第8話
ああ、そうだ。と、晃は夢うつつの狭間で、何かが腹落ちするのを感じていた。脳内に、映像が駆け抜けて行く。あれは、いつのことなんだろう……
――背中に汗が伝う。運動をしたわけでもないのに、Yシャツはびしょびしょだった。じっとりと水分を含んでいるおかげで、ぺっとりと肌に張り付いている。それだけならいいのだが、しばらくすると冷たくなってきて、寒気すらおぼえる。その中間くらいで止まってくれるとうれしいのに。思うものの、だからといってどうなるものでもない。
部室の鍵は開いていた。中を見ると、誰かのかばんが置きっぱなしになっている。すぐに帰ってくるつもりなのかもしれないが、あまりにも不用心だ、と晃は顔をしかめる。確かにこの中にはとられて困るようなものなどないのだが、それは泥棒に入られてもいい、という意味ではない。
しかし、誰もいないのでは文句の言いようもない。とりあえず今の部長がやってくるまではここにいなければならないから、それから文句の一つも言ってやろうと思い、晃は古ぼけたベンチに腰を下ろした。
誰もやってくる気配はない。晃のクラスはショートホームルームが終わるのが早すぎるから、仕方がないと言えば仕方がないのだろう。ということは、ここにおいてある荷物の持ち主はさぼってここに来ている、ということになるのかもしれない。それも、晃には何も関係ないことだが。
と、戸口で音がする。誰か来たのか、と晃は顔をあげた。渡す書類を握り直す。
だが、現れたのは男子サッカー部員ではなかった。
――委員長。
由佳だ。背が高いのではじめは男かと思ったが、そんなことはない。男の無骨さからはほど遠かった。筋肉質な足をしているが、男の硬さとはまた違う。制服のスカートから伸びる足にそんな印象を受けてから、由佳の顔に視線を向ける。
――何あんた、こんなところで何してるのよ。
――オレは、ヤナギのおつかい。
――なんだ、パシリね。
――パシリって言うなよ。わざと避けたんだから。
そういうおまえは何をしにきたんだよ、と訪ねる晃に、由佳は笑いかける。
――あんたが中に入っていくのが見えたからね。
やはり暑いのだろう。前髪がしめって額に張り付いていた。彼女はそれを払いのけながら、パイプいすを一つ引き出して、座る。
せまい部室だ。近くに座った彼女の膝が、晃のそれにぶつかる。少しだけ、妙な気分になった。彼女の汗のにおいがする。
――あっという間に九月よね。
――だな。いいかげん本腰入れて勉強しねえと。
――とりあえず、あんたは授業中に起きているように努力すべきだと思うわ。
――まあなぁ~。
――は、それだけ? もっと本気出しなさいよ。
あきれながらも、彼女は楽しそうに笑った。
今日は無風に近い。窓は開いているのだが、もともと小さい上にちょうど風の通らない位置にあるものだから、室内はむっとしている。ほとんどサウナだった。流れ落ちてくる汗を止めることはできない。
――このままここにいたら脱水症状起こしそうだよな。
――それ、しゃれにならないわ。やめてよ。
――ま、大丈夫大丈夫。ホントにヤバくなったら叫ぶよ。
――そんな体力あるわけないでしょ。
これは、用事を済ませたらすぐにでも水分を補給しに行かなければならなそうだ。晃はぼんやりと考えた。
――ホントあんたって、のんきよね。
――おう。深く考えねえのがオレのぽりすぃーだ。
――ばっかじゃないの。……そういうところが好きなんだけどね。
――そりゃ光栄だ。
――……流していいような『好き』じゃないんだけど。
――は?
そこでようやく、晃は由佳の様子がおかしいことに気づいた。何か、思い詰めたような顔をしている。
どうかしたのか、と晃はおそるおそる彼女の顔をのぞき込む。
彼女は顔を上げて、晃をにらみつけた。ほほが赤いのは、暑さのせいなのか。
――あんたのこと、好きだ、って言ってるの。
――ご、ご冗談を?
――冗談でこんなこと言えるはずないじゃない。あたしは、本気で、好きなのよ。
あまりにも突然のことで、めまいがしそうだった。
嫌ではない。有名なサッカー部の部員、ということで今までにも何度か告白をされてきた晃だったが、これほどにストレートな言葉は初めて聞いた。そもそも晃は「告白をされる」というシチュエーションには慣れることができない。だから、彼女から言われた言葉は嫌だとは思わなかったが、心地がよいとは言い切れない。
由佳のことを恋愛の対象としては、正直に言うととらえていなかった。晃にとって彼女はあくまでもケンカ友達であって、女の子、ではない。
しかし……心音が高鳴っている。どきどき、と。脈打っているのがはっきりとわかる。なぜかそれが心地良かった。でもそれをうまく言葉にはできなかった。
不意に顔を上げたら、由佳が妙に『女』に見えた。
――マジ、で言ってるんだよなあ。
――マジよ。正真正銘。
――ここにいるのは塚本晃だぞ。秀才の音霧柳でも、ストライカーの柳智一でもなく、ただのアホの塚本晃だぞ。
――そのただのアホがいいんだってば。
――否定しろよ。
――事実だし。
告白をされているこの場面で、どうしてバカにされなければならないのかわからなかったのだが、しかし、それは細かいことだ。どうでもいい。晃はもう一度考えを巡らせる。
彼女のことは、嫌いではない。どちらかといえば、好きだ。
キスをしている場面を思い描くことができる。彼女が女の子だと思ったときに、健全なオトコノコとしていろいろな想像をすることもできる。
ただ、その思いが本当に恋愛感情であるのか、それがよくわからない。
晃は腕組みをした。
――一日。一日だけ、考えさせてくれ。
――断るなら今すぐ断ってくれた方が親切よ。
――そうじゃなくて。確かにオレは委員長のことが好きだけど、それが本当に恋愛につなげられるのか、ゆっくり考えたいんだよ。軽はずみにOKしておいて、すぐにやっぱり無理でした、じゃ最悪だろ。
――あんたって、本当に変なところまじめよね。
由佳はほほえんで、じゃあ明日の放課後に返事を聞かせて、と言った。
――ただし、OKにせよそうじゃないにせよ、どっちにしても「委員長」って呼のはもうやめて。
――遠野、って呼べばいいのか。
――好きにして。ただ、あたしは「委員長」って名前なんじゃなくて、遠野由佳って名前なのよ。それだけは忘れないでほしいの。
――……了解。遠野。
晃は歯を見せる。明日になったら由佳って呼んでるかもな。そんなことを言った。
由佳はほほを赤らめて、変に期待をさせるのはやめて、とそっぽを向いてしまった。
それは、一週間前のこと。
晃の記憶が飛んだ日のことだ。
……それが暴走する馬のように駆け抜ける中、晃はフッと、目を開けた。




