第9話
意識だけがはっきりした。
こめかみのあたりがつきつきと痛む。晃は眉間にしわを寄せた。風邪でふらふらになっているのに耳元で翔吾に叫ばれた時のような感覚が晃を襲う。
何か違和感がある。体の方は問題がなさそうな気がするのだが、しかし、確かにおかしい。
思い出してみる。記憶の中で最も新しい過去は、部室で倒れた瞬間。覚えがある。その前の日に由佳とケンカをして、さらに前には頭を打って入院して、その前には由佳に告白をされて――
そこまで思い出したところで晃はふと思考を止めた。いや、止めようとした。だが脳の動きだけは晃の力では押さえることができない。だから無駄だった。
『ハマグリさん』を思い出す。宇宙怪人ネドベダーがハマグリ一家を襲いにきたのだ。家中が粘菌だらけになってハマグリさんの妹のシジミや弟のブリが途方に暮れていると、変身したウルトラハマグリさんが現れて、宇宙怪人ネドベダーと戦うのだ。
ほんの少し前までは思い出せなかったその内容がすらすらと出てきたことで、晃はようやく気づいた。
記憶が、戻っている。
何がきっかけだったのかは知らないが、確かに記憶は元通りになっているのだ。
つまり、由佳に言われたことも――思い出したのだ。
目を開ける。
「気づいたの?」
日に焼けた肌に短い髪。大きな目はこぼれ落ちてきそうだった。久しぶりに、彼女の穏やかな顔を見たような気がする。
保健室、なのだろう。何度か仮病で寝に来たことがある場所だった。カーテンで仕切られたその場所に、晃は寝ている。ベッドが堅いのは、学校であるという性質上仕方がない。とても寝心地がいいとは言えないベッドの隣に、由佳が座っていた。
「……由佳」
晃はつぶやいて、にい、と口の端をあげた。由佳のほほが赤くなる。
「……記憶、取り戻したわけ?」
「おう。思い出した。玲治のせいだなこりゃ。あいつになんか変なことを言われた瞬間に思い出したんだから」
「玲治ってば、聞いてたんでしょ、先週の」
「らしいな。オレがすっかり忘れてたけど」
「さっき、ものすごい顔であたしのこと呼びに来たの。そのときに白状したわ」
のぞきなんて趣味が悪い。由佳は晃に目を向けようとはせずに、そっぽを向く。
ゆっくりと体を起こすと、倒れた時にすりむいたのだろう、ひじに見覚えのない擦り傷ができていた。だがほかに異常はない。
由佳はそれでも晃の方を向こうとはしなかった。仕方がないので晃は由佳の頭を片手でつかみ、くるりと強引にこちらを向かせる。
大事なことを思い出したのだ。
「ちょっと、何するのよ」
「おまえがこっちを見ないからだろ、由佳」
瞬間、由佳が息を呑む。みるみるうちにゆでだこのように赤くなり、首筋まで紅に染めながら、せめてもの抵抗とばかりに視線だけ逸らす。
「いきなり名前呼びなんかしないでよね。ついさっきまで委員長って呼んでたくせに」
由佳の声は震えている。それでも晃は容赦しなかった。なにしろ晃は約束通り、ちゃんと考えたのだ。
「OKでもそうでなくても委員長以外で呼べって言ったのはおまえだぞ」
どうやって伝えようかと悩んでいて、前を見ていなかった。だからあの日、晃は足を滑らせたのだ。
「名字で呼びなさいよね。ふつうはそうでしょ、ただのクラスメイトなんだから」
「ただのクラスメイトじゃなかったら、違う呼び方になるだろ?」
今更だ。一週間もほったらかしにしておいて、何を言おうというのだろう。思いながらも、晃は言葉を止めることはなかった。
にやりと、晃は笑った。
「相手が恋人だったら、名前呼びのほうがいいじゃん」
「な、にを言ってるのよ、あんたは」
ふざけるのもたいがいにして。そういって晃の手を振り払う。
だが、その振り払われた手を、つかんだ。晃はそのまま、自分の方へと彼女を引き寄せる。突然の衝撃に、由佳の体は晃の寝ているベッドの上に倒れた。晃の膝に、由佳の重みが加わる。彼女の汗のにおいが鼻をかすめた。唐突に、あの日の部室が思い出される。
「……なんなのよ」
「一週間もたっちまったよなあ、あの日から」
そうだ、一週間もたっていたのだ。すっかり忘れていた晃には関係のないことだが、何も忘れずに覚えていた由佳にとっては、苦しい期間だったに違いないのだ。
数学の公式も思い出した。『ハマグリさん』の内容も思い出した。ぽっかりと不自然にあいていた穴には、あるべきものがきちんと戻されていた。
ならば――忘れていることは、あと一つだけだ。
「だから、何」
「おまえが怒ってる理由がわかんなくて、思いっきり切れたじゃん。けどオレが悪かったんだよな。コクられて記憶なくして、まるで何もなかったかのように委員長とか呼んでさ。そりゃー怒られもするって」
由佳は答えない。倒れ込んだまま、顔を布団に埋めようとする。
だが晃はそれを阻止した。大きな手で、由佳のほほを挟んで上を向かせる。
「悪かった。忘れちまって、答え出すのに一週間も待たせて」
「……待ってなんか、いないわよ」
もう期待してなかったから。由佳は冷たく言い放つ。
「ま、そりゃそうだよなあ」
「そうよ。同じギャグを二回言うみたいで恥ずかしいじゃない」
「告白がギャグかよ」
「ギャグみたいなものじゃない。本人はいたってまじめでも、はたから見たら大笑いだわ」
確かにその通りだ、と晃も思う。告白なんて、当事者たちには非常に大事なことなのだが、遠くから何も知らない人が見ていたらおもしろくてたまらないのだ。無駄に必死で、滑稽で、だからこそ、いじらしい。
晃はうなずく。
「つーことは、これからオレは一発ギャグを言う、ってことになるわけだな」
一回しか言わないから、よく聞けよ。念を押してから、晃は咳払いをした。
「……好きだ」
一週間前に忘れてしまった約束を、今ようやく、果たせた。
「あんまりおもしろくない、ギャグだわ」
憎まれ口をたたくものの、由佳の顔は今までに見たことがないくらいに穏やかだった。




