13話
「…そろそろ店を閉めるか」
龍は既に閉店時間を若干過ぎているのに気付き、苦笑した。
ゆめがうちに来てから、アイデアが面白いように浮かび、製作に熱が入る。
店にはあちこちから引き合いがあり、生産予約まで発生するほどの繁盛ぶりだった。
龍は、ゆめがいるだけでなぜか安心できた。
そばでおっとりと笑ってくれるだけで、楽しそうに話をする声を聞くだけで、幸せな気分になれるのだ。
これまでは憑かれたように作品に向きあってきたが、それとは違う情熱が体に満ちていると感じていた。
『随分年下の、妹と同じ年の女の子相手なのに』
いろはに指摘されるまでもなく、龍自身も十分に驚いていた。
早く店を閉めてゆめと夕飯を食べようと考えた途端、龍の心は浮き立った。
まるで新婚の夫のようだと、そう考える自身にも苦笑した。
龍がシャッターを下ろそうと店の外に出ると、見知った制服が見えた。
顔は陰に隠れて見えない。
「誰?」と声をかけると、その人物が明かりの中にゆっくりと進み出た。
「龍…さん」
「香澄ちゃん。随分遅い時間だけど、どうしたの?うちの人が心配してるんじゃ…」
そういい終わる前に、香澄は龍の首に抱きついた。
思わせぶりに胸のふくらみや下半身を押し付けてくる。
龍は驚きと嫌悪感で顔をゆがませた。
「香澄ちゃん、なにを…」
「ねぇ、龍さん、抱いて…お願い。私、ずっと龍さんのこと…」
瞳を潤ませ、龍を見上げてくる香澄の顔は、これまでもよく見てきた女の顔だった。
欲望の向こうに見える、自信をみなぎらせた、計算高い瞳。
物静かで大人びた印象の龍は、昔から女性に人気があった。
それは人と付き合うことが苦手で周囲から一歩引いた立ち位置を保っていたに過ぎないのだが、いつの間にか龍は孤高の存在として祭り上げられ、龍と付き合えることが一種のステータスと見られるようになっていた。
それでも若いころは遊んだ時期があったが、早いうちからそんなゲームめいた関係に嫌気がさし、以来特定の女性と付き合うことはなくなっていた。
今でも店に出ていると多数の”お誘い”を受けるが、全てやんわりと断り、距離をとってきた。
だから香澄からの告白のようなこともさして珍しいことではないし、普段ならば高校生の情熱と微笑ましくすら感じるものだが、なぜかこの時ばかりはわずかな苛立ちを感じた。
その原因は、初めてゆめがこの店を訪れた時に香澄が見せた表情。
ゆめに対する軽蔑や優越感、それに嫉妬。
ゆめを傷つける者は、許せなかった。
それがたとえ、過去に起こったことであっても。
そんな気持ちにふたをして、龍は香澄の肩をやさしく押して体を離そうとした。
しかし香澄が離すまいとして、ますます力を入れる。
「やめてくれないか。悪いけれど、君の気持ちには応えられない」
「ねぇ、私、結構もてるんだよ?お願い、一回だけでいいから。絶対に満足させてあげる…」
嫌悪感が怒りに変わり、龍は先ほどよりも力を込めて香澄を引き剥がした。
真っ直ぐな香澄の瞳が怒りに燃え上がる。
「私がほしくないのっ!?」
「君はお客さんで、俺は店主。それ以上の関係にはなれないし、考えられない」
「じゃぁ、ゆめはいいのっ!?あんな冴えない子!何であの子にばっかり贔屓するの!?
私もちょーだいよ!特別なブレスレット!
私のほうが龍との付き合い長いのに、あんな陰気な女に持っていかれるなんて許せない!」
どんっ!
龍が突然店の壁を殴りつけ、香澄はびくり、と体を振わせた。
龍の瞳はまるで氷のように冷たかった。
初めて見る龍の表情に、香織はようやく自分の失言に気付いた。
「あ、あの…」
「悪いが、帰ってくれないか?もう店を閉めるから」
その一言が、香澄の心臓を矢のように貫いた。
どこまでも冷たい、刺し殺さんばかりの口調。
何も言わずその場から走り去っていった香澄の後姿を、龍は睨みつけるように見送った。
「こっわぁ~!そんな龍、久々に見たかも」
「…あんなふうに言うつもりはなかったんだけどね…」
にっと笑いながら物陰から出てきたいろはに、龍は気まずそうに笑いかけた。
「それもこれも、ゆめちゃんが原因かな?」
「うっせぇ」
頭をくしゃくしゃと撫でると、いろははくすくす笑った。
いろはがいてくれなければ、きっと夕飯の時にゆめに心配をかけたに違いない。
龍はそうならなかったことに心の中で安堵し、いろはに心から感謝した。
「で、どうしたんだ?もう帰ったんじゃなかったのか?」
「うん、ちょっと忘れ物!実はお義母さんへのプレゼントを二階に置きっ放しにしてて。
明日会うことになってるから取りに来たの。
愛しのだんな様も突然の残業で帰れなくなっちゃったしね」
「じゃぁ、一緒に外から回るか」
龍は店の戸締りをしてから、いろはと一緒に外階段を上った。
すると、がたがたと何かが倒れたような物音と同時に小さな悲鳴が聞こえた。
「……ゆめっ!」
「え!ちょっ…ちょっとっ!龍!?」
いろはを無視して階段を駆け上った龍は、ドアが施錠されていることを確認するとすぐに合鍵を使って
家に入った。
目に入ったのは、ゆめにのしかかる見知らぬ男の姿だった。
いろはがゆめの名前を呼び、悲鳴を上げた。
驚いて振り向いた男を、龍は思いっきり殴りつけた。
逃げようとする男をさらにもう一発、止めに下腹も殴りつけると、男は腹を両手で押さえ横たわった。
「ゆめちゃん…?ゆめちゃんっ!!」
いろはの声に振り向いた龍は、目を見開いたまま、まるで人形か抜け殻のようにだらりと体を横たえるゆめを見た。
感情のない瞳には、絶望と諦め以外何も映さない。
龍は底知れぬ恐怖を感じ、いろはを押しのけるようにしてゆめを抱きしめた。
「ゆめ?ゆめ?おい、返事しろ!ゆめっ!」
頬を軽く叩いてみても、何の反応もなかった。
ゆめを守れなかった絶望感が腹の底からわきあがってくる。
目から頬にかけて引かれた一筋の涙の線を、龍は慈しむように何度もなぞった。
「ゆめ…ゆめ、ごめん、ごめんな。俺、守ってやれなくて。
ゆめ…戻って来い、俺のところへ…なぁ、頼むよ…頼むから。
今度こそは絶対に守るから…ゆめ…ゆめ…」
ゆめがぴくりと動くのを、龍の指先が感じた。
瞳を覗き込むとゆっくりと焦点が定まり、きれいな瞳が龍を真っ直ぐに見つめた。
「…龍…さん?」
「ゆめ……」
龍はやさしくゆめの頬を撫でた。
額にひとつ口付けを落とすと、ゆめは顔をくしゃりと歪ませた。
「龍さんっ!」
「ゆめ…もう大丈夫、大丈夫だから…」
龍にしがみ付き、ゆめは声を押し殺して泣いた。
龍はゆめをぎゅっと抱きしめ、髪を優しく撫で続けた。
龍の胸に安堵と温かな感情がこみ上げてきた。
もうゆめを離せそうにない。
そう強く思った。
「龍、警察に電話…」
いろはが遠慮がちに言った途端、男が慌てて声を荒げた。
「け、警察なんて!電話する必要はない!僕は何も悪いことなんてしてないんだ!
僕は、彼女の父親なんだから!」
その言葉に、ゆめの肩がびくりと跳ねた。
「父親…?」
龍の顔が憎しみに歪んだ。
この男が?
父親?
娘を強姦しようとした父親…そんなこと、ありえない。
しかし、男はふんぞり返ったように言った。
「そうだっ!それなのにお前は僕を殴りつけて…」
「貴方は!…いったい自分が何をしていたのか、理解していないのですか?」
龍の言葉に、男はひるんだ。
しかしそれも一瞬のことで「妻を呼べ!妻を!」と騒ぎ出した。
ゆめは不安そうに龍を見上げた。
「龍さん…っ!」
「大丈夫。俺が付いてるから」
龍が目で合図すると、いろははゆめの母親に電話をかけた。