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プロローグ・2



男は突然降り出した雨に、不機嫌そうに眉を寄せた。

こうなることを予想して傘は持参していたものの、やっぱり雨はうっとうしい。

ましてや外出したい気分ではなかったのにも拘らず、必要に応じて仕方なく出てきたのだから、空に文句の一つ言っても罰は当たらないだろう。そう思った。



降り始めてからあっという間に道路にさえ小さな川を作ってしまった雨脚にちょっとだけ躊躇し、しばらく待ったところで弱まりそうもないことを空の色から悟って、諦め気分で一歩を踏み出した。



案の定、明るい茶色だったカジュアルな革靴があっという間に濃く変色した。

合成皮革でよかったと、男は小さく呟いた。




車と人の喧騒から逃れたくて、横道にそれる路地を行く。

店の勝手口が向かい合う人一人が通れるぐらいの路地裏には、ゴミ箱や野菜のダンボール、ビールの

空き箱が乱雑に並べられていた。

生臭いゴミとどぶの匂いに混じる、水蒸気の匂い。

換気口のそばからは、揚げ物の匂いも漂ってきた。


そういえば、昼飯を食ってからずいぶんたってるよな…男はふと思い出した。

男の歩調が少しだけ早まった。




見慣れた裏通りは表通りと違い、人の暮らしの匂いが溢れている。


一歩筋を入れば、昔からこの土地で暮らしている人々の住居に混じり、新しく建てられたマンションや

アパートがひしめき合っていた。

玄関前に置かれている、プランターに植えられた赤いベゴニアや鉢植えのアロエが、雨に嬉々として

葉を広げている。


男の心が、ふと和んだ。



一瞬植物を愛でてから、再び歩き始める。

いつもと変わらない、小さな神社の大きなイチョウの木が見えた。

灰色の積み木のような都会の街に忽然と現れる緑は、まるで砂漠の中のオアシスだ。

このまま歩いていけば、神社の境内へと続く駐車場が見えてくる。

いつもは無視して通り過ぎるのに、今日は何故か男の視線がそちらへ向いた。



「ん?」

男は立ち止まり、眉間に皺を寄せてその非日常的な光景を見つめた。



白いセダンが止まっているだけの駐車場に、一人佇んでいるずぶ濡れの少女。

目を閉じているのに、まるで空を睨みつけているようだ。


紺のボーダーのTシャツに、薄手のブルーのパーカー。

濃紺のデニムのミニスカートから伸びるすらりとした白い素足に有名なスポーツメーカーのスニーカー

を履いていた。


青白い顔が、腰に届こうかというほどの長い黒髪に浮かび上がっている。

美しい顔立ちだった。



あまり面倒なことに関わりたくない男だったが、何かが心に引っかかった。

男はためらいもなく、彼女に向かって歩き出した。



ぴちゃぴちゃと道路にたまった水をはねさせて歩いているにも拘らず、少女は無反応だった。

すでに眉間に皺を寄せていた男は、今度は口をへの字に曲げた。

コイツ、こんなところで一体何をしてるんだ?

親や世間に反発することでアイデンティディを保っているタイプには見えない。

家出少女か?

その割には、荷物らしいものは一つも持っていない。


男の疑問は広がるばかりだった。



少女のすぐそばに立って、すっと傘を差しかけた。

目を開けた少女がゆっくりと顔を男に向けた。



穢れを知らない輝きの奥に感情は見えなかった。

ちらちらと見え隠れするのは絶望?それとも嫌悪か?


二人は互いの思いを抱きながら、見詰め合った。




「あなた…誰?」

「お嬢さんこそ、こんな雨の中ずぶ濡れで何を?」

「私は……私は…」


少女はそれっきり口を閉ざした。

男から視線を反らし、のろのろと血色の悪くなった唇に白くて細い指で覆った少女は、小刻みに震えて

いた。


少女は体全体で、泣いていた。

少なくとも男には、そう見えた。


「ちょっと傘、持ってて」


そう言って少女に傘を持たせた男は、靴よりも濃いブラウンのジャケットのポケットをごそごそと

漁った。

まさか、自分がこんなことをするとは信じられない気持ちのままで。



男が取り出したのは、一本のブレスレットだった。

ナチュラルカラーのヘンプが繊細に編まれ、ところどころに藍色の小さなトンボ玉と独特の形のシルバーチャームが合計5つ交互に付けられていた。


これは男にとって特別のものだった。


愛しい誰かを想って作った、なんてものではない。

もちろん、思い出深い品でもない。


これらアクセサリーを作って売ることで生計を立てているのだから、店に出せないものを作るというのもおかしな話だ。

けれど、出来上がったこのブレスレットを手に取った瞬間、どうしても手放したくなくなった。

もちろん、売ってくれという客は後をたたないが、売ってもよいと思える相手にはいまだ出会ってはいなかった。


それを、見ず知らずの少女に上げようというのだから…。

男は苦笑した。



傘を持つ少女のほっそりした右手首に、男は手を伸ばした。

ただそれだけなのに「きゃぁっ!」と叫んで手を引いた少女は、顔面蒼白で俯いたままがくがくと

震えていた。

心がぎゅっと痛んだ男の眉間に深い皺が寄った。


「大丈夫、これをつけるだけだから」

本人も驚くほどの優しい響きは、冷え固まってしまった少女の心を少しだけ溶かしたようだった。

俯いた顔を上げると、どこまでも澄み切った二つの瞳があった。


まるで吸いつけられるかのように、少女は右手を男に差し出していた。

無意識だった。

自分の無意識の行動に驚いたのは、少女も同じだった。


男はうやうやしく祈るようにブレスレットに口付けし、そっと少女の手首に巻きつけた。



「…これは?」

「オレからのささやかなプレゼント。お嬢さんにあげるよ」

「そんなっ!いただけません!」

「オレが作ったもんだし、もらってやってよ。

 幸運を呼ぶアイテムになるって、案外と評判いいんよ?これ」

「あ…」


手首に巻きつけられたミサンガを少女が見つめた時、男は傘を残したまま雨の街へと駆け出した。



男の背中に、慌てた少女の声が届いた。

「あっ…あのっ!ありがとう!」


一旦足を止めた男は振り向かないまま右手を挙げ、再び走り出した。







少女には不思議でならなかった。


怖くて怖くて仕方のない人種だったのに。

なぜ自分は恐怖をわずかにでも押し退かせてくれるほどの、言いようのない感情をあの男に抱いたのか?

この温かくて、それでいてズキリと疼く、この感覚は一体…?


少女は左手でミサンガが飾られた手首を握り、男の去っていった方向をじっと見つめていた。










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