも弱くなったような気がする。
無愛想で臆病で、人付き合いの悪い自分に付き合ってくれる彼女の優しさには、心から感謝していた。
ゆめが「おはよう」と返すと、香澄はゆめの前にある彼女の席にカバンを放り投げてから座った。
香澄は「ん?」と顔をわずかに歪めて、ゆめの右手を取ってまじまじと見つめた。
「ゆめ、どーしたの?これ、青龍のブレスレットじゃない!よく手に入ったね~?」
「え?これって、そんなに有名なものなの?」
驚いた香澄は「知らないのぉ!?」と大きな声で叫んだ。
きょとんとしてこくんと頷くゆめをはぁ~…と目をまん丸にして見つめた。
「これ、滅多に手に入らないのよ?発売になったらすぐに売り切れちゃって」
「そんなに高価なものなの?」
「ううん、違うの。青龍のオーナーが作っている手作りアクセで、値段も結構お手ごろなんだけどね、
とにかく人気があるの。
これを好きな人に贈ったら両想いになるとか、つけてたら願いが叶うとかっていう噂もあって、
余計に人気が出たみたいよ。どれどれ…ちょっと見せて?」
「うん……」
マジマジと見つめる香澄に手を取られ、ゆめは少々居心地悪かった。
あの見知らぬ男は、そんな大切なものを私みたいな見ず知らずの人間に渡してもよかったのだろうか?
…でも…確か、自分が造ったって言ってたっけ…
「…これさぁ、プレゼントされた、とか?」
「えっ!なっ…なんでっ!?」
「やっぱりそうなの?だってこれ、トンボ玉もシルバーチャームも龍さんが長い間アクセにしないまま
店に飾ってたやつだもん。
”これ、いつアクセサリーに使うんですか?”って聞いても、”さぁね~”ってはぐらかすだけ
だったし、しかも、ヘンプのブレスレット作ったときもいろんな人から売ってくれって言われて
たのに、誰にも売らないからって。
私だって狙ってたのに。
ほんと、びっくりー。しかもゆめの名前が入ってるし」
「え?名前?」
「ほら、ここ。un reve。フランス語で”夢”って意味よ?」
「そうなんだ…」ゆめはあまりの偶然に驚き、とっさに言葉が出なかった。
「で、誰なの?こんな素敵な贈り物をくれたのは?」
それをゆめのために手に入れたからには、きっとプレゼントしてくれた男は夢中なんだよと、
ニヤニヤ笑って勘違いする香澄に、ぶんぶんと首を振って彼女の妄想を否定した。
「…違うの。もらったのはもらったんだけど……ホント、偶然で。
その人、私の名前知らないし、たまたまだよ、全部」
ゆめが雨の日の出来事を簡単に説明すると、あまりに非現実的な出来事だったせいか
香澄は「ドラマみたいだね~」と感心していた。
そうだろう。
当事者のゆめだって、未だにあれは夢物語じゃないかと思うのだから。
すると突然、香澄の眉間にしわがよった。
「まさか…もしかしたらそれ、龍さん本人だったりして?」
「え?」
「だって、自分が造ったモノだって言ってたんでしょ?…今日、確かめに行ってみる?龍さんの店に」
「そう…ね」
ゆめは迷っていた。
あんなみっともない姿を見られた後だし、会うのも気まずいような気がする。
もしかしたらあの時のことを根掘り葉掘り聞かれたりしたら…香澄にさえ告げることが出来ない
秘密に見知らぬ男を近づけることなど、考えただけでもぞっとした。
でも、あの時から借りっぱなしの傘を返したいし、それに何よりこのブレスレットを私なんかが
もらっていいのか確かめたい。
…今頃後悔してるかもしれないし。
なにより、ゆめは純粋にもう一度あの男に会ってみたいと思っていた。
あの何もかも包んでくれそうな、温かな瞳を持つ男に。
「じゃ、今日の放課後、案内してくれる?」
「やたっ!一緒に行こう!」
うれしそうに両手を上げて喜ぶ香澄に不思議そうに首を傾げたら、ゆめの耳元に両手を寄せて
こっそりと話してくれた。
「…あのね、実は私、ずっと前から龍さんの事が好きなの。とっても素敵な人だから、ライバル
多いんだけどね。
もしかしたら、このブレスレットの話したらお近づきになれるし、私にもプレゼントくれる
かもしれないでしょ?」
口実が出来てうれしいと笑顔で言う香澄に、ゆめは自分の願いが彼女にとってもプラスになるという
安堵感とともに、ちくりと胸を指す小さな感情を見つけてなんだか居心地が悪かった。
「友達として、協力してよね?」といつもよりも艶のある声で意味深な視線を送ってくる香澄に、
ゆめはどう返していいのか迷ったまま引きつった笑顔を浮かべた。
予鈴が鳴り先生が教室に入ってきたのを機に、教室全体が落ち着きを取り戻していった。
担任の声を遠くに聞きながら、ゆめは窓の外に広がる青い空を見た。
記憶の中から雨の日に傘を刺しかけてくれた男の映像が鮮やかに蘇る。
”あの男の人は龍さん、なのかな?”
もしかしたら今日、もう一度彼に会えるかもしれない…
優しそうな男の瞳を思い出したゆめの心が、とくん、と小さくはねた。