第7話
カップラーメンのいいにおいがただよっている。日に焼けた肌と茶色い髪、それに整った顔立ち。第一印象ではフランス料理か何かを食べているのが似合いそうなのに、一度口を開くと単なるクソガキだった。にこにこ笑いながらラーメンができあがるのを待っている彼を見ると、ますますその思いが強くなる。
晃は半ばあきれながら弁当をつついている。
「玲治……おまえ、食べ物を前にすると本当にうれしそうだよな」
「そりゃそーっすよ、晃サン。食う寝る遊ぶサッカーするがオレの人生におけるメインイベントすからね」
「そりゃ安いイベントだ」
にまにま笑いながら佐藤玲治が割り箸をとる。きちんと両手をあわせて「いただきます」とつぶやいてから、彼はふたを開けた。
サッカー部の一つ下の後輩とはそれほど話をするわけではない。去年、同じサッカー部だったときには司令塔とフォワードというポジションがらよく話をしていたものだが、引退してからはそもそも晃が部室へ近づくこともなくなっていた。それだけに話をするのはだいぶ久しぶりな気もする。今日だって、玲治から「もう我慢出来なくて、どうしても聞きたいことがあって!」などと縋られなければ来るつもりもなかった。
「それにしても晃サンて、いっつも豪華な弁当っすよね」
「そーか? 自分で作ってるからなあ、あまり意識したことねえや」
「え、自分で作ってるんすか」
「おうよ。チビとオレと隼人と、あと父さんと母さん。五人分の弁当作りがオレの日課だからな」
「うわ、なんか新事実。まさか、そのかわいらしいたこさんウインナーも晃サンの作品なんすか」
「当たり前だろ。ちなみにウインナーが足りない時はかにさんだ」
「……オレ、晃サンのこと、どうもうまく理解できないっすよ」
無骨なくせに家庭的っすね。失礼なことをけらけらと笑いながら告げる後輩に少々むっとしながらも、しかし、その意見も一理あると思ってしまう。
去年の家庭科で帽子を作ったときには、ミシンの使い方が手慣れていると言われた。今年の家庭科で調理実習をしたときに、レシピを見ずにクリームシチューをルーから作ったら腹を抱えて笑われた。どうも晃には「家庭」という言葉が似合わないらしい。実際は、家中の家事を一手に引き受けているのが晃なのだが。
「玲治はいつもカップラーメンだよなあ」
「うちは母さんが夜の仕事してますからね。かといって自分で作るようなつもりはさらさらないし、自然とカップラーメンになるんすよ」
「不健康だろ、そりゃ」
「ま、仕方ないっすよ。サッカー選手としては最悪っすけどね」
「だったらオレがおまえの分まで作ってくるぞ。五人分も六人分も大差ねえし」
「マジっすか? んなこと言うと遠慮なく作ってもらっちゃいますよ」
「おう。んじゃ、隼人に持たせるか。あいつと同じクラスだったよな」
「同じっす同じっす。いやーもう、オレ、塚本兄弟には頭あがんないっすね」
悪びれた様子などかけらも見せずに玲治は豪快に笑う。
「塚本兄弟って……隼人のやつもなんかしてんのか?」
「いえっさ。オレ、あいつにいつも宿題うつさせてもらってんすよ。オレにはジュース一本で手ぇ打ってくれますから。兄貴が世話になってるから、って」
「あいつ、んなことしてんのかよ」
「知識は財産だ、とか言ってましたよ。テスト前とか、ノートのコピーを利益が出るようにして売ってますからね」
そういえば、テスト前になると隼人は自宅のコピー機でなにやら印刷している。なるほどあれはテスト前にクラスメイトに売りつけるためか、と気づく。
顔に似合わずあくどいやつっすよね、と、玲治は言う。その玲治も、顔に似合わずすっとんきょうな性格をしているのだが、そこはあえて見ないことにしておいた。
「あー、そういえば、隼人。隼人っすよ」
玲治が手を打って晃をびしりと指さす。
「昨日、隼人になんか言われなかったっすか。オレ、それがもー心配で心配で」
「何かって……別に何も言われてねえぞ」
「マジっすか? んじゃあいつ黙っててくれたのか。つーことは、オレ今墓穴掘りましたよね。やっべー」
「……何を言ったんだ、おまえは」
黙ってると許さないぞ。言外に込めて、にらみつけてやる。だが玲治はやはりひょうひょうと、ごく当たり前のことのように、告げた。
「いやあ、先週ここで晃サンが女子サの元部長にコクられてんの見ちゃって、それをうっかり隼人に言っちゃったんすよね。だから、あいつにいろいろとからかわれてんじゃないかなーと思って」
「コクられたって……誰が?」
「晃サンっすよ」
「誰に」
「女子サの元部長っすよ。遠野由佳パイセン」
「……オレが? 委員長に?」
「晃サン、ぼけたんすか? 先週の水曜日、コクられてたじゃないっすか」
「先週、水曜……」
「で、結局どう返事したんすか」
興味津々で身を乗り出してくる玲治。そうか、こいつはオレが記憶を失ったことを知らないんだ。晃は理解した。だからこいつは、先週の水曜日に起こったことの結果を聞こうとして晃をここに呼び出したのだ。
女子サッカー部の元部長、委員長、遠野由佳。
――アタシ、塚本ノコト――
急激に、色々なものが見えてくる。
壁に飾られた賞状は、遠い昔のものだ。まだ地区大会でもなかなか優勝できなかった頃のサッカー部の、小さな小さな賞状。
サッカーグラウンドは広い。その片隅に部室が建てられている。創部から一度だけ建て替えた程度だから、おそらく築二十年はたっているのだろう。あちらこちらにガタがきていて、冬寒く、夏暑い。女子部は由佳が去年作ったばかりで、男子部の部室を一緒に使っている。だから部室には男子部も女子部も当たり前のように集まってくる。だいたいは賑やかだ。ただ、時々フッと人がいなくなるときもある。
そうだ。あの日、ここに、由佳がいた。由佳だけがいた。彼女の鍛えられた足を晃は見ていた。
――ずっと言おうと思ってたんだけど――
部室のそばにいたけれど、靴は確かローファーだ。着ていたのも制服だったと思う。だから、部活中のことではない。たぶん、部活が終わった後か、部活がなかったときか。
つきん、とこめかみのあたりが痛んだ。
どくん、どくん、と心臓が踊り狂う。そのリズムに合わせて、脳がかき混ぜられる。どくんどくん、と心臓が踊る。目の前からさーっと光が引いていく。足首から力が抜ける。膝から力が抜ける。腰から力が抜ける。腕から力が抜ける。肩から力が抜ける。首から力が抜ける。がたがたと音を立てて、地面に沈んでいく。
――あ、これ、ヤバいかも。
思った次の瞬間には、脳内にガンガンと音が響いていた。現実なのか、幻覚なのか、それは全くわからない。ただ、吐き気がして、耐えられなくて、それを吐き出さないようにするのでやっとだった。硬い床に身体がぶつかる。だが痛いと思う余裕すらなかった。
「晃サン!」
せっぱつまった玲治の声が耳に聞こえた。
だが次の瞬間、その声もぱたりと閉じた。




