14話
『なんでこんなことになってしまったんだろう?』
ゆめは恐ろしくて、苦しくて、どうしていいのかわからなくなっていた。
目の前には長年恐れてきた、もう二度と顔も見たくない義父がいる。
それだけでも耐え難いのに、母までがこの場に来るという。
龍やいろはに、壊れきってしまった家族関係を知られることが恥ずかしくてたまらなかった。
彼らの前でもし母親が以前みせたあの冷たい目を向け、攻撃を仕掛けてきたら。
そう考えるだけで、ゆめはどうやって二人に嫌われることなく、母親をかばったらいいのかわからなくなった。
母親が夫と幸せな生活ができないのも仕事で忙しいのに煩わせてしまうのも、すべて自分の責任だとゆめは信じていた。
全ての原因は自分が至らないからだ。
それゆえに、自分は幼いころから母親から愛されず、信じてももらえないのだ。
それがゆめが出した結論だった。
だからゆめは、母親が自分ではなく自身の夫の言葉を信じることを知っていた。
もしかしたら今回は…という淡い期待がないわけではないが、おそらく起こるであろうあの悪夢の再現のことを考えると逃げ出したくてたまらなかった。
龍やいろはの前で実の母親から罵倒されることに耐えられるだろうか?
それとも、二人も自分の言うことは信じてくれないのだろうか?
母親がやってくるであろう時間が近づくにつれ、ゆめは恐怖にどん底まで突き落とされたような気分になっていった。
龍が義父を見張り、いろはが肩を抱いてくれていなかったら、きっと恐怖に狂っていただろう。
ゆめはそれでもこの場から消えてなくなりたいとばかりに、体を縮こまらせた。
いろはが電話してから約20分後。
玄関のチャイムが鳴った。
いろははぽんぽんと元気付けるようにゆめの肩をたたいてから、あわてて立ち上がった。
玄関が開くと、そこには見慣れた母の姿があった。
30代半ばだというのに、現役のモデルだと言ってもいい程華やかで美しい人だった。
ゆめをそのまま大人にしたような容姿は、しかし冷淡で近寄りがたかった。
その瞳や口元は冷たく、今は特に不満や怒りがにじみ出ていた。
元モデルのキャリアウーマンらしく堂々と歩き、状況を確かめようとぐるりと辺りを見回した。
そして最後にゆめを見ると、その目には憎悪が浮かんだ。
ゆめは小刻みに震え始めた。
母親は大またでゆめに近づいたかと思うと、その頬を思いっきりひっぱたいた。
その場の空気が凍りつき、誰もが息を呑んだ。
「…またなの?この売女…っ!」
母親の言葉に元気付けられた義父は、うれしそうに自己弁護を始めた。
「そ、そうなんだ!父親としてちょっと顔を見にきただけなのに、
急にこの子が誘惑してきて…」
「…あなた、どうやってここを知ったの?まさか私の携帯を盗み見て…」
「ち、ちがう!こ、この子から連絡を…っ!し、信じてくれっ!」
母親の目が厳しさを増した。
「ゆめ、ほんとなの?」
「ち…ちがぅ、そ、そ、んなこと…」
「ほんとのこと言いなさいっ!」
母親が手を振り上げると、ゆめは自分をかばうように両手で頭を覆った。
しかし、いつまでたっても平手が飛んでこない。
恐る恐る目を上げると、そこには母親の手をつかむ龍の姿があった。
「娘さんが辛い思いをしたというのに、話も聞かずに手を上げるとはどういうことですか?」
龍の静かな問いかけに、母親は戸惑い、恥じたように俯いた。
しかし、龍の手を払いのけると、今度は龍をにらみつけて言った。
「貴方はこの子のがいかに悪質か、わかってないんですよ。
この子がこうして義理の父親をたぶらかしたのは、今回が初めてじゃないんですよ?
実の母の夫に手を出すなんて…そんな女、家畜にも劣りますよ。
そう思いませんか?」
「彼女はそんなことができる人間では、決してありません。
それに、彼女に限ってそんなことは絶対にないと断言できますが、もし彼女が父親を
誘惑したとしても、それは誘惑に乗ってしまった大人の責任ではありませんか?
彼女はまだ17歳の未成年です。法律でも保護されている子供です。
…あなたのご主人がその彼女に対してした行為は法律を犯しているし、
なによりも責任ある大人の対応とは到底いえません」
「そんな御託…」
「どちらがですか?今警察を呼んでみてください。罰せられるのはあなたたちですよ?
彼女に対するあきらかな虐待行為です。
…どうしますか?公的な第三者に判断を仰ぎますか?」
龍の真っ直ぐな瞳に、母親はひるんだ。
義父は母親の服をひっぱり、「け、警察だけは、勘弁してくれ!」と情けなく懇願している。
ゆめはそんな光景を冷めたような、物悲しい気持ちで見つめていた。
たまらなく…辛かった。
「…龍さん!」
ゆめは声を上げた。
「お願い…警察に、連絡しないで。お父さんのこともお母さんのことも、責めないで。
私…私が悪いの。私が…だから……お願いします」
「ゆめ…」
苦しそうにゆがんだ龍の表情にゆめの心は痛んだ。
けれども、ゆめには母親を責めることはできなかった。
どうしても。
そんなやり取りにいらだち、腹を立てた母親は床を2度踏み鳴らし、怒鳴った。
「もういい、もういいわっ!いっつもいっつも自分ひとりが被害者みたいな言い分!
うんざりなのよっ!
何であんたみたいな子、引き取ったのかしら?あんたがいたら、ろくなことないのよ!
こんなことなら、あのろくでもない男に押し付けてやればよかった!
あんたの顔なんて見たくない!もう私の娘なんかじゃないわ!
荷物まとめて出て行くのね!」
ゆめの心はついに見捨てられてしまった痛みにぎゅっと縮んだ。
焼けるように痛む喉をかばうように両手で覆い、ゆめは硬く目を閉じた。
そうすれば現実が消えてなくなってしまうかのように。
そのとき、龍の何の迷いも感じられない、温かな声が聞こえてきた。
「では、こちらで娘さんをお預かりします。幸いこの部屋は空いてますし、私たちも
彼女を見守っていけますから。
…ですから、もう二度とご主人をここによこさないでください」
ゆめはその一言に驚き、龍を呆然と見た。
この期に及んで、自分を守ろうとしてくれる人がいることが、信じられなかった。
「勝手にすればいいわ。私には関係のないことだから。
…私たちの目の前にその顔を見せなければね。
荷物は、私たちがいない時に勝手に持って行きなさい。
うちのものを盗んだりしたら、承知しないからね!」
母親は義父にあごで合図してから玄関に向かって歩き出し、義父はその後をあわてて追った。
靴を履き終えてくるりと振り向いた母は、最後にゆめをあざけるようにつややかな唇を吊り上げた。
「…ほんと、男を手なずけることが上手なのね。
そうやって生きていくのがあなたにはお似合いね?」
ゆめの心は開放感と絶望の間で揺れ動いた。
ぽっかりと開いた穴に落ちたような、無の空間を漂うような、おおよそ現実感のない感覚に支配されていた。
それなのに、ゆめを抱きしめながら泣きじゃくるいろはの泣き声と温もりを感じ取ると、心が少しずつ癒されていくようだった。
龍の大きな手が、ゆめの頭をぽんぽんとたたいた。
「今日から俺たちが喜びも悲しみも分かち合う、ゆめの家族だ。よろしくな」
”家族”
ゆめがずっと心の底から求めていたもの。
当たり前に互いを愛し、愛される、そんな人たち。
それを何のためらいもなく与えてくれるという龍の言葉に、ありとあらゆる感情が一気にこみ上げた。
龍の一言がゆめの心の奥深くにまで染み込んでいく。
頭に乗せられた龍の手を震える両手で掴んだとき、ゆめは生まれて初めて大声を上げて泣いた。




